日本経済史 1

制作 : 石井 寛治 
  • 東京大学出版会
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  • Amazon.co.jp ・本 (307ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784130440714

作品紹介・あらすじ

巨大な「変革の時代」の多様な像を結ぶ。日本の資本主義経済の歴史的展開を丹念に追いダイナミックなその全体像の構築をめざす。

感想・レビュー・書評

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  • <『日本経済史』(全六巻)の刊行にあたって>
    pp.ii-iii
    本シリーズの編集にあたっては、
    ①対象とする時代を近・現代に限定し、とくに最近研究成果が蓄積されはじめた現代史に力点をおき、日本経済史の現状認識との接合を図る、
    ②時期別の一~五巻の省別構成においては、対外関係・経済政策・資本蓄積・社会階層を主要な柱とし統一を図る、
    ③各省の内容は、通史的・網羅的であるよりは、研究史を踏まえたうえでの実証的な分析を重視する、
    ④その結果としてカバーできない論点については、コラム形式の短編を設けるとともに隣接分野等との交流を試みた第六巻を編集することによって補う
    ということを心掛けた。

    <第1巻 はしがき>
     この本は、「ほぼ三分の一世紀の幕末維新期の経済史の諸問題」(p.v)を扱う。
    本巻では「近代天皇制国家もまた一種の国民国家であるかぎり、われわれがそのなかに囚われている国民国家への批判の一環として批判的検討の対象とすべき」(p.vi)という「最近の政治史の研究動向を見据えながら、近代的な経済基盤が如何にして創出されたか」(p.vi)を議論する。
    それに際し「開国によって日本が巻き込まれた世界市場と「外圧」の実態」と「それに対する日本社会の対応の内容」を知ることが最重要課題となる。
     「日本政府の経済政策についても、対外関係とのかかわりが分析の重要な切り口となるが、欧米先進国からの新しい技術・制度の導入の研究にさいしても、幕末までに形成された基礎との関係が重視されるようになった。」(p.vii)
    西洋の近代技術の日本への移植は、「外国資本の導入を拒否しながらこの課題に取り組み、[...]必要にお雇い外国人に依存しながら、鉄道業、海運業、造船業、綿紡績業、銀行業、保険業などの諸分野において「近代企業」の移転に成功した。」(p.vii)
     日本独自の構造を考えると、「日本経済は、近世社会以来の膨大な数の小経営を含んだ形で産業革命を遂行することになるのであり、そうした小経営の独自な展開のメカニズムを明らかにする」必要が生じる。
     また、「国内市場史ないし商品流通史」(p.viii)といった「民衆の経済生活の在り方が実際にどのように変わったか」(p.viii)も同様に考察される。

    <第1章 幕末開港と外圧への対応>
    1近代日本の起点―十六世紀と十九世紀
    ・「なぜ十九世紀半ばから叙述を始めるのか」(p.1)それは、「幕藩制社会はさまざまなアジア的=集権的特徴を帯びているとはいえ、基本的にはあくまでも封建社会の一類型であり、日本の近代はそうした幕藩制社会の成立からではなく、その動揺・崩壊のなかから登場するものと見なければならない」(p.7)からである。
    ・当時、「世界史的にみても、中国・朝鮮・日本からなる東アジアは、この時期に人口の順調な増加がみられた」(p.7)
    ・日本が近代的工業化できた基礎には、「在来産業内部に外圧への積極的対応を可能にした条件が備わっていたこと、また、移植産業についても機械技術を受容しえた熟練職工が存在したこと」(p.11)があった。
     ‐「鎖国下の日本で(も)、[...]経済発展そのものは著しく進み、近代社会を生み出す内発的な動きも見られた」(p.8)。
     ‐また、国内の産業も充分に発達していた。実際、「十九世紀には生糸と茶の生産が世界市場へ向けて輸出可能な段階に達していた」(p.9)。
     ‐さらに「金属・機械器具工業の発展についても注目する必要がある」(p.9)。というのは、江戸時代を通じて残っていた鉄砲鍛冶が、「多くは廃藩置県で失業するとはいえ、さまざまな形で明治期の機械工業の発展を支えていった」(pp.9-10)ためである。
     ‐他にも、「蒸気船や西洋型帆船についても、国産化への動きそのものは早くから存在した」(p.10)し、「自力建造の経験を積んだ船大工たちの中から、明治期の海軍故障や民間造船所の作業の担い手が現れてくる」(p.10)。

    2十九世紀中葉の世界市場と維新変革
    ・開国の際、米国が動く結果となったのは、「日本市場に対するイギリスとアメリカ合衆国のブルジョアジーの関心の差にあった」(p.13)のである。
     ‐「日英修好通商条約を締結した五八年一杯は、肝心のイギリス商人が対日貿易にあまり期待していなかった」(p.12)のである。
     ‐一方で、「アメリカ合衆国では、日本への使節派遣を求める貿易商人の持続的な運動が行われていた。」(p.12)その基礎には、「ニューヨーク商人に代表される重工業ブルジョアジーの利害は、ボストン商人が代表する綿工業ブルジョアジーの利害とともに、対日使節派遣を求める運動を推進する」動き(p.12)、「南北戦争を画期に内部成長型経済へと転換する前のアメリカ経済が、輸出を求めてやまない外部志向型の経済であった」事実(p.12)がある。
    ・開国から倒幕運動にかけては、「軍事力の構築が政治改革の帰趨を決する」ものであった。(p.14)そのため、「幕藩財政の動向」(p.14)が問題となる
     ‐この際、「諸藩の財政窮乏と比較した場合には、(幕府の収支は)かなり豊かであった」(pp.14-5)。
     ‐長州藩は、「小商品生産の発展によって保管されつつ米年貢の高率収取が一八六〇年代にも存続し、宝暦検知以来の「撫育方」=特別活動の活動とあいまって」(p.16)潤沢な資金を有した。
     ‐薩摩藩は、「幕府が独占していた貨幣高権の一部を奪回して幕府を倒す準備を進めた」(p.16)。また、外商に依存した。

    3幕末の貿易と外資への対応
    ・「幕府も新式銃の整備に努めたが、もっとも熱心だったのが、肥前・薩摩・長州の諸藩であった」(p.22)
    ・これにより、「武器購入のために外国商人から借金をするものが増えていった。」(p.24)
     ‐「長崎での外国商人との関係は、武器輸入だけでなく外資依存という面でも、諸藩にとって重要な意味をもっていた」(p.26)
    ・諸藩の信用が高かった一方、民間商人の信用は低かった。
     ‐「諸藩は、民間商人と異なり貸金の回収が確実な債務者として映ったはずであり、彼ら(=外国商人)はしばしば月利二パーセントという高い利息を押し付けて暴利を得ようとした。」(p.26)
     ‐「民間の日本商人の信用は低く、開港場での輸入取引は、国際的に異例の現金決済であった。」(p.26)
    ・外商から商品を輸入する場合、引き取り症は莫大な現金を用意しなければならなかったのである。もしも、そうした現金を用意できる取引商が現れなかったならば、外商は止むをえず特定の日本商人を買弁化し、条約の禁止規定を潜り抜けて内地通商に進出したであろう。しかし、実際には、横浜には江戸その他から多数の有力商人が集まり、噛み方との為替のネットワークに支えられながら、外商との現金決済を行った。」(pp.26-7)
    ・「幕府が内地通商に反対し、外国商人の活動を居留地内部に押し込めようとしたのは、国内における攘夷ムードへの配慮からであり、そこには日本承認の利害を守ろうという発想はなかったが、結果的には、この反対は日本商人にとって大きなビジネスチャンスを保証することになった。」(p.27)
     ‐「全国各地の貿易関連商人[...]が、日本産業革命を主導する綿紡績会社設立の推進力になったのである。」

    <第2章 明治維新期の経済政策>
    はじめに
    ・「明治一〇年代中葉までの明治維新期の経済政策について、その展開過程の特徴を、段階を追って明らかにする」(p.51)
    ・「明治政府が対応に追われたのは、[...]旧来の領主体制にかかわる社会制度の転換とその影響に対する措置についてであった。」(p.51)

    1旧体制の変革と遺産の継承・発展政策
    ・「廃藩置県以前の明治政府の成立の基盤は、旧幕府領および、旧朝敵藩から割譲した地域にできた府県からの、年貢米や代金納による通貨と、旧幕府から引き継いだ三都を中心とする商品流通システムなどの、全国的な経済網の掌握による、全国経済への影響力であった。」(p.52)
    ・「明治政府は、倒幕の過程から、三都の豪商との結び付きを強め、それらの商人の金穀の上納に依存する面があったが、慶応四年(一八六八)には、[...]三〇〇満了の会計基立金の募債と太政官札の発行を決めた。」(p.53)
    ・太政官札の発行は、産業育成の意図を達成できず、その価値も減価した。また、外国人の金札による税金納入の問題もあった。
     ‐「大隈は、まず、金札の時価流通を禁止し、明治二年六月に諸藩や府県に再度、金札を貸し、同額の正金を上納させる政策を始めた。」(p.53)
    ・「明治政府の恒常的で安定的な収入源となったのは、直轄府県からの貢米であった。」(p.56)
    ・「明治政府は成立当初、諸藩による外国貿易の統制を目指した。」(p.57)
     ‐「商人による貿易も政府の統制下におこうとする試みが繰り返された。」(p.58)
     ‐「政府は、直轄地を中心とした地域について、通商司管下の為替会社あその関係会社である東京商社などを通じて、資金の貸与などを行った。」(p.58)
     ‐「諸藩では藩政改革が行われたが、藩債は累積してゆき、藩財政の運営は難航した。[...]政府が貨幣政策や流通政策で集権化を進めるなかで、諸藩における経済の実態は苦境がすすみ、その格差は開く一方で、廃藩置県への道はさけがたいものであったといえる。」(pp.59-60)
    ・「明治六年(一八七三)三月に大蔵大輔井上馨は、正院にあてて[...]石高の廃止に関する伺いを提出した。」(p.60)
     ‐「この正院あての井上大蔵大輔の伺いは、地租改正の実施に対応するもので、旧来の租法に対する疑念を示し、新たな租法の確定の必要性を示したものである。」(p.61)
    ・「地租改正は、租税の金納を実現し、財政上の金穀混計を克服した。」(p.62)
    ・「旧幕府や諸藩が管轄していた工場・鉱山や運輸・通信手段などが、明治政府に継承され」た。(p.66)
     ‐「明治政府はまた、全国の鉱物資源の調査を行った。」(p.67)
     ‐「成立直後の明治政府は、鉱山経営に関しては収益を期待できない鉱山の官営には否定的であった。しかし、貨幣材料の確保のために必要な鉱山は官営とした。」(p.68)
     ‐「運輸・通信機構の整備も進められた。」(p.68)
     ‐「通信システムの整備も次第に進んでいった。[...]明治初年には電信の利用も行われていた。」(p.69,70)
    ・「明治以後の経済発展の基礎は、それまでの教育・慣習・法制度などの基礎の継承と発展の上に築かれたものである。」()
     ‐「教育制度については、江戸時代末期までに、諸藩の藩校はもとより、日本全国の隅々までに、私塾や寺子屋などの教育機関が作られていた。明治政権は、明治二年に高等教育機関である大学校を作ったほか、明治四年の廃藩置県直後に、文部省を設置し、また五年には学制を公布し、以後にその実施を進めていった。」(p.70)
     ‐「江戸時代以来の商業取引の観光もその大部分が明治期に引き継がれている。」(p.71)
    2内務省成立以後の経済政策
    ・「内務省の勧業政策は、明治八年度の開始当初は富岡製糸場・新町紡績所・堺紡績所・内藤新宿試験所などの諸器官による各種の操業、試験など、欧米の各種技術の日本への導入や、その日本各地への普及に力を入れていた。」(p.72)
     ‐「内務省勧業政策は、[...]地域間の農業技術の交流と、先進農業技術の各地への普及に対する貢献は少なくなかった。」(p.72)
     ‐「内務省は勧業政策の担当のみならず、地域行政全般の督励の役割も担った」(p.73)
    ・「明治初期には官民の金融機関の創設の機運が高まった。」(p.77)
     ‐「明治九年(一八七六)の国立銀行条例の改正以後、多くの国立銀行が設立され、紙幣の増発もなされた。」(p.78)
     ‐「国立銀行条例の改正以後、国立銀行の設立が相次ぎ、インフレーションの進行が加速されたが、国立銀行の中には政府の保護を受けた銀行もあった。」(p.79)
    ・「明治十三年(一八八〇)に工場払下概則が制定され、旧幕府や諸藩から引き継いだ工場の払い下げの方針が決定された。」(p.81)
     ‐「財政上の理由から実施せざるをえなかった工場の払い下げも外国人や合弁による経営を排除したものとなった。」(p.82)
    ・「内務省以下の政府機関は、産業技術に関する新知識や商品の売れ行きなどについての、国内はもとより、各国に展開した領事館などから入手した情報を、『農事月報』や『農商工公報』などの印刷物に掲載して配布した。」(p.85)
    ・「多額の財政資金を要する政策展開は財政危機に見舞われて行き詰まり、金融の重視や産業の担い手の自発性にまつ産業政策が主要な政策となる。」(p.87)

    <第3章 近代企業の移植と定着>
    p.103
    1殖産興業政策の展開
    ・「会社制度については、通商司のもとに通商会社・為替会社が設立されたが、これらは株式会社としては萌芽的なものにとどまった。」(p.106)
     ‐「一八九三年商法の一部(会社、手形、破産の三法)が施行され(為替手形約束手形条例は失効)、会社企業は近代的な私法の規制を受けることになった。」(p.106)
     ‐「技術の移植についてであるが、政府は幕藩営工場や鉱山を官収し、さらに鉄道建設に着手し、一八七〇年に工部省を設置した。」(p.106)
     ‐「政府が自ら営む官営事業のほかに、民間への補助金支出・資金供与もみられた。」(p.107)
    2運輸業
    ・「鉄道サービスは[...]自国管轄方式を明確にし、イギリスの技術的・資本的援助をえて鉄道を敷設する方針を採用した」(p.108)
     ‐「岩倉具視ら華族や安場保和ら官僚などからなる主唱発起人一六人は、華族・士族・平民四四六人の賛成を得て、一八八一年五月鉄道会社創立願書を提出した。」(p.110)
     ‐「日本鉄道への保護は広範であったが、さらに青森までの工事を政府に委託することが認められ、東京・前橋間の開業が一八八四年、東京・青森間の開業が一八九一年に実現した。」(p.110)
    ・「海運サービスも鉄道と同様輸入はあり得ないが、鉄道と異なり開港後イギリス・アメリカを中心とする外国船が、外国航路のみならず、日本の沿岸海運にも進出した。」(p.113)
     ‐「欧米の船舶は帆船が汽船へと代替されていく途上にあったが、和船は構造上の欠陥から競争力を持たず、西洋形船を導入しなければならなかった[...]・こうした状況を受けて政府は、政治的意図もあって海運業の振興を図ることとなる。」(p.114)
     ‐「一八七二年[...]日本国郵便蒸気船会社が設立された。」(p.114)
     ‐「政府は日本国郵便蒸気船会社を保護する一方で、官船を保有して、海運力を強化し、沿岸航路網を拡大しようという志向をもっていたが、官営工場のように自らそれを運営することはせず、三菱に運航を委託した。」(p.115)
     ‐「両社(=三菱・共同運輸会社)の合同が画策され、一八八五年日本郵船会社が設立された」(p.116)
    3製造業
    ・「造船業において日本人による企業が発展していくうえでは、中古・新造を問わず輸入船に対抗しなければならなかったが、外国人が日本に直接投資を行って造船所を経営したため、国内の外国人経営による造船所とも対抗しなければならなかった。」(p.121)
     ‐「造船業は軍事的要請もあり幕府・諸藩がもっとも熱心に移植を試みた産業のひとつであり、その姿勢は明治政府にも引き継がれた。」(p.121)
     ‐「企業勃興が始まるまでに西洋形船を建造する日本人経営の造船所は、横須賀、長崎、石川島、神戸に成立しており、企業勃興の過程でもこの構成に大きな変化はなかった。大規模な造船企業が設立されるようになるのは日清戦後である。」(p.124)
    ・「開港後大量の綿糸布が輸入されたが、綿織物業が輸入糸を用いる生産を開始し、やがて綿紡績業が勃興して一八九〇年には綿糸生産が綿糸輸入を超えたこと、および一八八六年以降の企業勃興の過程で多くの綿紡績会社が、株式会社形態で設立されたこと、さらにガラ紡のような在来的な技術による生産が発展したが、洋式綿紡績工場が生産を拡大していく過程で駆逐されていった」(p.126)
     ‐「畏怖が綿紡績業の移植のために投じた資金は、[...]少額であったし、綿紡績業の発展にとって政策の果たした役割もそれほど大きいものではなかった。」(p.126)
     ‐「政府の綿紡績業奨励は、一八七二年堺紡績所を買上げたことから始まる。」(p.127)
     ‐「日本の綿花はイギリスで利用されている綿花と性格が異なり、綿糸集談会でも太糸を製造しなければならないことは理解されてはいたが、輸入紡績機械に(相対的に)適合する綿花が不足しており、綿花の改良が求められていた。」(p.129)
    4金融業
    ・「内国金融においては、外国銀行から市場を奪回するという課題は存在しなかった」(p.132)
     ‐「江戸時代の日本においても両替商を中心とする金融制度・システムは大阪を中心にかなり高度な発展を遂げていた。銀行業が決済と金融仲介を結び付けて発展していくものである以上、移植された制度・技術が根付くためには、銀行間のネットワークが形成されねばならず、さらには商人(ひいては預金者)の日々の取引・信用のあり方そのものに変容を迫ることになる。」(p.132)
     ‐「国立銀行条例および改正条例には国立銀行成規が付属していた。国立銀行成規は創立方法などを細かに規定しており、創立証書・定款・取締役誓詞などの雛形が記載されていた。国立銀行を設立しようとする者は、この雛形を若干改定すれば、銀行設立にとって重要な多くの書類を作成することができた。」(p.133)
     ‐「大蔵省の役人や第一国立銀行員は、シャンドから教育を受けている。」(p.133)
     ‐「欧米事情を視察したり、書籍・雑誌から知識を吸収したりした渋沢栄一・外山脩三らを中心に制度・技術の移植と変容が行われることとなる。」(p.135)
     ‐「江戸時代の大阪では、銀行券に類似した預り手形、小切手に類似した振手形などが広く流通したが、約束手形に類似した素人手形はあまり流通しなかった。このほか各地間取引に為替手形が用いられた。これに対して消費都市江戸では現金主義が根強かった。」(p.135)
    ・「保険業経営は大数の法則を前提に、収入保険料で保険金をまかなうという収支相当の原則、保険料は保険金と事故発生確率の積に等しいという給付反対給付均等の原則を実現させることによって成立する。」(p.138)
     ‐「保険業については銀行業と同じく、日本人が外国で保険契約を結ぶことはほとんどなく、開港後多数の保険会社が日本に進出したが、多くは外国人を対象としており、日本人との契約はそれほど多くはなかったようである。」(p.138)
     ‐「海上保険では、江戸時代にも海上請負が海運業者によって行われており、開港後いくつかの先駆的な企業が保険(類似)業務を行っている。[...]一八七七年には海上保険条例の草案ができたが、結局実現に至らなかった。」(p.139)
     ‐「資本金六六〇万円の東京海上保険会社一八七九年設立された。」(p.139)
     ‐「生命保険については、日本でも保険思想は古くから存在し、相互扶助の精神から頼母子講・無尽講などが存在していた。」(p.142)
     ‐「近代的生命保険業は欧米から移植されたが、政府の政策からほぼ独立に民間によって移植された。」(p.142)
    おわりに
    ・「条約で居留地外での外国人の経済活動が厳しく制限され、外国人による直接投資が制約されていたことも日本人企業にとって有利な条件となった。」p.146)
     ‐「さらに日本鉄道・大阪紡績・国立銀行・明治生命は、外国人による株式所有を認めておらず、株式の面から外国人によって支配されることも防止しようとしていた。」(p.146)

    <第4章 在来産業の変容と展開>
    はじめに
    ・幕末・明治前期の産業動向を総体として把握するには、「産業革命」「本格的工業化」の前提としての側面と、「産業資本」「近代産業」には帰結しない独自な展開の、双方の局面を視野に入れる必要がある。(p.156)
     ‐「取り上げる産業は織物業(特に綿織物)および醸造業(特に醤油醸造業)である。」(p.156)
    1農業と農家労働力
    ・「江戸時代後期以降の新たな経済展開は、農村部を中心としていた。(」p.157)
     ‐「一八八〇年代前半の松方デフレは、農村地域における土地所有の構造を大きく変えることとなった。」(p.157)
    2綿織物業の再編成
    ・「幕末・明治前期における綿織物業全体としての再編成は、明治以前に反映していた多くの主要地域の衰頽過程と、明治初年から明治一〇年代前半(インフレ期)を画期として発展する生産地域の動向という、二つの局面が交錯する過程として特徴づけられる。」(p.170)
     ‐「明治前期において、綿布需要は拡大のトレンドにあったことをまず確認しておこう。」(p.171)
    ・「輸入綿布については、その流入過程の特色が注目される。」(p.174)
     ‐「イギリス製綿布は、貿易商人の手によって日本へと運ばれて来るが、[...]神戸(兵庫)港における生金巾輸入の大部分が、中国商人による上海からの再輸出品であった」(p.174)
     ‐「日本の綿布市場とマンチェスター綿業資本との間には、中国商人やジャーディン・マセソン商会のような、アジア内において独自な利害を有する中継貿易商人が介在していたのである。」(p.174)
    3醸造業の重層的展開
    ・「幕末・明治前期の酒、醤油の生産の特色は、供給者が「重層的」な構成をなしていた」(p.185)
     ‐「醸造品の市場は、都市部と農村部が分離し、それぞれの市場にたいして固有の供給者が存在していることに大きな特色があった。」(p.188)
     ‐「醸造業の場合、流通・生産双方の局面において、醸造業の営む経営体が大きな位置を占めていた。」(p.191)

    <第5章 文明開化と民衆生活>
    はじめに
    ・「日本の文明開化研究の特徴を考えると、文明開化が民衆生活に与えた影響を論ずるには、都市と農村の地域間の差異および各地域内での階層間の差異の内実を解明することが重要となる。」(p.219)
     ‐「地方都市人口の推移は、開港場とそれ以外の地方都市で明確なコントラストが見られた。」(p.221)
    1舶来品普及の概観
    ・「近世来の大藩の城下町で明治一〇年代前半には人口の多かった地方都市で、その後人口の伸び悩んだ都市(金沢・徳島・和歌山・鹿児島)はいずれも近代的輸送網の整備が遅れた都市であったことに気付く。」(p.236)
    2都市近郊地域有力資産家の消費生活
    ・「大阪・東京・横濱近郊地域有力資産家の消費生活の動向を検討した。」(p.248)
     ‐「文明開化による舶来品の地方への普及の様相と平仄が合う」(p.248)
    3農村地域有力資産家の消費生活
    ・「富山県では浄土真宗が広く信仰されており、仏教的な禁忌から肉食の普及は遅れ、野菜類も近世後期と明治期でほとんど変化はなかった。」(pp.254-5)
     ‐「日常生活において[...]財・サービスの消費面での文明開化に触れることはできず、文明開化に本格的に触れるためには旅行という手段を取らざるを得なかった。」(p.266)
    4自作農の消費生活
    ・「上層自作農の消費生活を検討する。」(p.267)
     ‐「同じ家計消費レベルでも、居住地の地域差により文明開化関連の支出状況はかなり異なった。」(p.270)
    おわりに
    ・「舶来品普及の地域間・階層間の差異を念頭に置くと、明治一〇年代の資産家層の旅行が舶来品消費の地方への波及の先駆的役割を果たした。」(p.272)
     ‐「明治期を通して伝統的な生活世界が根強く残った自作農層に対し、有力資産家層は明治後期にかなりの程度舶来的な生活世界を享受し得るようになった。」(p.273)



    明治五年三月
     鉱山心得
    明治六年七月
     日本坑法
    商事慣例類集

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