パンセ (中公文庫 ハ 2-2)

  • 中央公論新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (743ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784122066212

作品紹介・あらすじ

近代科学史に不滅の業績をあげた不世出の天才パスカルが、厳正で繊細な批判精神によって人間性にひそむ矛盾を鋭くえぐり、人間の真の幸福とは何かを追求した『パンセ』。時代を超えて現代人の生き方に迫る鮮烈な人間探求の記録。パスカル研究の最高権威による全訳。年譜、重要語句索引、人名索引付き。〈巻末エッセイ〉小林秀雄

感想・レビュー・書評

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  • 若い頃に読むのを断念した本を読み直す。「パンセ」。フランス語の動詞[penser(考える)]の過去分詞か。言葉が全てではないけれど、十代の頃に、そういう説明を聞いていれば暗記式の知識よりは少しは理解の役に立っただろうなあ。

    唐突だけれど、キリスト教やパスカルの哲学についての研究者でないならば、本書は解説から読むべきだと思う。思うに、この本には二通りの読み方がある。書いてある内容を字義通り理解しパスカルが訴えようとしたことをそのまま理解し真正へ近づこうとするか、あるいは書き残された言葉から刺激を受けたりパスカルの置かれた状況や考えの彷徨を理解しようとするか。それは言い換えれば、キリスト者として読むのか非キリスト者として読むのか、ということになるのかも知れない。

    「断章」として知られるように、本書は著者がこの形で綴じられることを意図した一冊の本ではない。残された夥しい数の紙片を、編者が取捨選択し束ねられた本であり、それ故に研究の徒ではない読者が通読すると戸惑いを覚えない訳にはいかない。断片に書き連ねられた言葉は繰り返され、結論は必ずしも明確ではない。その思考についていけない者には、結論は保留されてしまう(よしんばパスカルの中では結論されていたとしても)。いやむしろ保留された状態で思考し続けることが求められていると言ったらよいか。小林秀雄がそれを端的に言い当てる。

    『感じたところから推論するのはいいが、推論したところが感じられる様に工夫して見給えと忠告しているのだ。そう思わないと、彼が、もっと先きで次の様に言うところが解らない。「自分は、長い年月を、数学の研究に費した。――人間の研究を始めた時、数学が人間に適していない事に気付いて、数学を知らない人々より、数学に深入りした私の方が、遥かに自分の状態について迷っている事を覚った」』―『パスカルの「パンセ」について/小林秀雄』

    計算機の発明、確率論の端緒となる書簡のやりとり、数学的帰納法的な推論の展開、更には微分積分学の基礎となる数論的考察、とパスカルの数学的天才には驚くばかりだが、それらの研究の背後に蠢く「無限」という概念にパスカルが取り憑かれていたことが、神の存在の確信へと繋がっていく様子が図らずも本書から伺える。

    翻訳者の一人である前田陽一の「解説」にあるように、本書は大きく一般的な哲学的考察の趣きの色濃い前半(それを第五章までとするか、第七章までとするか判断が難しいけれど)と、そもそもの意図であったキリスト教の一派であるポール・ロワヤル派の擁護の為の本の執筆用に書かれたとされるキリスト教の神聖(あるいは真正)についてのパスカルの論が展開される後半とに分けられる。これまた解説にあるように、前半については自然科学的あるいは自然科学的哲学的な思考が、多少信仰との関連を含みつつも述べられているので、パスカルの言わんとすることは何となく理解できる。一方、後半は神についての考察が延々と展開されるのだが、信仰心の有無の問題をさておいても、パスカルの展開する論法についていくのは難しい。

    読み通してみて漠然と思うのは、過去の数学者たちがユークリッド幾何学を読みながらその欄外に色々の注釈を書き加えるという読み方こそ、この本には相応しいのだろうということ。全体を通して何か一つのことを訴えている(キリスト教擁護という大きな目的はあるにせよ)訳ではないものの、パスカルが人々の理解のために引き合いに出す論の立て方はとても興味深いことは間違いない。そして、パスカルが大量に引用する先達モンテーニュの「エセ―」を同じように注意深く読んでいるのも同様の読み方だろう。という訳で、ここからは、自分も少しだけ同じような備忘録を残しておくこととする。

    (以下、とても長いし個人的な備忘録なので読まなくても構いません)

    *****

    『(三)直感によって判断する習慣のついている人々は、推理に関することがらについては何もわからない。なぜなら彼らはまず一目で見ぬこうとし、原理を求める習慣がついていないからである。これに反して、原理によって推理する習慣のついている他の人々は、直感に関することがらについては何もわからない。彼らはそこに原理を求めようとするが、一目で見ることなどできないからである』―『第一章 精神と文体とに関する思想』

    自然を分析することと理解することの違いをパスカルは指摘するが、これは単純に「群盲象を評す」というような近視眼的なもの見方を諫める意図ではなく、細分化してもし尽くせない自然がある一方で、そのようにして得られた知識では全体の整合性は説明し得ないということを言っているのだろう。そこから、ΑでありΩである存在の超越的優位性へと思考は飛躍する。


    『(七)人は精神が豊かになればなるほど、独特な人間がいっそう多くいることに気がつく。普通の人たちは、人々のあいだに違いのあることに気づかない』―『第一章 精神と文体とに関する思想』

    現代風に言うなら「多様性」という概念と、概念化した途端に失われるものとの関係性についての考察。養老孟司の言う「個性」の問題。概念化あるいは言語化することによって失われるものがある、とパスカルは400年近く前に看破していたのか。


    『(一二)一つのことしか考えないスカラムッシュ。何もかも言ったあとで、まだ十五分間もしゃべるほど、言いたくてしかたがない博士』―『第一章 精神と文体とに関する思想』

    おっと、ボヘミアン・ラプソディの中に出て来る人名が登場。フレディ・マーキュリーもパンセを読んでいたということなのだろうか。話は変わるが、前半でしばしば登場するオネットオム(私はオネットオムと呼ばれたい、など)は仮名書きではなく「正直者」としたら駄目なのか。オネットム = honnête homme、でしょう?


    『(七ニ)一は他に依存し、そして一は他に導く。これら両極端は、相遠ざかるあまりに相触れ、相合し、そして神のうちで再会する。しかもそれは、神のうちにおいてだけである。それならば、われわれの限度をわきまえよう。われわれは、なにものかであって、すべてではない。われわれの持っている存在が虚無から生ずる第一原理の認識をわれわれから盗み去り、われわれの持っている存在の少なさが、無限を見ることをわれわれから隠すのである』―『第二章 神なき人間の惨めさ』

    無限という概念への真摯な思考から、パスカルはある種の不可知論に辿り着いたように見える。そこから超越する存在への信仰が生まれるところが非信徒には飛躍と見えはするけれども。論理を追求した先に見つかる論理の不完全性、存在の偶然性を、逆に神の完全性への証拠とするような論の進め方に、惑いを覚えない訳にはいかない。


    『(一一五)多様性。(中略)都市や田舎は、遠くからは一つの都市、一つの田舎である。しかし、近づくにつれて、それは家、木、瓦、葉、草、蟻、蟻の足、と無限に進む。これらすべてのものが、田舎という名のもとに包括されているのである』―『第二章 神なき人間の惨めさ』

    前述した、養老孟司の説く「同じと違う」の話との類似性がここにある。


    『(一六二)人間のむなしさを十分知ろうと思うなら、恋愛の原因と結果とをよく眺めてみるだけでいい。原因は、「私にはわからない何か」(コルネイユ)であり、その結果は恐るべきものである。この「私にはわからない何か」、人が認めることができないほどわずかなものが、全地を、王侯たちを、もろもろの軍隊を、全世界を揺り動かすのだ。クレオパトラの鼻。それがもっと低かったなら、地球の表情はすっかり変わっていただろう』―『第二章 神なき人間の惨めさ』

    クレオパトラの鼻の話は、如何にも「ああすればこうなる」式の原因と結果が明確な歴史の流れの例え話と思っていたが、実は原因不明の結果の例えであったこと。素直な驚き。


    『(一九四)人々は暗黒のなかにあって神から遠く離れており、神は彼らの認識から隠れ、〈隠れている神〉というのが、聖書のなかで神が自分に与えている名でさえあると言っているのである。要するに、この宗教は次の二つのこと、すなわち神は真心をもって神を求めている人たちに対しては、自分を知らせるための明らかなしるしを教会の中に設けられたということと、しかしそれらのしるしは、神を全心で求めている人たちにしか認められないようにおおい隠されているということとの二つを、等しく確立しようと努めているのである』―『第三章 賭けの必要性について』

    あるがままの人間は不幸にしかならない、もし幸せであるなら何故気を紛らわせようとあくせくするのか、とパスカルは分析する。人間のすること、欲の根源をいくら細部にまで遡って知ろうとしても、それを知ることは出来ない。何故ならそれは人間の叡智を超えたものに由来するからだ、と一方で演繹していることと併せて考えれば、それは、究極的な原因の在り処を認めないことによる不幸だと言いたいのだろう。


    『(二一八)私は、人がコペルニクスの意見を深く窮めなくてもいいと思うが、しかしこれは……』―『第三章 賭けの必要性について』

    コペルニクスはパスカルよりも百五十年早く生まれている。当然パスカルの時代には地動説はよく知られた論であっただろう。ガリレオの「天文対話」はパスカル七歳の時に出版されている。もちろん信徒であるパスカルが禁じられたコペルニクスの説を表立って支持することはないにしろ、天動説を合理的と考えていたのか。窮[きわ]めなくてもよい、とはどういう意味なのだろう。


    『(二三〇)神があるということは不可解であり、神がないということも不可解である。魂が身体とともにあるということも、われわれが魂を持たないということも。世界が創造されたということも、世界が創造されないということも、等々。原罪があるということも、原罪がないということも。※1
    (1) ここにあげられた四組の二律背反では、「神がある」を始めとして、それぞれ第一の定立のほうは理性または論理にとっての不可解であり、「神がない」を始めとするそれぞれ第二の反定立のほうは事実上の不可解である。カントのアンティノミーの場合と異なり、パスカルの場合は、断章四三〇でも明らかにされるように、理性上の不可解は、事実上の不可解の前に譲らなければならないのである』―『第三章 賭けの必要性について』

    しかし、理性上の不可解は判断保留の不可解ではないのに対して、事実を全て枚挙することが出来ない以上、事実上の不可解は判断保留の不可解であるという点において、理性上の不可解に劣後するのではないだろうか。事実上の不可解が優先されるというのは絶対的存在による事実の形成が為されたという信仰が前提となっているように思える。


    『(二三三)さあ考えてみよう。選ばなければならないのだから、どちらのほうが君にとって利益が少ないかを考えてみよう。(中略)神があるというほうを表にとって、損得を計ってみよう。次の二つの場合を見積もってみよう。もし君が勝てば、君は全部もうける。もし君が負けても、何も損しない。それだから、ためらわずに、神があると賭けたまえ。――これは、すばらしい。そうだ、賭けなければいけない。だが僕は多く賭けすぎていはすまいか。――そこを考えてみよう』―『第三章 賭けの必要性について』

    第三章の章題の意図。ついパスカルの確率論の話なのかと想像してしまう章題だが、この掛けは信仰の元となる神の存在についての掛けなのであった。この辺りから、じわじわとパスカルの抱える悩みのようなものが発露し始める。パスカルの焦燥、あるいは不可知論、すなわち人間の叡智の限界に対する考察の元には、無限に対する数学的考察の無力感があるように見える。無限を抑え込もうとしても、無限は普通の感覚で抑え込まれることを拒む。例えば無限に1を足したものは元の無限より大きくはならない。有限は無限の前に無力であるとパスカルは言う。従って人間という存在が有限の存在であるなら、無限の存在である神の前において人間は無力なのだと論を進めるのだ。確かに無限は数学上厄介な概念だが、有限の存在と「思っている」どんな自然の存在も概念上は無限に近い個の集合体として機能しており、その機能を単純な法則に落とし込めないからと言って個々の存在が無力だとは断定できない。例えば、遺伝子上の無駄とも見える配列にしたところで。


    『(二七七)心情は、理性の知らない、それ自身の理性を持っている。人はそのことを数多くのことによって知っている。私は言う。(中略)君は、一方をしりぞけ、他方を保った。君が自分自身を愛するのは、いったい理性によるのだろうか。
    (二七八)神を感じるのは、心情であって、理性ではない。信仰とはこのようなものである。理性にではなく、心情に感じられる神』―『第四章 信仰の手段について』

    理性で確定してないことがあることをパスカルは数学の研究から知った。(例えば無限をある集合に収めること)そこから理性では計り知れないものが存在することを「直感的に」理解した(例えば1=0.9999…、というようなこと)。そこまでは心情的に分らないでもない。パスカルが現代数学の無限に対する接近を見たら、益々神の存在を確信するのだろうか(ゼータ関数の『解析接続』による無限級数1+2+3+…=-1/12+f(t)、と、カシミール効果の奇妙な類似性、とか)。


    『(三四六)考えが人間の偉大さをつくる。
    (三四七)人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。だが、たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない。だから、われわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある。われわれはそこから立ち上がらなければならないのであって、われわれが満たすことのできない空間や時間からではない。だから、よく考えることを努めよう。ここに道徳の原理がある』―『第六章 哲学者たち』

    この有名な章句は、この前にある『(三四〇)計算器は、動物の行なうどんなことよりも、いっそう思考に近い結果を出す。だが、物のように、意志を持っていると人に言わせるようなことは何もしない』―『第六章 哲学者たち』と併せて考えると、物質と生命の間にある決定的な違いについて述べているように読める。けれども、前章の『正義と現象の理由』からの流れで考えると「宇宙」と例えられているのは「為政者」や「力のあるもの」の比喩であるのかも知れない。前者の読みでは「葦」は起立する物質的存在の喩えのようだが、後者の読みでは弱いものを代表する喩えのように読める、ということ。原典を知るのって大事なことだなと再認識。


    『(三七五)私はここに私の考えを無秩序に、しかもおそらく無計画な混乱ではないように、書き記そうと思う。それが真の秩序であって、その無秩序さそのものによって私の目的を常に特づけてくれるだろう』―『第六章 哲学者たち』

    そして、続く第七章。切実なる信仰、すがる思い。ここから一気にパスカルのキリスト教擁護の論が展開する。しかしそこから感じるのは切なさだと言ってもいい気がする。


    『ゆえに、キリスト教は、次の二つの真理を同時に人間に教える。一人の神が存在し、人間はその神を知ることができる。また人間の本性には腐敗があり、それが人間に神を知らせないようにしている』―『第八章 キリスト教の基礎』

    もちろん、部分と全体についてのパスカルの論に通じる話だが、同じような一見したところ矛盾するようなものの言い表し方は仏教にもある。例えば半眼の境地を説くような考え。真理は絶対的な一面では言い表しきれない、ということを深く考察した人々は同じように気付いたということだろう。


    『(六七七)表徴は、無いものと有るものと、快と不快とを伝える。符号は二重の意味を持つ、明らかな意味と、隠されているといわれる意味と』―『第十章 表徴』

    それを読み解けるのは限られた人であり、自分はその一人であるというパスカルの自負がここにはあるのだろう。あるいは自分「ただ一人」が理解しているという絶望。孤独なパスカル。特に『第十一章 預言』における聖書の章句の羅列とその解釈を読んでいると、映画「ビューティフル・マインド」が描いた天才数学者がありとあらゆる数字から暗号を読み取ろうとする幻想の場面が思い起こされる。そのことを断章723の註からも読み取れると思うのは穿った読みだろうか。

    『(七二三)2)この断章は、パスカルが『ダニエル書』二章、八章、九章、一一章のあちこちを自由に仏訳し、ところどころに彼自身の注をつけたものである。パスカルは、それによって預言が成就したことを証明しようとしたのであるが、近代の研究によれば、『ダニエル書』の主要部分は、預言でも歴史でもなく、迫害時代のユダヤ人を激励するための黙示文書であるというのが通説になっている。すなわち、シリア王アンティオコス・エピファネス(前一七五〜一六四在位)がエルサレムに侵入して、神殿を汚し、ユダヤ人を迫害したとき、その苦悩のさなかで書かれたものである。したがって、ここには細かい注をつけることを省略した。トゥルヌール版はこの断章全部を削除している』―『第十一章 預言』


    『(八七八)〈極度の権力は極度の不正である〉 多数主義は最善の道である。それはあらわであり、服従させる力を持っているから。とはいえ、これは最も無能な人々の意見である』―『第十四章 論争的断章』

    何百年たっても為政者、あるいは民衆を束ねる知恵には進歩がない、ということか。最後に極めて現代的問題に対する警句を読んでしまうのは、「人間のむなしさ」を思い知らされたようにも思う。

  • 「私は、人間をほめると決めた人たちも、人間を非難すると決めた人たちも、気を紛らすと決めた人たちも、みな等しく非難する。私には、呻きつつ求める人たちしか是認できない。」(287)

    ―――

    フランスの哲学者・数学者であるブレーズ・パスカルの遺稿集。パスカルが執筆を構想していた、キリスト教弁証論の下書きや覚書が作者の死後に編纂・出版されたもの。出版の背景・改版の経緯については、本書の解説で紹介されている。1,000近い断章が、記述の時系列順ではなく、関連する主題ごとにまとめられているため、自分のような一般読者でも読みやすい。小林秀雄のパンセについてのエッセイも収録されていて、こちらも読み応えがあった。

    人間が人間である限り、どんなに時代が下っても、パスカルの真摯で明晰な批判的思考は読者を突き刺すことだろう。

    結局のところ、人間は惨めであり、存在と虚無の中間で宙ぶらりん、自分にも他者に対しても誤りと偽りだらけ、いくら幸福に焦がれても、幸福になる準備にばかり現在を浪費する、いずれ死にゆくものでしか無い。有限をいくら積み上げようとも、無限の前では無に等しい。

    だが、それを知ることができること、そこから考えることができることこそが、人間の尊さだとパスカルは言うのだ。宇宙が、ひと茎の葦である人間のことを知りもしないということを、知りもしないままに一滴の水で人を滅ぼすことができるということを、人間は知ることができる、考えることができる。考えたからといって、人間が滅ぼされないことは不可能なのだが、それでも尚、そのことを考えることができるのだ。それは宇宙にはできないことなのだ。

    後半が直接的な(聖書の色々な箇所を引用するような)キリスト教弁証論のため、馴染みがないと少し面食らうが、それらの部分を、他の方が感想で書いているように「(パスカルの)思考の放棄とも言える宗教への帰依」、と捉えるのはいささか違うのではないかと思う。

    むしろ、自身の信仰について突き詰めて(つまりは懐疑的にも)考えたからこそ、パスカルは彼自身の「賭け」としてキリスト教を弁証しようとしたのではないか。「宗教=思考の放棄」と安易に捉えることこそ思考の放棄であり、宗教を信仰していようがしていまいが、現実として思考放棄しているひとは珍しくもなく、いずれにせよパスカルはその様な人びとを是認はしないだろう。

    ただ我々は、信仰に「賭け」ないのだとしても、各々が何かに賭けるしかないというだけの話である。どんなに突き詰めても、どんなに磨いても、パスカルのような稀代の天才であっても、思考の、もっというと人間の及ばない領域については「賭け」るしかない。賭けないことこそが「正しいこと」なのであるが、人間として生まれた以上、パスカルが言うように、「君はもう船に乗り込んでしまっているのだ」(177)から、誤った人間として賭けるしかないのだ(生まれてこなかったのだとすれば、賭けないことが可能であったのかもしれないが…)。そして、考えることのないまま、「考えない」ということに賭けるよりは、出来得る限り考え続けた上で、何かに賭けたいものである。

  • 単に考えるのではなく、考え続けること、が重要なのである。考え続けることによって、初めて人はただの葦でなく考える葦になることが出来る。答えを出すこと、奇麗に纏めることだけが大事なのではなく、ただひたすらに考え続けてこそ到達できるものもあるのであろう。自分含め普通の人は、その考え続けるという負担に耐えられず、誰かに答えを出してもらったり、いったん纏めて仕舞い込んでしまいたくなるわけだろうが。
    これほどの知の力を持つ人が、思考の放棄とも言える宗教への帰依を熱心に主張するのは興味深い。パスカルの仲では、これらは矛盾するものではなかったのだろうか。
    前半は大いに刺激になったのだが、後半はキリスト教の真実と意義を延々と説く内容で正直、読むのに疲れる。

  • 人間は葦である∶正しく考えることが人間の価値・義務のすべて(考えているから偉い、ではない)
    あるべき姿、生き方を考える

    父親の人生をかけた教育を受け、パスカルの定理、パスカルの原理、大気圧パスカルという単位を生み出した
    キリスト教徒であり、心で感じるものという思想
    17世紀の大科学革命∶信仰から心が離れていく時代
    →キリスト教徒の正当性をわからせたい
    未完に終わった書き残し、思索が集まったもの

    自己実現したのに満足がない
    不幸を生み出すものの正体∶孤独と退屈∶余計なことを考え不幸になる
    対抗手段として気晴らしが必要(没頭すること)∶目をそらし内省を忘れさせる副作用もある
    →神へいざなう

    最大の悪徳は自己愛(自分だけを愛し、自分だけを尊敬する)である。自己愛は自我から生まれるもので、誰しも持っている。
    自我∶自分をすべての物事の中心にしようとする、他人を従わせようとする性質をもつ∶他人から不快
    →自我を押さえ、他人を思う、根本は自我
    損なうものを破壊しようとする。欠点を認めない
    認められたいのは人間の消し難い性質、性

  • 全14章のうち、人間についての考察は前半の第6章までで、後半はキリスト教の弁証論である。
    ほとんど箴言集のような体裁のため、短文はその意味するところが不明な部分もあるが、ある程度のまとまった文章はそれなりに理解できる。

  • ちょっと通して全部は読み切れなかった
    こういう構成はどうしても通して読み切れない

  • 時代を超えて現代人の生き方に迫る、鮮烈な人間探究の記録。パスカル研究の最高権威による全訳。年譜、索引付き。〈巻末エッセイ〉小林秀雄

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著者プロフィール

一六二三―六二。フランスの数学者、物理学者、哲学者。幼少のころから数学に天分を発揮、16歳で『円錐曲線試論』を発表し世を驚嘆させる。「パスカルの原理」を発見するなど科学研究でも業績をあげる。後年は「プロヴァンシアル」の名で知られる書簡を通して、イエズス会の弛緩した道徳観を攻撃、一大センセーションをまきおこした。主力を注いだ著作『護教論』は完成を見ることなく、残されたその準備ノートが、死後『パンセ』として出版された。

「2018年 『パンセ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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