- Amazon.co.jp ・本 (254ページ)
- / ISBN・EAN: 9784121503237
作品紹介・あらすじ
大震災、空襲、国共分裂と、幾度となく消滅の危機にさらされながら、華僑の知恵と努力で蘇ってきた横浜中華街。世界で最も安全なチャイナタウンが成立するまでの、波瀾の歴史を紹介する。
感想・レビュー・書評
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”現在の地元・横浜について、もっと知ろう!
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T:8/17まで→○
P:次に関内に行ったときに覗きにいくスポットをリストアップする
O:五感塾ネットワークフォーラムで地元愛に目覚めたのだ
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・外国人居留地には道路が作られたが、町名はなく、現在シルクセンターのある場所を一番として192番まで、番地を付した。(p.48)
・後に、吉田橋、西の橋、前田橋、谷戸橋に囲まれた地域を「関内」、その外は「関外」と呼ぶようになった。(p.53)
・買弁(ばいべん)は、欧米商社から独立して自分の商売をするようになった。こうして130番地から160番地にはますます清国人が増え、唐人街(とうじんまち)と言われる地域を形成した。この唐人街こそ、やがて南京町と言われる、今日の横浜中華街の始まりである。(p.73)
★中華街一帯の土地はもともと、横浜新田という沼地であった。偶然、東西南北を向いていたので、風水思想を尊ぶ清国人にとってまことに都合がよい土地となった。清国人たちが、風水思想に合わせて造成したかのような説があるが、それは誤りで、幕府が造成した場所が偶然、風水に適した土地であったということである。(p.75)
#へ?、意外!
・ところで、横浜中華街の加賀町警察署に近い広東路に、「米素多奈? Mr.NAVY」という店がある。注文する人の体調に合わせて漢方食材を調合して出してくれる薬膳料理が印象的な店である。(p.123)
#お?、行ったことある!
・経済統制で1941年末には、輸出入が制限された。翌年には、繊維品の販売、消費、配給が統制され、廃業を余儀なくされて帰国する華僑が続出した。
一方、理髪業、料理業は、日本人職人の出征と華僑の来日抑制によって、人材不足となったので、労働賃金は上がった。(p.132)
#三把刀…包丁、鋏、剃刀
・「当時、中華街には金陵のほかには平安楼、安楽園、聘珍樓、盛昌楼、鴻昌、永楽軒くらいしか料理店はなく…」(p.132)
#お?、安楽園!
・横浜中華街の名料理店萬珍樓の経営者林兼正は、「僕らは、日本人のための中華料理を作っているんだ」(p.189)
★中国は漢字の国だ。店名も漢字が分かればどんな店か分かる。「楼」は、二階以上の建物で宴会場がある。「飯店」は大型のレストラン。「酒家」には座敷がある。酒家よりも小規模の店が「記」である。そして家族で経営しているような小さい店が「軒」である。(p.194)
#ほ?
・そしてようやく関帝廟は、1990(平成2)年6月に竣工し、8月14日、無事に落成式を迎えることができた。これが今現在、横浜中華街で見ることのできる関帝廟である。(p.224)
#1862(or 1873)年建立、1886年敷地拡張、1891年大改築、1945年焼失(横浜大空襲)、1946年再建、1986年全焼(不審火)、1988年着工?1990年
・横浜中華街発展会協同組合の「中華街憲章」
- 第一章 礼節待人の中華街<COURTESY>
- 第二章 創意工夫の中華街<CREATIVITY>
- 第三章 温故知新の中華街<TRADITION>
- 第四章 先義後利の中華街<CUSTOMER SATISFACTION>
- 第五章 老少平安の中華街<SAFETY>
- 第六章 桃紅柳緑の中華街<AMENITY>
- 第七章 善隣友好の中華街<HOSPITALITY>
http://www.chinatown.or.jp/lovechinatown/kensho.html” -
2017/11/16 18:21:50
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横浜中華街が出来る経緯では、慰安施設の設置が通常条約の条件であったこと。中国の革命では用心を支援したことなど期待していたよりも興味深い内容を含む一冊だった。
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今の中華街について知りたいという方にはオススメしません。むしろ日本が開国し、横浜に外国人が居住するようになり、中国人街が形成されていき、中華街となっていったその歴史、そしてそこに暮らす中国人の苦労の歴史を知りたいという方には、本書はそれを手際よくまとめてあります。個人的にはもう少し掘り下げた記述を望みたいところですが、新書という性格からすれば、この程度の料理の仕方がちょうどよいのかもしれません。