- Amazon.co.jp ・本 (272ページ)
- / ISBN・EAN: 9784121507730
作品紹介・あらすじ
パンデミック下、日本に長期滞在することになった「旅する漫画家」ヤマザキマリ。思いがけなく移動の自由を奪われた日々の中で思索を重ね、様々な気づきや発見があった。「日本らしさ」とは何か? 倫理の異なる集団同士の争いを回避するためには? そして私たちは、この先行き不透明な世界をどう生きていけば良いのか? 自分の頭で考えるための知恵とユーモアがつまった1冊。たちどまったままではいられない。新たな歩みを始めよう!
感想・レビュー・書評
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ヤマザキマリさんの前向きな考え方には目から鱗のところが多かったです。
非常事態の時どのような行動をとったかなど、参考になりました。
世界的視点で今回のパンデミックを見ているところもヤマザキさんならではだと思いました。
普通に考えたらただの困難な道も独自の打開策は必ずあるからあきらめずに思考することだと思いました。
何か、他の御著書で読んだことがある気がするのですが、一番参考になったヤマザキマリさんのエピソードを以下に抜粋します。
(P221より)
日本でアニメ化もされた19世紀イギリスの児童文学を私に読ませた母の目論みは、絵描きになりたいと言い出した娘を思い直させようというものでした。ご存知の方も多いと思いますが、あの物語は実に悲しいクライマックスを迎えます。画家になる夢をもった牛乳運びの貧しい少年ネロが、極寒のなか、大聖堂のルーベンスの祭壇画の前で愛犬パトラッシュと絶命してしまいます。アニメ放映の最終回では大概の人が「かわいそうに」とその死に涙しました。今でも思い出すと泣けるという友人もいます。母も最後のぺージをじっと見入っている私に、兼ねてから準備していたと思しき言葉を掛けてきました。
「ね?かわいそうでしょ?絵描きさんになるということは、そういうことなのよ」
しかし、物語を読み終えた私には、ネロをかわいそうだと思うことができませんでした。
そこへ至るまでの彼の煮え切らない態度に何か納得のいかないものを覚えていたので、「ネロは勇気がなかったからこんな目に遭ったんだ」と受け止めたのです。誰かが自分の絵を認めてくれるのを待っている姿には、謙虚さよりも「驕り」すら感じました。誰かの助けを当てになどせず、いざというときには知恵を狡猾に駆使すればいいだけのことだったのではないか、運河に停まっている船にでもこっそり乗り込んで、もっと暖かい地域に行っていれば、犬まで道連れにして死ぬようなことはなかったのでは、と考えたものです。
当時、私が『フランダースの犬』と共に読んでいたのが、『シンドバッドの冒険』と『ニルスの不思議な旅』でした。二つの物語に共通するのは、主人公が困った状況に陥っても、より広い世界に目を向けて冒険に乗り出すという点です。「才能があるのにそれを発揮することもなく、誰にも認められないまま死んでいくのね。かわいそう」という慈愛の倫理よりも、私にはシンドバッドのずる賢さのほうがずっと魅力的に思えてなりませんでした。
フランダースのネロも、外に目を向ければ逃げ道がたくさんあったと思うのです。目の前の環境だけでなく、地球全体を見るつもりで、自分なりの価値観を築いていけば生きていくこともできる。実際、ちょっと後ろを振り返るだけでも、「なんだ、あっちにもこっちにも道や扉がたくさんあるじゃないか」と違う進路が見えてくる。事実、私はそうして17歳のときに、絵の道を選ぶことが推奨されない日本を飛び出して、未知の国イタリアへ行ってしまいました。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
久しぶりのヤマザキマリさん。本書は約2年前に出版された『たちどまって考える』の続編。前作出版当時はまだ未知のウィルスの要素が強すぎたが、状況はそれなりに落ち着いてきた。そんな今、これまで地球規模の移動を日常的に繰り返してきたヤマザキさんが予期せず東京に長逗留することになった中で感じたこと考えたこと。ヤマザキさんの本を色々読んできたが、やはりこれまでの経験が唯一無二であるからこそ、このようなフラットな考え方ができるのだろう。ヤマザキさんの本を読むと、人間の枠を超え、また国境を超えた地球規模での視点、歴史からの学びも重要である点に気づかされる。そうしたより広い視野を持つことは、人間を謙虚に寛容にし、生きやすくさせてくれるものだと思う。まだこの2年半強を総括するには早すぎるが、徐々にフェーズが変わってきているのは明らかだ。コロナをきっかけに自身の生き方を見直した人も多いと思う。それが、多様な価値観の許容につながり、今後の世界に良い影響を与えると良いなと思った。
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コロナ禍で日本がオリンピックをしたことや、自粛生活中に今までイタリアと日本を行き来していた生活が一変したことで、当たり前だったことがそうではなかったと気づく。
「立ち止まって考える」の続編。
イタリアに長くしたこともあり、日本人の特性や固定観念を客観的に考察されている。
山崎マリさん自身の人生自体が破天荒でおもしろかった。 -
久しぶりにヤマザキマリさんの文章を読んで、背筋を正されました。
新型コロナウイルスのパンデミック下、日本に留まり、創作活動をすることを選んだヤマザキさん。
イタリア、ポルトガル、シリア、アメリカ…など、世界各国で暮らし、多様な文化や人々に触れてきた著者ゆえに、日本での暮らしの中で見えてきたものを、やわらかい言葉ながら鋭く指摘してくれる1冊です。
自分が地球で共生している生物の一個体であることを改めて意識する読書になりました。
群れの中で暮らす個体である自分が、これから生きていく上でどのようにありたいか。
ヤマザキさんが指摘する現代の日本人の姿が他人事とは思えなかったからこそ、いろいろなことを考えながら読了しました。
特に落語の登場人物たちと比較しながら「今日の日本では人間のことを理想化したり、美化し過ぎたりしているんじゃないか」と述べている部分は、自分が感じる息苦しさの原因を言い当ててくれたような気がしました。
図書館で借りて読みましたが、本棚に置いておきたいなぁ。
本書の前に書かれた『たちどまって考える』(中央公論新社)も読みたい。 -
普段から深く考えてないなーと気づく。
マリさんからすると、怠け者に見えるかもしれない。
私は考えるよりやっちゃえ!今までもなんとかなってきたじゃん派に所属しているものでね(でも慎重派にも所属)。
だから、大きな声で言えないけど、なんか面倒というか、あんまり面白くないなと思ってしまった。あー!言っちゃった!!ごめんなさい。
マリさんの育ってきた環境やお母さんの言葉などはすごく魅力的に思えたし、面白くないと言っておきながら、マリさんを好きなので、前作『たちどまって考える』も読んでみよう。 -
歩きながら考える
著:ヤマザキ マリ
紙版
中公新書ラクレ 773
テルマエロマエの著者であるヤマザキ氏が、コロナ禍の中で感じた日本人としての、アイデンティティを語っています。人間は生まれた国の文化や考え方を強く受けますが、他者と異なるアイデンティティを認めながら共生することが可能といい、イタリア人である夫との生活はその形です。
気になったのは以下です
・人間というものは、「自分とはこういう人間である」と自らが、思い込んでいたり、周囲から思われていたりもしますが、そういったイメージに固執する必要はありませんし、むしろ、振り払ったほうがいい
そうすれば、いくらでも臨機応変に置かれている状況に適応できるようになる
■歩き始めて見えたこと
・自分には、国境がない。アイデンティティもない。どこの国に行ってもアウェイの感覚で生きている無国境人間だ
・拒絶してきたもの、わかったつもりになっていたものでも、いざ蓋を開けてみたら、そこには、自分の偏見も見えてきたし、素直に面白いと感じることもたくさんありました
・日本では、人々が情報を懐疑的に受け止め判断してきた歴史が、他国より浅いと思います。
いや、浅いどころか、懐疑的になること自体を良しとせず、ほぼそうしていないようにすら私には見えていました
・結果がでないようなことが繰り返されれば、その情報を発信しているものへの人々の信頼が失われるのは当然のことです
・疑う力をもつということは、情報を疑えるだけの知性と、あらゆる可能性に考えを巡らせる想像力があってこそです
・おかしいと思うことを指摘してみれば、「ヤマザキさんも、それはわかっていたとおもうんですけど」、「こういうふうに理解してもらっていると、私は捉えていたんですが、誤解があったようですね」といった言い方での返事をもらうことが実に多かったのです。
悪気も落ち度もないふうでいて、結果的には、相手の不利を良しとしていた
こうした対応は、イタリアやアラブ、ブラジルなどで経験した性質のものと違う、日本の社会風土がもたらす独特な狡猾さではないかというふうに感じました
・私はイタリアの美容院には絶対に行かないと決めている
イタリアの美容師は客の意思よりも、髪型をつくる彼らのセンスこそが優先されるのです
「あんたがそうしたいと言っても、絶対似合わないと思う。悪いことは言わないからあたしの言う通りにしなさい」と圧力をかけられて、結果的にとんでもない頭になる
そのような目に何度も遭いましたので、こちらの希望通りに何とか切ってももらおうなんてことはもう諦めました
■コロナ禍の移動、コロナ禍の家族
・この大和の展示を通じて私がもう一つ感じたのは、「一生懸命勤勉に取り組めば、結果を生むかもしれない。たとえ結果を生めなかったとしても、尽くしてやったという価値が残ることに意義がある」という、ほかの文化圏ではおよそ通じないであろう日本ならではの美徳でした
・自分たちのもてる技術力、精神力のすべてを投じることが美しいという価値観の真意は、おそらく、何事にも神が宿るという「八百万の神」を信じる日本人の精神性からくるものではないでしょうか
・一緒にいるときでも、お互いの生き方にいちいち干渉したり、自分たちの価値観を押し付けたりしない
・人が好きじゃないのに、人がいないと生きていかない
・夫婦の間で互いに理解できないことや同意しかねることがあっても、価値観の無理な共有は求めずそれぞれの考え方や生き方に干渉させしなければ、良好な関係性は、保てます
・世界の多くの男性が妻に求めるのは、自分のダメなところを認め、どんなときも無条件に寄り添い、慰め、許してくれるかどうか、という点なのではないでしょうか
どこかで羽目を外すことがあっても最後には許してくれる
妻に認められるこうした精神的忍耐は母性的な寛大さとほぼ同質だと思われる
・人間は繁殖だけを目的に生きている生き物ではありません
知性がある限り、精神面での健康維持は肉体の健康を保つのと同じくらい重要です。
だとすると理想的家族という既成概念に縛られない生き方や最初から家族をもたない幸福というものも、もっと当たり前に認められていくべきではないかと感じています
■歩きながら人間社会を考える
・夫以外の男性の前では髪を覆い隠すことで、凶悪な負の力とされている嫉妬という人間の驕りから発生するトラブルや混乱を回避しているという理論です
・イスラム圏のような宗教的戒律はありませんが、他人様の目、いわゆる「世間体」が我々の生き方を統制する戒律として機能していると思います
人間は誰しも自分ではない他人を通じて自己を肯定する側面はありますが、日本では特にその傾向が強い
世間体という戒律が成立するに至ったのも、島国という地理的な特質や歴史など、日本のあらゆる条件が合わさったなかで、群れの存続に必要なものだったからだと考えられます
・世間体という戒律、共通倫理、全体主義
今の社会で起きていることやその予兆について考えていると、いつも帰着するのが、「群れ」というものです
・エリアス・カネッティ「群衆と権力」:人間が群れる習性をもつこと、群衆が生まれれば権力が発生すること、群衆になることで人々は精神的な安寧を得られること、などに触れられています。
・古代ローマの有名な格言に、「カルペ・デ・ディエム」というものがあります。
その日の花はその日のうちに摘み取れ
つまり、人生は限定的なのだから今を楽しめ、という癒して的な意味を成しています
・「哲学」というと、日本では西洋史や美術史などと同じように学問として難しく構えがちですが、イタリアでは、一人の人間があらゆる経験と思考と試行錯誤を積んだ末に抽出される、その人なりの考え方や思想を指す言葉としても使われます
・宗教が生まれるその背景には、やはり生きることへの苦悩が必然としてあるのだと思います
■知性と笑いのインナートリップ
・監獄に収監された人が熱心な読書家になり、非常に博識に……、という話を聞きますが、私にも似たようなことが起きたのです
・世間一般で当たり前と思われていることを覆し、それを洒落にする
そんな笑いが通用するのは、その社会にゆとりがある証拠です
・私は男性の格好良さは、繕っていないところにあると思っています
・安倍公房の一連の文学作品には、「壁の外に行こうともがく人」が基本概念にあります
・エドガール・モラン他「祖国地球-人類はどこへ向かうのか」異なる文化が共存したときには同化よりも並存や序列化が進むことや、排他性が生まれることなどにも言及していて、その思索の深さには読む側の視野も広がります
・ギリシアの哲人、アリストテレスの言葉
自己とは自分にとって最良の友人である
大事を成しうる者は、小事も成しうる
自然には何の無駄もない
■心を強くするために
・人は誰しも、逃げ道がないとなれば壁にぶつかり、行き詰まります
・人間は基本的に怠惰な生き物である
・社会においては美徳としか扱われない「信じる」という行為も、よく考えていれば怠惰を象徴するものだと私は捉えています
まっすぐで濁りのない、美しい言葉のようでいて、その実は自分で考えることを放棄し、信じる対象に責任を委ねているにすぎません
・期待通りにならない場合の落胆への心構えを怠ってはいけません
夢は叶うもの、ではなくて、夢は叶わない場合もある
もっと正直なことを言えば、叶わない場合のほうが多い
努力を重ねていても、望んだようにならないことが人生にはある
目次
はじめに
第1章 歩き始めて見えたこと
第2章 コロナ禍の移動、コロナ禍の家族
第3章 歩きながら人間社会を考える
第4章 知性と笑いのインナートリップ
第5章 心を強くするために
おわりに
ISBN:9784121507730
出版社:中央公論新社
判型:新書
ページ数:272ページ
定価:900円(本体)
発売日:2022年09月10日 -
仕事場である日本と、夫の住むイタリアとを頻繁に行き来していたヤマザキマリさんが、コロナウィルスのパンデミックスにより急遽家族と別れての日本での生活をおくる。
本のタイトルである「歩きながら考える」ではなく「立ち止まって考える」になってしまったと。
今まで当たり前だったことが当たり前でなくなり、ひろく物事を考えるきっかけになった。今の世の中は西洋式のコミュニケーションが世界のどこでも求められていますが、それだけではなく理想的なのは、合理的な西洋哲学と日本的な曖昧を良しとする感性、更に仏教倫理など何種類かの価値観、倫理を比較検討する機会が必要である。
でも。グローバルな視点で物事を考える人間が増えるのは、群衆が多様性に目覚めるほど、その国の為政者は社会をまとめて統括しにくくなるからです。
日本しかり今の世界中の政治家を見ていてつくづく思い知らされてます。
そこでヤマザキさんは、こんな時こそ笑いを、ゆとりをと・・・。日本の近代は、西洋に追いつけ追い越せと必死に身の丈を大きくしようとし続けてきたように思える。ぼちぼち日本らしさと向き合って等身大で歩いてみても良いのではないかと。本当は立派なスーツよりも、時にははだけた浴衣姿に草履で、落語のように「八っあん、熊さん」といって生きる方が楽らのではないかと。
この世に生まれてきたからには何かを成し遂げなければならない、人間として生きた証拠を残さねばならない。などといった義務感を自らに課し、もがき苦しんでるのではありませんか。
生まれてきてしまったからには、つべこべ言わずに生きるしかありません。
ただ、それだけです・・・ただ、それだけです。 -
著者の哲学がいろいろ垣間見えるエッセイ。
ただ、今までの破天荒な内容とは違って、少し期待していたものとは違うよそおい。
とはいえ、再び繰り返される暗黒の時代を危惧している考え方には同調する。歴史をよく知る人にとってのその危機感は説得力がある。