- Amazon.co.jp ・本 (206ページ)
- / ISBN・EAN: 9784122040137
作品紹介・あらすじ
日本国体の至高を謳うだけではなく、戦争術発達の極点に世界統一・絶対平和を視た石原莞爾。使命感過多なナショナリストであると同時に、クールな現実認識をあわせもつ彼の軍事学論・戦争史観・思索史的自叙伝を収録。
感想・レビュー・書評
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これが書かれたのって……なんて、時期を考えれば考えるほど、わーって叫びたくなります。
自分の仕事が人事関係なので、そういう面からびっくりしたのは、学生に対する彼の意見。
「親の財力が彼らの学力を左右し、弱くて勤労意欲がなくて、国家の必要数以上にいて、だから国家が危機に陥った時に余る」
あんまり今の時代も変わらないのね、なんて。
もちろん全員が全員じゃないんですけれども、あまりに差が激しくって。
そういう面からでなくても、胸に迫る内容でした…。
どうして…!って叫びたいです。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
石原莞爾という人は毀誉褒貶が激しいっぽいので、まあ自分で判断するしかないか、ということで読んでみた。
うまい具合に解説は佐高信によるネガティブなものだったし。
…現代の人間が読んで一番違和感を覚えるのは、天皇の無謬性を前提にしているところかな。
正直さすがにここだけは気持ち悪い感じが拭えなかった。
ただ、それ以外は、当時としてはかなり納得できる考え方だとは思った。
満州事変について佐高信は「放火犯」と表現したけど、感覚としてはむしろ若草山の山焼きに近いだろう。
その後の火勢の調節には失敗してるのだけど。
思想としても全体主義を志向しているのは、有事においてはこれが一番効率がいい、ということだろう。
アメリカに負けた日本がその後奇跡の復興を遂げる、などというのは当時想像するのも困難なはずで、
それなら負けないために全ての力を使う、というのは自然な発想のはず。
石原の誤算としては、植民地管理の難しさを過小評価していることだろう。
本文では北京での柴大佐を善政を例に挙げて、最近の朝鮮・満州の管理のまずさを嘆いているけれど、
善なる個人で管理できるのはせいぜい北京の一部であって、
それ以上の範囲を管理するには一部の人間が善人であるだけでは無理で、
それ故に植民地に対して善政を行う、というのはほとんど成功していない。
それを期待して満州事変を起こしたなら、それは起こした人間が責を負うとしてもやむを得まい。
後は最終戦争論というのもちょっと面白い。石原の読みはある程度は当たっているのだけど、残念ながら最終戦争に挑む1極として日本はおらず、米ソが2大勢力として、技術発展によって直接相手の首都を攻撃する能力を得ることになる。
このままなら石原の予想通り最終戦争が起きてもおかしくなかったのだけども、実際には核兵器の威力が強すぎて、
相互確証破壊理論によって手が出せなくなってしまった、ということだろう。
石原も核技術自体については触れているけど、まだ実現していない状態では、実際の威力は測りかねたのだろう。
個人的には、石原が満州事変そのものについて語ってるものを読みたいなあ。
そういうの、あるのかなあ。 -
鬼才石原莞爾による戦史書。アクが強いが面白い。