教育人間学のために

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  • 東京大学出版会
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  • Amazon.co.jp ・本 (252ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784130513104

作品紹介・あらすじ

教育という名の営み.その根元を掘り返すとわからないことばかり.教育は幸せを目指す営みか.人は人を理解できるか.体験から学ぶとはどういうことか…….教育に,ひとに,出会い直すための,小さな驚き(センス・オブ・ワンダー).

感想・レビュー・書評

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  • T.N

  • 以下引用

    体験すればわかるのか。体験したからといって、本当にわかったと言ってよいか。そもそも、本当に体験したのか。

    終わったと安心しきっている学生を本気にさせるには、このくらい挑発しないと伝わらない

    学生と合宿に行き体験学習を共にするといったいくつかの経験を重ねるなかで、実は、この最後のふりかえりをないがじろにすると、学生たちの中で、経験として残らないという、ある種の焦燥感のようなものが、私の中に生じていた

    ふりかえりは、レポートとは異なる。まして反省会ではない。鏡に映し、鏡にうつった自分の姿に立ち止まる。ただそれだけ、でもそれをするとしないとでは、決定的に違う、体験を自分のものにできるかどうか、その分かれ目だと思うのです。

    ふりかえりは、いってみれば、収穫の時です。体験の中で育てた果実を、自分のものとして、取り入れること。もしくは反芻です。体験現場にいるその時は、実はただ詰め込んでいるだけ、咀嚼している時間がありません。次から次へと刺激を丸ごと飲み込んで、吸収する余裕がありません。ということは、体験しただけでは、食べたことにならないということです。口の中に詰め込みはした。でも、消化できず、吸収もしていない、それでは、自分を豊かにしたことになりません

    ですから、一呼吸おいてその体験をふりかえる、少し距離をとってふりかえる、その機会がどうしても必要なのです

    体験している最中は、実は自分の心がどう反応したのか、私たちには、よくわかっていません。体験しつつも意識できず、残された「思い」がある。そうした残っている部分を、新たに体験してゆく。それは、既に知っていることを繰り返すのとは、決定的に違う

    コンテンツは、行動の内容や中身。プロセス場、その行動に伴って生じた心理的反応

    森有正:
    経験と体験とは共に一人称の自己、すなわち「わたくし」と内面的につながっているが、「経験」では、「わたくし」がその中から生まれてくるに対し、「体験」はいつも私が既に存在しているのであり、私は「体験」に先行し、またそれを吸収する。・・・・しかもこの「経験」と「体験」とは、内容的には、同一であることが十分にありうる。差異は一人称の主体がそれとどういう関係に立つか、によって決まるのである


    同じひとつの出来事が、「体験」になるか「経験」になるかは、本人次第。本人がその出来事とどう関わるか。その態度によって決まる

    「私」がその出来事を取り入れるのか、逆にその出来事によって「わたくし」が変わるのか。いわば私が先か、出来事が先か、その違い

    「体験」によっては、「私」は変わらない。「経験」によってのみ、人は新たな「わたくし」になる。そして、新たな「わたくs」にならなければ、本当の意味で出来事を経験したことにはならない

    経験というものは、感想のようなものが集積して、あるなんだか漠然としたわかったような感じが出てくるというようなことではなく、ある根本的な発見があって、それに伴って、ものを見る目そのものが変化し、また見たものの意味がまったく新しくなり、全体のパースペクティブが明晰になってくること

    経験は、発見を伴い、発見は変化をもたらします。ですから、「経験」という言葉と並んで、「自己が透明になる」とか「ものが真にものに還るのを待つ」とか、さらには「真の」客観性
    と言い換えられる

    自分を変えると、言葉は簡単ですが、それは大変な混乱をもたらします。良い方向に代わるという保証はどこにもない。自信を無くし、立ち上がれなくなる危険も含め、まるで無防備になってしまう。それでも自分を経験のなかに開いてゆくのかどうか。それが問われている

    これはある種の実存的決断が求められているということ。

    経験ということは、何かを学んでそれを知り、それを自分のものとする、というのとまったく違って、自分の中に、意識的にではなく、見える、あるいは見えないものんを機縁として、なにかがすでに生まれてきていて、自分とわかちがたく成長し、意識的にはあとからそれに気がつくようなことであり、自分というものを本当に定義するのは実はこの経験

    出来事を経験している時、人はしばしば言葉を失います。言葉の正確な意味において、言葉が意味をなさなくなってしまうのです

    深い経験は、人から言葉を奪います。しかし、言葉にしても仕方がないかといえば、そんなことはない、まさにその言葉にならないことを大切にするからこそ、あえて言葉にする

    できるかぎり言葉にする工夫をする、言葉にならな事実を。その先に言葉にならなアクチュアルな現実が見えてくる。おそらくそれこそが、最も自分の内側に入ってきたこと。私たちに許されているのは、言葉によって少しずつ、その何かを実感すること

    言葉にする工夫をすればするほど、より一層、言葉にならない深い領域に近づいていく。そうした意味で、言葉にすることによって、経験を深く自分の中にしみこませていく。言葉によって内側を探れば探るほど、経験は、より一歩先へと逃げてゆく、より内側のところに入り込んでゆく

    そのわたくしの内側には入り込んだ経験が、或る時突然、方向を変えて経験自身の側から姿を現すとき、それを気づきという。その意味で、言葉が、気づきをもたらす

    ★★しかしただ言葉にすれば良いというこけでもない、やはりそれに見合った時がある。経験を言葉にする、ふさわしい時があるのだと思います

    そうした作業の中で、既に知っていたつもりの知識が、あらためて自分のものとなる、あるいは自分の方が透明になっていき、事柄それ自体があちらの側から姿をあらわしてくる、

    事柄と言葉との間を往復する作業の中で、自然にはじまる「気づき」。それこそが、地番大切にされるべきことであろう

  • 「教育は本当に人を幸せにするか?」「私たちが教育をしても”良い”とされる(そう思う)根拠は何か?」私たちがもつ「教育」に対する見方や価値観に問いを投げかけ、そっと立ち止まらせてくれる。教育学を学ぶあなたにこそ、おすすめしたい一冊。

    (Y.M.)

  • 子供の頃から疑問に思っていたこと、思春期に思っていたことなど、人生を通しての意識的・無意識的に抱いていた疑問が集約されて言語化されていた。またそれに対する見方、著者なりの考察が書かれていて、素晴らしい本だと思いました。

  • 分類=教育論。05年4月。

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著者プロフィール

1957年生まれ. 専攻, 教育人間学, 宗教心理学, 死生学, 哲学. 現在, 京都大学教育学研究科教授.
著書,『エリクソンの人間学』(1993), 『魂のライフサイクル──ユング・ウィルバー・シュタイナー』(97), 『教育人間学のために』(2005), 『世阿弥の稽古哲学』(2009, 以上, 東京大学出版会), 『無心のダイナミズム──「しなやかさ」の系譜』(岩波現代全書, 2014), 『誕生のインファンティア』(みすず書房, 15), 『稽古の思想』(2019), 『修養の思想』(2020), 『養生の思想』(2021, 以上, 春秋社), 『東洋哲学序説 井筒俊彦と二重の見』(ぷねうま舎,2021)ほか.

「2021年 『東洋哲学序説 西田幾多郎と双面性』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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