横浜中華街: 世界最強のチャイナタウン (中公新書ラクレ 323)

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  • 中央公論新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (254ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784121503237

作品紹介・あらすじ

大震災、空襲、国共分裂と、幾度となく消滅の危機にさらされながら、華僑の知恵と努力で蘇ってきた横浜中華街。世界で最も安全なチャイナタウンが成立するまでの、波瀾の歴史を紹介する。

感想・レビュー・書評

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  • 軽く手に取って読み始めたが、かなり真面目な本であった。
    自分もよく他者に世界で一番綺麗な中華街は日本の中華街と紹介してきたが、その歴史について書かれている。いろいろな変遷があったこと、中国から近かった所為か、中国から人々の出入りも激しく、その分、近現代の中国の歴史の影響をそのまま受け、ぎゅっと凝縮したような歴史があったことがよくわかった。

    また個人的に興味のあった、アメリカが日本にきた時、通訳というか筆談要員としてつれてこられた羅森という人物について多く紹介されていてよかった。彼の買いた本「日本日記」は日本語で翻訳されていないだろうか。開国間際の外国人を襲いまくる侍たちという構図も野蛮なこと極まりないが、外国人からすれば狂気の沙汰だったのだろうなぁ

    しかしこの頃の日本の司法判断はリーズナブルなものが多い。西洋的司法システムは導入してから日が浅いのに、むしろ浅かったから、法律よりは理で判断したのだろうか。

    P.4
    横浜中華街が今日のように発展したのは、そこを故郷とする華僑たちの、たゆまぬ努力の結果にほかならない。終戦後のカオス時代を克服するために、日本人が楽しく食事や買い物ができるようにと、彼らはきめ細かい配慮を怠らなかった。おかげで横浜中華街は世界にあるチャイナタウンの中でも最も安全で安心な中華街として発展することができたのである。
    アメリカやヨーロッパなどのチャイナタウンはあくまでも海外に移民した中国人のためのチャイナタウンであって、東洋対西洋という対照的な世界が築かれ、日本のように社会に同化して中華街が発展していたのではない。移民としての中国人コミュニティーあってこそのチャイナタウンなのである。

    P.20(黒船来航時)
    日本は当時、鎖国していて海外渡航や交易を禁じていたため、大型外洋船の所有、造船も禁止していた。したがって外国船に対抗できる軍艦を保有していなかった。

    P.35
    清国人が函館に居住し、華僑社会を形成しはじめた頃、函館の英国領事館の専属料理人の広東人、陳南養が「養和軒」という洋食店を開店した。一八八四年のことである。その後、彼は南京そばなど、中華料理を店のメニューに加えた。
    この「養和軒」の広東風のさっぱり薄口のラーメンこそ、今日の函館塩ラーメンの元祖であり、「養和軒」のラーメンこそ、日本初のラーメンだと言われている。

    P.37
    苦力すなわち契約労働者や自由労働者、避難民、政治亡命者などが、自由な新天地を求めて祖国を後にした。その多くが海外への出入り口である沿海部の広東や福建の人々であった。
    彼らには異郷で働いて祖国の家族に送金し続け、やがて自らも一代で財を築いて故郷に錦を飾りたいという大志があった。この華僑の大志のことを「自手起家」という。

    P.40
    三世、四世ともなれば、日本国籍を取得し帰化していく人々も多い。彼らは、屍となってもなお、故郷に帰ろうとする「落葉帰根」ではなく、「落地生根」、つまり移民先で大きな根を張って生きていく姿へと変化していった。
    しかし彼らは、母国語の読み書きは覚束ないものの、中国人としてのアイデンティティーは維持している。これらの人々のことは「華僑」とは言わずに「華人」という。

    P.128
    汪精衛(兆銘)というと、今日の中国では、日華事変の際に抗日を捨て、日本と妥協して和平を結んだ裏切り者、すなわち、”漢奸”だという評価をされている。果たして汪精衛は本当に”漢奸”だったのだろうか。歴史の評価はそう簡単に白か黒かと結論づけできるほど、単純なものではない。
    筆者が大学時代に神戸華僑歴史博物館の館長だった陳徳仁氏とお会いしたとき、陳氏は、「少なくとも在日華僑が、汪精衛のことを漢奸だというのは間違っている。私たち在日華僑は、汪精衛が日本と和平を築いてくれたからこそ、戦時中にその生命と財産を守ることができたのだ。もし、汪精衛の存在がなければ、我々在日華僑はどうなっていたか分からない」

    P.192
    いまでこそ中華料理といえば最もポピュラーな外国料理であるが、明治時代には西洋料理と比べると、中華料理の普及は遅れていた。(中略)田中静一『一衣帯水』(柴田書店)に中で紹介されている、一九〇九年に出版された『日本の家庭料理に応用した支那料理法』に書かれた日本医学専門学校長の山根正次の序文の一部には、「食わずぎらいが多いのである。西洋料理は、その文明の法によっていろいろ調理されるけども、支那の料理は某国民がいまだ野蛮の域を脱しないし、すべてのことが不潔なことが多いからして、したがって食物そのものまで不潔を不衛生なもののように考えるは甚だ残念なことである」とある。
    この文章からは、明治末期になっても中国料理を不潔だとして嫌っていた大衆の様子が分かる。

    P.193
    蒋介石は浙江省出身であったため、上海料理をこよなく愛していた。重慶に遷都したとき蒋介石は、上海料理を中心とする揚州料理を四川省の重慶に持ち込んだという。
    そしてあっさりとした揚州料理のメニューに辛い視線料理のメニューがミックスされた。それを視線の「川」と揚州の「揚」を合わせて、「川揚菜」と言うようになった。

  • ”現在の地元・横浜について、もっと知ろう!
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    T:8/17まで→○
    P:次に関内に行ったときに覗きにいくスポットをリストアップする
    O:五感塾ネットワークフォーラムで地元愛に目覚めたのだ
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    ・外国人居留地には道路が作られたが、町名はなく、現在シルクセンターのある場所を一番として192番まで、番地を付した。(p.48)
    ・後に、吉田橋、西の橋、前田橋、谷戸橋に囲まれた地域を「関内」、その外は「関外」と呼ぶようになった。(p.53)
    ・買弁(ばいべん)は、欧米商社から独立して自分の商売をするようになった。こうして130番地から160番地にはますます清国人が増え、唐人街(とうじんまち)と言われる地域を形成した。この唐人街こそ、やがて南京町と言われる、今日の横浜中華街の始まりである。(p.73)
    ★中華街一帯の土地はもともと、横浜新田という沼地であった。偶然、東西南北を向いていたので、風水思想を尊ぶ清国人にとってまことに都合がよい土地となった。清国人たちが、風水思想に合わせて造成したかのような説があるが、それは誤りで、幕府が造成した場所が偶然、風水に適した土地であったということである。(p.75)
     #へ?、意外!
    ・ところで、横浜中華街の加賀町警察署に近い広東路に、「米素多奈? Mr.NAVY」という店がある。注文する人の体調に合わせて漢方食材を調合して出してくれる薬膳料理が印象的な店である。(p.123)
     #お?、行ったことある!
    ・経済統制で1941年末には、輸出入が制限された。翌年には、繊維品の販売、消費、配給が統制され、廃業を余儀なくされて帰国する華僑が続出した。
     一方、理髪業、料理業は、日本人職人の出征と華僑の来日抑制によって、人材不足となったので、労働賃金は上がった。(p.132)
     #三把刀…包丁、鋏、剃刀
    ・「当時、中華街には金陵のほかには平安楼、安楽園、聘珍樓、盛昌楼、鴻昌、永楽軒くらいしか料理店はなく…」(p.132)
     #お?、安楽園!
    ・横浜中華街の名料理店萬珍樓の経営者林兼正は、「僕らは、日本人のための中華料理を作っているんだ」(p.189)
    ★中国は漢字の国だ。店名も漢字が分かればどんな店か分かる。「楼」は、二階以上の建物で宴会場がある。「飯店」は大型のレストラン。「酒家」には座敷がある。酒家よりも小規模の店が「記」である。そして家族で経営しているような小さい店が「軒」である。(p.194)
     #ほ?
    ・そしてようやく関帝廟は、1990(平成2)年6月に竣工し、8月14日、無事に落成式を迎えることができた。これが今現在、横浜中華街で見ることのできる関帝廟である。(p.224)
     #1862(or 1873)年建立、1886年敷地拡張、1891年大改築、1945年焼失(横浜大空襲)、1946年再建、1986年全焼(不審火)、1988年着工?1990年
    ・横浜中華街発展会協同組合の「中華街憲章」
     - 第一章 礼節待人の中華街<COURTESY>
     - 第二章 創意工夫の中華街<CREATIVITY>
     - 第三章 温故知新の中華街<TRADITION>
     - 第四章 先義後利の中華街<CUSTOMER SATISFACTION>
     - 第五章 老少平安の中華街<SAFETY>
     - 第六章 桃紅柳緑の中華街<AMENITY>
     - 第七章 善隣友好の中華街<HOSPITALITY>
     http://www.chinatown.or.jp/lovechinatown/kensho.html

  • 2017/11/16 18:21:50

  • 横浜中華街が出来る経緯では、慰安施設の設置が通常条約の条件であったこと。中国の革命では用心を支援したことなど期待していたよりも興味深い内容を含む一冊だった。

  • 今の中華街について知りたいという方にはオススメしません。むしろ日本が開国し、横浜に外国人が居住するようになり、中国人街が形成されていき、中華街となっていったその歴史、そしてそこに暮らす中国人の苦労の歴史を知りたいという方には、本書はそれを手際よくまとめてあります。個人的にはもう少し掘り下げた記述を望みたいところですが、新書という性格からすれば、この程度の料理の仕方がちょうどよいのかもしれません。

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著者プロフィール

田中健之(たなか・たけゆき)東京大学大学院医学系研究科関節機能再建学講座特任講師。2003年東京大学医学部卒業。医学博士。専門は股関節外科。東京大学医学部附属病院整形外科・人工関節センター センター長。

「2023年 『東大教授が本気で教える「股関節の痛み」解消法』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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