やちまた(下) (中公文庫 あ 17-3)

著者 :
  • 中央公論新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (524ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784122060982

作品紹介・あらすじ

本居春庭とその著作の探究を志してから四十年。師友との出会いと別れ、春庭をめぐる新資料の発掘…、戦前から戦後にいたる時の移ろいのなかで、ついに浮かび上がる盲目の語学者の人物像とは?春庭の生涯と著者の魂の彷徨が織りなす類い希な評伝文学。

感想・レビュー・書評

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  • 下巻は春庭の主著のうち、自動詞、他動詞について考えを述べた「詞の通路」についての記述からはじまる。文法論のこととて国語学に詳しくないものには少々難しい。それよりも、著者の身辺雑記のほうが、読者としてはよほど興味が湧く。同じ家を借りて自炊生活を送る相棒の腸(渾名)との暮らしぶりは、相変わらずの自堕落なもので、二軒茶屋近くの勢田川で釣り上げた鰻を蒲焼にしようと勇んで持ち帰るものの、小刀で腹を割こうとして果たせず、ぶつ切りにして味噌汁の中にいれて食すなど、行き当たりばったりの野放図な様子が、いよいよ厳しさを増す時代を背景にすることで、いっそう明るさを感じさせる。

    著者自身が「春庭考証のきわめて私的な記録」と呼ぶ「やちまた」は、上巻を評した際にも述べたが、他に類を見ない一風変わった書物である。それというのも、著者が本居春庭という人物とその主著である「詞の八衢」成立事情について調べ、論文を書くことを思い立ち、古文書を読み解き、方々を訪ね歩いては土地の古老に話を聞き、探し当てた関係者の墓所に残る碑文を判じる、いわばフィールドワークについて述べた部分が中心となる。

    さらに、宣長、春庭にまつわる本居学派の本流、傍流、学友、知人、後援者といった人々の生年、享年、事跡、著書等々調べ上げたことを細大漏らさず書き記した厖大な評伝がある。関係の濃さの違いで、記述も粗略なものから、著者の想像を交えてフィクション化したものまで、その描き方に差はあるが、江戸時代国学者の一大ネットワークがそこに現出する様は圧巻である。当時の交通事情、出版事情を考えると、その精進ぶりに圧倒される。昔の人は本を読みたいときは所有者に手紙を書いて借りて読み、コピー機もないから筆写し、返却してはまた借りる。その都度礼状がやりとりされる、その書簡で交友関係が知れるのだ。

    そして、著者が「きわめて私的」といわざるを得ないのが、それら春庭考証とは直接に関係しない、著者が学生時代を送った皇學館時代の学友、教授陣の当時とその後の人生を追った人間関係の記録である。朝鮮、満州への修学旅行に始まり、戦中、戦後に至る怒涛の時代を共に生きた人々に向ける思いが、これを割愛することをよしとしなかったのだろう。古文書の紙魚の陰からうかがう古人の逸話とちがい、生身の人間が語り、泣き、笑う部分は、格段に精彩を放つ。小説とは銘打っていないが、この部分に関する限り紛れもなく小説になっている。それもかなり読ませる。

    述べて作らず、という姿勢で書いたと思われる春庭の文献渉猟の部分においても、事実は小説より奇なり、を地で行く話が次々と紹介される。著者の熱意の賜物ともいえるが、はるばる現地を訪れたのに手がかりが得られず気を落としているところに通りがかった人があって、その人の口から貴重な文反古の所在が知れるなどということが度々起こる。特に大きなものとしては、本居宣長旧宅に付属する、ずっと締め切りだった土蔵から貴重な文書が発見されるところである。毎年の八月、松阪を訪れ、下着姿で汗にまみれながら資料を撮影していた著者をどこかで見ていたものでもあろうか。屏風の下張やら、大学教授の机の抽斗やら、次から次へと春庭に関する手紙が発見されるのには正直どこか神懸りな感じさえ漂うのだ。

    古書ミステリなどに文献を手がかりに、謎を解く探偵が出てくるが、著者のやっていることはまさにそれである。ただ天才的な推理力を持つホームズやデュパンではなく、こつこつと地道に証拠を固めてゆくクロフツの『樽』に登場する刑事のような粘着気質のそれだ。長年月をかけ、次々と出てくる新しい資料をそれまでに手にした資料と突合せ、矛盾点を暴き、人物相互の関係をつきとめ、裏に隠された人間心理を読み、こうでしかありえない、というところまで推論を突き詰めてゆく。

    それによって明らかになるのは、春庭の「詞の八衢」は、本人のいうような独自の発想ではなく先行する学者の説によることが大きい、という国文学上の定説に対する著者の疑義に正当性があるかどうかということに尽きる。「きわめて私的な記録」といいながら、友人、恩師に関する記述は懇ろであるのに、自分の家族についてはほとんど何も書いていない。宣長にはじまる本居家の固い結束、春庭に対する妹弟の兄弟愛や、親友の腸や義兄の遮漠の妻や子にかける愛情について、あれほど仔細に書き連ねながら、自分の家族については口を閉ざして語らないストイックさはどこから来るのだろう、といささか不審に思った。白江教授の「語学者には春庭のような不幸な人や、世間から偏屈といわれる人が多いようですねえ」という感慨が思い返された。

    何度も訪れる松阪や伊勢の姿が、年を経るごとに変貌を遂げてゆくのが、丁寧な描写の中から読み取れることも、地元の人間にとっては貴重な証言になっている。著者が同窓会を開いた、創業嘉永と文中にある旅館は、おそらく今も続く「麻吉」だろう、扉を閉めたままの大きな旅館というのは「大安」で、随分前に廃業し今は分譲住宅が建つ。文中に名前の出ている「両口屋」は、昨年までは往時の姿をとどめていたが、今は更地と成り果てた。せめて文章の中なりとも在りし日の姿が偲ばれるのはうれしいことである。

  •  お世話になっている知人から、「この本面白いと聞いたけど、私はとても読めないから差し上げる。あなたなら好きそう。」と言われて読み始めた本。本居春庭が眼病治療のため、尾張馬島に療養に行き、宣長が、父親としてとても心配しているところなどは読ませる。現地に行ってみたくなる記述で、上質の紀行文である。下巻で、著者が戦後、近鉄やテレビの仕事で各地を案内していることが明かされる。

     ただ、確かに難物で一旦中断した。宣長や国学に興味があっても、日本語の文法、とりわけ用言の活用にあまり興味のないものには、退屈な叙述が続く部分がある。でも、知人とはまた会う機会もあるので、それまでには読んでおかなくちゃとの思いで再開したら、だんだん面白くなって読み終えた。

    「やちまた」という題名は、勿論春庭の主著「詞の八衢」からとったものだけど、著者の意図はあとがきにもあるようにそれだけではない。「古事記伝」には、八衢について、「方々に分るる道の多きを云」とあり、この本は正にそういう感じだ。

     下巻をしばらく読んでから気づいたのだが、巻末に、春庭の年譜、本居家の系図、詳細な参考文献がついており、これが、道に迷いそうなこの本のよい見取り図となっている。もっと早く気づいていれば上巻ももっと読みやすかった。

     例えば、この本は、元号表記で西暦は一切使われない。私も日本の歴史は元号で学ぶべきだと思っている(というか江戸時代以前は日本では西暦は使われていなかったのだから、江戸時代以前の文献には元号しか出てこず、元号がわからないと時代が同定できない、これは保守とか革新とかとは関係ない)ので、これでいいんだけど、例えば、春庭の生きた時代が、宝暦・明和・安永・天明・寛政・享和・文化・文政と言われても、この順番がよくわからない。巻末の年譜を見れば西暦も記載され、下欄には「一般社会・文化事項」もついていて、例えば、文化3年春庭44歳のとき、喜多川歌麿没(54歳)とある。

     この書物は、春庭を中心としつつも、現在まで続く本居家を語り、本居家の人たちと関係する国学者、国語学者、郷土史家、政治家などを語る。また、春庭に関心を持ち続ける著書の神宮皇學館時代から語り出し、著者が学恩をうけた人たちのことを語りという風に拡がっていく。松永伍一は、上巻の書評で「本そのものの伝記にもなっている」という。読み進めるにつれて、じわじわと著者の春庭贔屓に共感する。若い頃の関心をずっと継続し、老境に本が出せるなんて羨ましい限りだ。

     著者は、私の一世代以上上の人なので、ぴんと来ないところも多い。末尾の、昭和45年11月5日、本居宣長記念館開館の頃を読んでると、その年、自分は小学校6年生だった、大阪万博と三島自決は思い出すけど、同じ県にいながら、宣長記念館開館のことは記憶にないなあと思う。その後何度か行ったけど、玄関の歌碑は思い出せない。今度云ったときに見てみようと思う。

     下巻には、吉川幸次郎と呉智英の書評が付される。また、最近では、本屋で立ち読みしただけだけど、熊野純彦の「本居宣長」の巻末にも、この本が紹介されていた。私と同い年の熊野は高校生のときにこの本を二日で読んだという。私は、もしこの本に高校時代に出会っても到底読めなかったと思うけど、未来の熊野が出てくるかもわからないから、高校の図書館には、是非この本を配架してほしいと思う。

  • 解説の呉智英先生が、
    苦労して解説してた。本著がいかに脅威を以て流通したかはあるけど。
    あとは印象がない。

  • 東2法経図・6F開架:913.6A/A16y/2/K

  • 国文学に淫した才人達の結晶のような成果「詞の八衢」の成立過程を探求した著者の半自伝的小説。

    今は亡き人が文章を通じて深い霧の向こうから語りかけてきているような、そしてその情熱が伝わってくるような小説。

    20代の時に40代の方に「人生の折り返しを過ぎるとわかることもあるんだよ。」と言われたのを思い出した。おそらくあの頃の自分なら積読だっただろう。

    読んでいて興味を引いたのが、人の死ぬ年齢であったり、養子に行ったり来たりの感覚であったり、手紙のやり取りの頻度、回数であったり、人間関係であったり、入れ歯であったり、国文法が現在では中学校で教えられていて、早い門人の入門時期と同じくらいであったり。

  • ぱらぱら見てこれは絶対面白いと思って買ったけど大正解でした
    一般人だけど面白かったです

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