その日暮らしの人類学の中で言及があり、面白そうだったので購入。
著者は中国の専門家ではなく、経済の専門家として新聞社から北京に派遣され、その間に観察した中国経済なるものについて自身の言葉で解を見つけようとしたものとのこと。
文化的な背景によって違うOSを持つ国が資本主義というアプリケーションをどう動かすかという着眼点は、そのとおりだと思うし、非常に興味深い。本書の中で語られる中国らしい事象は、これだけ自分が中国情報に触れていると目新しいものではないが、それらの行動原理・動機を解き明かそうとしている。起きている事象にたいし、中国人はこう考え、こう行動するというある種のパターンが実例を伴って多く出ているが、なぜそう考えるようになるのかというあたりはやはり歴史を紐解いていく必要があるのだろうか。。そのあたりに関する分析は少し希薄な感じがしたが、そこを解き明かすのは非常に時間のかかる作業であるような気もする。
2005年に自動車ローンの半分以上が不良債権化したが、限られたネットワーク内の貸し借りであれば、回収不能な融資は2.7%という興味深いエピソードが出てくるが、これも”返さない”のではなく、”返すため”の規範というかインセンティブが内と外で全然違うということだろう。
発売が2007年とだいぶ前なので、中国人のはちゃめちゃな行動はだいぶ抑制されていきているようには思える。
それでも根っこに流れる考え方は(特に経済的な腐敗に関して)、あまり変わらないだろうと思う。
P.19(ミシェル・アルベール「資本主義対資本主義」)
ネオアメリカ型資本主義は、現在、「市場原理主義」と揶揄されるものだ。株主利益を最優先させる資本主義のタイプである。(中略)一方、ライン型資本主義は、ライン川流域のドイツ、フランス、オランダのほか、スカンジナビア地域、そして日本に見られるタイプの資本主義だ。企業は長期的利益と安定性に重きを置く。企業は利害関係者(Stake holder)、つまり株主、経営者、従業員全体のものであると考える。特に従業員の利益が優先される。終身雇用が多く、資金格差も小さい。
P.39(社会規範の射程の短さ)
親しい友人(ポンヨウ)の間に広がるネットワーク、地縁、血縁のネットワークのなかには、共同体的紐帯が存在する。そのなかには、礼儀もあり、譲り合う精神もあり、助け合いも、信頼も存在する。濃厚な社会規範が存在する。そうしたネットワークは、会社組織などの形式的な、目に見える組織とは別次元に存在し、それを横断して広がる。(中略)まったくの他人が相手になると、とたんに社会規範が存在しないような行動を見せる。ネットワークないで見せたやさした、相互扶助、礼儀、信頼などが、ネットワークの外部には届かない。(中略)このため、社会全体のレベルで見ると、統一的な規範が極端に希薄になる。(中略)ネットワーク外部では、礼儀も規範もないような行動が横行することになる。経済行為でもまったく同じである。人的なネットワークの外部では、「信用」という社会資本が整備されていない。
P.44(世間が覆う日本社会)
日本には、「他人様」「人様」「世間様」という中国では存在しない言葉がある。(中略)日本社会は「世間」という大気に覆われている。ここで言う「世間」とは、社会学者が言う「ゲマインシャフト=共同体」と同様の意味と見ていい。ある目的に向かって進む無事ネスライクな機能集団とはちがい、共同体は、いわば生活にどっぷりと根ざし、構成員に感情的な結びつきがある集団のことで、家族や、向こう三軒両隣のご近所づきあいが典型だ。(中略)日本は、「世間」(拡大共同体)という大気に覆われた社会空間であり、そのなかに、会社や家族といったより濃度の濃い「狭義の世間」が点在している。日本全体が「世間」でもあるし、そのなかの家族が世間であるし、会社組織も世間であるし、地域社会も世間dえある。いわば世間の入れ子構造が存在する。(中略)日本では、「株主総会で社長を守るために」、総会屋に賄賂を贈る企業幹部にとって、周囲の「一般的な世間」より濃度の高い「会社という世間」が宇宙なのであって、そのなかの善悪の基準が最優先される。そのために、その外側の拡大世間共同体=日本全体の「世間様」に迷惑をかけることになる。
P.53
江戸から明治への平和裡の体制転機に大きく貢献した勝海舟は、日清戦争の後、中国について、次のように述べている。
支那人は、一国の帝王を、差配人同様に見ているヨ。地主にさへ損害がなければ、差配人はいくら代つても、少しも構わないのだ。それだから、開国以来、差配人を代ふること十数回、こんな国状だによつて、国の戦争をするには、極めて不便な国だ。しかし戦争に負けたのは、ただ差配人ばかりで、地主も依然として少しも変らない、といふことを忘れてはいけないヨ。二戦三戦の勝をもつて支那を軽蔑するは、支那を知る者にあらず。(勝海舟『氷川清話』)
P.56(談合VS賄賂)
日本は談合、つまり、同業者同士の不正な協力関係の構築に向かう。中国は贈収賄、つまり、政府要人の人的ネットワークに不正に接近して、同業者を出し抜く方向に向かう。世間が社会を覆う日本では、建設会社同士の不正が、助け合いに傾斜するのは当然の理だ。(中略)これに対して、中国では、落札を決定できる政府実力者を動かすための賄賂が不正の主流である。
P.63
社会規範の希薄な人々が構成する社会において、ある特定の場において秩序を形成するのが苦手なのは当然のことだろう。秩序を形成するとしても、それは「個」と「個」のぶつかり合いによって調整するしか方法はない。(中略)当然、摩擦社会となる。(中略)結局、「強いモノが勝つ社会」を生み出す。ルールに拠らず、力と力のぶつかり合いがすべてを調整するのならば、必然的に権力のある側、力のあるもの側が勝つ。そして、これこそが、中国経済を彩る腐敗現象の根本的原因であると、私は考えている。
P.85
中国経済は、基本的に「殺到する経済」である。
「殺到する経済」とは、「儲かる」と思われる業種にドッと大勢の人々、会社が押し寄せて、すぐにその商品が生産過剰に陥り、価格が暴落して、参入した企業が共倒れになる経済のことだ。製造業を投機対象と見なす行動形態である。殺到のさらに広くとらえることも可能だ。個々の企業や個人が自分の利益のみを追求した結果、全体の不利益を被る経済のことである。
P.93
値下げ競争の悪循環に陥ったとき、中国企業も「なんとか抜け出して、収益の得られる道に進みたい」と考える。
だが、そうした場合に中国企業が取る行動パターンは実に中国的である。専門分野で製品を高度化して、他社が太刀打ちできない高付加価値商品を造る方向には向かわない。逆に「儲かる」と思われる別の分野を探して、そちらに転戦するのである。それも複数の企業が、同じことを考えて一斉に転戦するものだから、次にその分野でも生産過剰が起こってしまう。
P.96
中国の企業は、日本企業と比べ、短期的に儲けたいというマインドが強く、付加価値の高い新製品を出して、じっくりと成長していくという意思が薄い。「金さえ儲ければいい」という職業倫理ぬきの拝金主義に彩られている。(中略)独自の道を歩むという発想が少ない。利幅が大きな分野があったとしても、「これだけ多くの企業が殺到したら、共倒れになってしまうから、自分は別の道を行こう」という発想をあまりしない。むしろ、「これだけ多くの企業が殺到しているのだから、早いこと、うまく出し抜いて、利益が薄くなる前に自分だけは利益をかすめ取ろう」という態度が強い。
P.108
プレステ2は、DVDのリージョン・コードと同じような仕組みがある。(中略)中国にはアジア、アメリカ、ヨーロッパなどさまざまな地域からプレステ2が密輸される。一方ソフトも、さまざまな地域の海賊版がある。(中略)どの海賊版ソフトでも、遊べるように、機械側に専用チップを搭載し、どのばーじょののソフトでも動くようにした上で、売られている。(中略)ソニー・コンピュータエンタテインメントが、中国市場に進出して、戦わなければならない相手は、任天堂でも、マイクロソフトでもなく、自社製品の密輸盤と海賊版ソフトだった。これは、「自分の影」と戦っているようなモノで、この戦いに勝つのは非常に難しい。
P.152(権力換金システム)
中国でごく日常的に見られる不正行為は、役人の汚職とまったく同じ構造を持っている。それは、権力を金に変える錬金術、つまり、「権力換金システム」である。ここで言う権力とは国家権力だけを指してはいない。権力とは、「なんらかの資源を管理し配分する権利」のことである。その資源を直接所有していなくともいい。その資源は国家のものでも、会社のものでもいい。直接所有している資源を「富」と言い、そして資源を直接所有していなくてもその配分を決める力を「権力」と言う。そして、「権力」を「富(金銭)」に変換するには、特定の方法がある。誰かその資源を優先的に配分してほしい人を探し、その人に優先的に資源を配分してあげて、その見返りに金銭を受け取ればいいのだ。
P.161
ネットワーク内での利益供与関係が張り巡らされた社会だからこそ、ネットワークに乗って優先配分を受けることもあるし、ネットワークに乗れずに優先配分を受けられない場合もある。得することもあり、損することもあり、長期的に見れば「収支トントン」となるというのが、中国社会に生きる人にとっての常識なのかもしれない。
汚職を含むすべての「権力監禁システム」も、こうしたネットワークないでの資源の優先配分(利益供与)が、当然視される文化土壌そのものに起因していると言える。
それはそれで、一つの社会システムのありようではある。けれども、権力換金システムの横行は、極端な社会不公平を生む。さらに、そういう社会システム、あるいは社会の基本ソフト(OS)の上では、現代的な経済システムというアプリケーション・ソフトは、機能しづらい。
P.189
汚職追放は政府・党中央の政策課題となっている。(中略)あまりに汚職が多すぎて、捜査当局も手が回らないため、一罰百戒方式に頼るのは理解できる。これだと「ババを引かない」ための裏工作が、かえって活発になる可能性も強い。(中略)汚職摘発を賄賂でもって手加減してもらう行為が広がることになる。(中略)汚職役人は、共産党の規律検査委員会に身柄を拘束され、調べられ、その後、司法の手に渡されて裁判にかけられるケースが圧倒的に多い。汚職の取り締まりが、司法当局ではなく、党の組織であるために、だれを汚職で挙げるかについて、政治的な配慮が働きやすいし、権力逃走の道具に使うことも可能で、不透明さは常に残る。
P.239
中関村を管理する中関村サイエンスパーク管理委員会の責任者にインタビューしたとき、その責任者は、彼ら海亀族の企業かを評して英語で「ナイーブすぎる」(Too naive)と言った。(中略)
「中国で事業をやる場合、ときによってルールを破ることも必要だ。現実の厳しい世界ではそれもやむを得ない。だが、彼ら海亀族は、ナイーブすぎて、そういうことができない。ルールを気にしすぎる結果、他社に負けてしまう」(中略)
留学組のエリートたちは日米欧で、ルール順守の精神、つまり社会規範を内在化して帰ってきたのである。故に自国のへデラ型資本主義的なものに抵抗を感じ始めていたのである。社会規範を内在させるための最高の教育は、机に向かってモラル教育を行うのではなく、社会規範が(中国より比較的)充実した社会で、暮らしてみることである。