贈与と交換の教育学―漱石、賢治と純粋贈与のレッスン

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  • 東京大学出版会
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  • Amazon.co.jp ・本 (354ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784130513135

作品紹介・あらすじ

知識,学歴,教養……,なにかの「ために」,サービスと労力の交換として考えられる現代の教育.しかし,なおその基底に流れる見返りを伴わない「純粋な贈与」.真に教育をいのちあるものとしているものはなにか,「教えること」のはじまりに遡り「限界への教育学」を構想する意欲作.

感想・レビュー・書評

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  • 漱石論までで挫折。どうしても現代思想系文芸評論にしかみえない。正しく面白がれる日は来ないだろうという確信を得た。文芸評論自体は好きなんだけど。。。

  • 資料ID:W0156805
    配架場所:2F書架

  • 著者の主張の是非は、およそ僕には論じる資格はないが、ともかくも、自らの思考域がぐんと広がっていくような、そしてあいまいな「問」や、空洞が浮上してくるような、良書だと思いました。内山さんが、集落での生活においても、「個人」というものは成立していたということを論じていたと思うのだけれど(つまり共同体の規範とはまた別に、内的な「世界」を有しているという意味で)、そのあたりの論旨と交えながら議論すると面白いのかなぁと。)

    あとは、「ほんとうのさいわい」を個々人が求めつつも、そこに共同体としての連帯が成立するような形態へと移行するのかなとも。それは「弱さ」の紐帯になるんでないかな。かつての村落共同体は、サステナブルの面から見れば秀逸だけれども、全くもって完全ではない。
    「ムラ社会」というのは、円環していたけれども、その背後には閉鎖的であったという条件が付きまとう。閉鎖しなければ、円環させられなかった、つまりそのシステムを疑っていては、生きることができなかった共同体がそこにはある。円環するために、個人が平均化されていたと言っても良い。ではこれからの社会では、円環しながらも、それがシステムや制度による「互酬性の贈与」によってではなく、個が成立しながらすべてが「純粋贈与」として在るような生活様式が可能になっていくだろうか。つまり「円環」と「人格の尊厳」の共存。

    また思うのは、再生産される共同体内で「個人」はいなかったのかとか、そこでの教育(ここで言えば有用性を基盤にした「発達」)において、「純粋贈与」はなかったのだろうか。そのあたりのことは議論の余地があると思う。

    ●以下引用

    イニシエーションは、死と再生つまり「魂」の生まれ変わりを引き起こす出来事であり、成長や発達や社会化とは共役することのできない異質な出来事であった。

    ●発達とは、価値の尺度にしたがって、よりよきものへの能力の高次化を意味するが、この尺度は共同体の価値観をもとにつくられている。
    →民俗学においてとらえられた生活様式も、あくまでひとつの「暫定」にすぎなかったのだろうか。そこでの「循環」が、「ほんとうのさいわい」への接触に十全には触れていたのではない。やはり「外部」を模索しつつあったのだと思う

    このとき、ジョバンニの「みんなのほんたうの幸いは何か」という問いは、共同体の道徳の次元の問いではない。共同体の道徳は、他者に善行をなせ、そうすればあなたも他者から善行をなしてもらうことができる、という仲間との交換の教えからなっている

    →これがいわゆる相互扶助か。ただ「純粋贈与」が人と人の間になかったとしても、自然との交歓にはあったんでないかな。つまり習慣や儀礼のなかにもその「端緒」を垣間見ることは、あったんじゃないかなとは思う。

    この交換に基づく共同体の道徳を乗り越える教えは、いかなる見返りも求めることのない純粋贈与である。この教えは共同体の仲間の間の教えではなく、共同体の外部の他者との関係を作り出す教え

    「暗い力」が「ほんたうは何か」を求めるとき、問われた者は、共同体から離脱したり、共同体を破壊する危険性に開かれるとともに、共同体を越え、人類を越え、生命全体に関わる倫理への可能性に開かれもする

    →修験道はまずひとつこれにあてはまる。そして仏教などと地縁的共同体との合流も、この文脈で言えば「他者」との遭遇であったのだろう。土地の「物語」は、やはり「円環」しながらも、漸次的に「変容」し続けていた。

    教育の起源を、共同体の内部に見ているかぎり、教育はどこまでも社会化という共同体の機能の一部でしかない。教育が、共同体の構成員を再生産する必要性からはじまると考えるなら、教育には詰まるところ、未熟な子どもが成熟した大人に向けて高度に組織化されていく過程があるだけだ

    共同体の道徳で固定した対話者の解釈枠組みを揺さぶり破壊し、そして対話者に共同体(意味の体系)の外部を指し示す。それは死と再生というイニシエーションと同じ行動をもっている。

    贈与する最初の先生は、弟子にたいして死=エロスの体験をもたらすとともに新生をもたらす

    完成された作品においてさえも、賢治の多くの作品が物語として閉じることなく、宙吊りの状態のような、なにがしかの不思議な感触や違和感を読者に残すのは、作品の内部にこのような外部への孔が空いていることによる

    ●私たちは、文学作品から、贈与が何であるかを知るのではなく、その作品に働いている贈与の力に引き込まれ変容するのである。

    →ここから類推するに、純粋贈与は、「現存のフレーム」、個人でいえば「自我」、共同体で言えば「慣習」を、「破壊」するものということだろうか。つまり一旦それまで「自明」にされていたものが破壊され、「存在」が浮遊される体験をして、「贈与」というのではにか。それはつまり「死」の体験であり、「ほんたう」への誘いである。さらに「純粋贈与」の条件には、贈与者、被贈与者が、「無防備」であることがあるように思う。つまり「受苦」する構えがあることが必要になるように思う。

    賢治は、実生活において、たびたび自然との間に溶解を体験していた。このように二人は、共同体の内(俗世界)と外(超俗界)との往還を生きた

    日本の恩や義理は、負債を返すという「交換の原理」によって成立している

    戦後教育は人間を水平化し、戦後教育学は生の変容についての理論を平板なものにしてしまった。

    個人は世俗内ではなく、世俗外で誕生した。彼はその秩序の外で神あるいは自然といったなんらかの超越的存在と交わる。この交わりにおいて、彼はみずからの固体性の範囲を溢れ出てゆく。詳言すれば、世俗的秩序の中では周囲からみずからを区切る輪郭をもっていた人間が、世俗外で超越的存在と同化し、個体性の枠を出た個人となるのである。(作田)

    超越的存在と交わるためには、まずこの有用性の原理が支配する世俗的秩序から離れる必要がある。共同体から離脱し、森や砂漠といった自然のなかに隠遁すること…

    ツァラトゥストラという世俗外個人は、超越的存在との交わりという溶解体験をもった個人として共同体へと戻ってくるのではないだろうか。

    自らの智恵を愛し孤独を楽しみ倦むことがなかったツァラトゥストラは、なぜわざわざ山を下り共同体へと戻ってくるのか。
    ー私は分配し、贈りたいー

    世俗的秩序のなかで世俗外個人として生き、世俗的秩序の価値観に亀裂を入れ、共同体の外部を垣間見せた人物がいた。
    →ただ、その共同体にも「聖」、つまり溶解体験があったことは違いない。

    商品交換は、共同体のなかでではなく、共同体と共同体との境で生じた。共同体的な社会は、貨幣を媒介とした商品交換によって成立している貨幣経済の社会とは異なり兄弟盟約と呼ばれる関係によって成立している。

    ソクラテスは、ポリスという空間的には共同体の内部に居住しながらも、世俗外個人として生き、いかなる意味でも共同体内部の人間ではなかった。

    ソクラテスは、注目を集めた人物ではあったが、敬意をもって快く受け入れられたわけではなかった

    同じ共同体に属する者同士は、同じ言語ゲームに属している。

    身体と身体とが直接に向かい合い、その場から逃げることを許さず、対話者を絶体絶命へと追い込む問答法

    ソクラテスは、問いを繰り返すことによって、対話者に共同体の知にしたがった思考を徹底化することを促す。

    「はい」とも「いいえ」ともどちらを答えることもできないような宙吊りの状態に追い込まれ、しかも対話の場から逃げ出すこともできない

    パラドックスの破壊力によって、対話者の間での吟味は鋭さを増し、言葉から既成の意味が脱落していき、ついには知るという行為は極限に達し、無へと、つまり非/知へといたる

    わたしたちは共同体の一員として一人前になるとともに、もう一方で、共同体のなかで生きる以外の生き方も学ぶ必要がある

    一人前→世俗的世界のなかでの有用性

    第一の先生のタイプは、歴史的な淵源を古代ギリシャのソフィストに求めることができる。彼らは、共同体の内部の先生として、金銭と交換に弟子に有用な知識や技能や技術を教える。彼らの目標は未熟な構成員を一人前にすることである。第二のタイプは、ソクラテスに代表されるようなタイプの先生である。ソクラテス型の先生は、共同体の外部で「溶解体験」によって生まれ、「純粋贈与者」として共同体に戻り、共同体と外部との境界線で弟子を生み出す。

    最初の先生がもっとも大きな力を発揮するのは、自分の死を見返りを一切求めない純粋贈与とするときである

    自己がどこまでも拡大して世界を覆い尽くすのではなく、自己と世界との境界が溶解してしまい、自己が世界化し、同時に世界が自己化している

    賢治の擬人法は、人間の声だけが語る世界を、多数多様な存在者たちの多声が互いに響きあう世界に変えてしまう。この技法は、賢治によって「心象スケッチ」と名づけられた実験的な生の技法によっている。(中略)
    描写の視点の次元だけでなく、存在という次元でも、人間はもはや世界の中心と言う特権性をもたず他の存在者と等価であり、全存在者によって作りだされる風景の一部分となる、。そのとき、動物や昆虫や植物や鉱物は、人間が欲望を実現するための手段や道具であることをやめて、異なる言語ゲームに生きる他者となる。したがって、賢治の擬人法では、動物や植物や鉱物は人間と意思を交わすことによって、かえって人間には測り知れないそれぞれに固有の得体の知れなさが露わとなる。

    賢治の童話では、人間は人間である特権を失い、世界の中心ではなくなり、ほかの存在者と同じレベルへと変容させられる

    賢治の童話は、作者が構想したのではなく、「林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかり」から賢治が贈られたものを、「ほんたうにもう、どうしてこんなことがあるやうでしかたないといふことを」というように賢治自身の身体(メディア)を一度通過させて、「そのとほり書い」たのだという。

    風がうたひ雲が応じ波が鳴らすそのうたをただちにうたふスールダッタ 星がさうならと思ひ陸地がさういふ形をとらうと覚悟する あしたの世界に叶ふべきまことと美との模型をつくりやがては世界をこれにかなはしむる予言者、設計者スールダッタ

    賢治における擬人法とは、文学上の手法といったものにとどまらず、他者としての自然との新たな関係を作り出す生の技法なのであり、さらには「他者」「異界」「ミメーシス」そして「贈与」という「限界への教育学」にとって重要

    シャーマンは、鳥獣草木と一体化するところから、先に述べた自他の溶解による脱自を体験する

    賢治の作品世界では、人間はもはや世界の中心という存在上の特権性をもたず他のすべての存在者と等価であり、全存在者によって作りだされる宇宙の風景の一部分となる。

    律法が交換(お返し、仕返し)をして「応報の相互性」を生み出してしまうのにたいして、慈悲は純粋贈与として交換に基づく「報復の呪われた円環」

    純粋贈与は、交換の環を侵犯し打ち砕き社会秩序の外部を示す

    宮沢賢治は、交換という人間的な事象に終生なじめなかった。

    市場交換は、食べることにつきまとってきたこの負い目を、ほとんど完全に払拭することに成功した

    心象スケッチが、このような純粋贈与を原理とする生命との回路を開く。そのとき賢治は、生命の一部であること、あるいは生命と連続する深い喜びと恍惚と畏れとを体験する

    熊にかぎらずすべての生き物は、純粋贈与者である。それだけではない。風も純粋贈与者である。

    心象スケッチは、銀河系=生命の贈与の運動を感受し、言葉によって描きだし、それを生きるということを可能にした

    仏教の行者が布施において自覚的であったように、贈与が贈与であるかぎり、どのような交歓にも転化してはならず

    心象スケッチとは、出来事を言葉によって語る文学上の技法にとどまらず、生の技法として生命の倫理としての贈与を感受し、またそのような贈与を言葉を通して生起させることを可能にするもの

    贈与者としての教師、「最初の先生」という主題に立ち戻るとき、ブッダの弟子賢治は、心象スケッチという生の技法によって、布施する菩薩、「最初の先生」となる。この教師が「教える」とき、「贈与の教え」が伝達されるのではなく、贈与という出来事が生起する

    著者の視点は、地上に立って生きている人への水平の視線ではない。「その下で」という言葉によって示されるように、作者が地上よりもやや高い視点から、斜め下に俯瞰する視線によって、見守るように「人間」の生活を描き出している

    作者は詩作において、眼前にいる個別的な誰それではなく、連綿と続いてきた自然史(生命の歴史)のなかで類として生きる「人間」の姿に感動した違いない

    私たちは何のために生きているのかと自問することがあるが、このような自問自体がすでに生を手段的に捉えている証左なのである。

    発達としての教育は、個人の形成を目的としているがm発達の論理には、個人の核となる「人格の尊厳」を生み出す生成へ尿の出来事を組み込むことができず…

    人が個人=「全体的人間」となるためには、たんに共同体のなかでこれまでの社会的・歴史的に蓄積された諸観念や身体技法を獲得するといった発達を促す経験だけではなく、生成の体験が必要である。

    近代日本の学校は、「国語」の授業を通して、風土と生活に密着していた言葉(方言)を、標準日本語へと変換させ、また体育の授業を通して、農耕作業と結びついた土着的な身体技法を、身につけた身体を軍事と工場労働を可能にする近代的身体へと変換させてきた。

    ホイジンガが、『ホモ・ルーデンス』のなかで、祭祀も詩も音楽も舞踏も知識も法律も、文化はすべて遊びの形式のなかに成立し、文化は最初から遊ばれるものであったと述べた

    社会的衝動としての遊び的競争は文化そのものよりも古いが、それは遠い原始的時代から生活を充たし、古代文化のさまざまの形式を酵母のように発育させるものだった。(中略)文化はその根源的段階においては遊ばれるものであった、と。それは生命体が母胎から生まれるように遊びから発するのではない。それは遊びのなかに、遊びとして、発達するのである。

    文化が文化として人間の生に力を与え、生動的に展開しているときには、それは遊び(過剰な体験)なのでだといっている

    詩の音読のすすめは、詩の意味にではなく音やリズムに注意を向けることで、詩が言語として出現する瞬間に立っち会うもっとも優れた生の技法

    モースのいう贈与とは、見返りが期待される社会的活動

    一切の返礼を期待しない純粋な贈与は、有用性の回路からの離脱であり、事物の秩序の破壊であり、「体験」

    ★贈与の主体は、自己同一性にしたがう「私」ではなく、「体験」のうちにその同一性が破綻した「私」ならざるもの

    普段、日常生活では、私たちは自己を防衛するために、自己を開いて相手に差し出したりはしない。しかし、ボランティア活動では、贈与として自己を差しだすため、その瞬間、自己は無防備に他者に向けて開かれる。贈与が先行するということは、差し出された贈与を、相手が受け取らない危険性があるということである。無防備に差しだされた自己は、相手に拒絶されれば容易に傷つくことになるだろう。このように、贈与者としてのボランティアは、そのスタートにおいて自らを放棄し、自己を相手に差し出すという点で、バルネラブルな状態

    贈与として自己を相手に差し出すという賭けの瞬間がmボランティア活動の純粋贈与という性格を特徴的に示して

    純粋贈与という生の技法を身につけるには、他者から見返りを求めない贈与を受けた「体験」が不可欠である。食事の世話から排便の処理に至るまで…。

    私たちの日々の生活のなかに純粋な贈与のリレーが働いている

    それまで礼儀作法が人間形成の根幹を形作っていたところへ、それを否定する別の体系的ルールの身体技法が入り込む


    礼儀作法という言葉には、表面的な身体の所作というより、長年にわたる修行・修業によって人格に深く身についたもの

    人は人にたいしてだけでなく、あらゆる自然の事物(万物)にたいしても、正しい関わりをしなければならない

    禅宗では行住坐臥がそのまま修行であるとよくいわれている。つまり食事や挨拶といった日常生活の諸作法の実践それ自体が「行」とされる

    →だから、礼儀作法も禅も、「世界」と関わる、つまり周りの「他者」との関わり方の習得と言うものを前提にしていることがよく読みとれる

    禅宗の影響を受けたお茶の作法は、人に不愉快な思いをさせないといった消極的な理由を越えて、審美的・道徳的な価値を実現するものである

    ★正しい礼儀作法は、コスモロジーの観点から捉え直すなら、円滑な人間関係を生み出すだけでなく、世界との調和的な関係を実現し、宇宙とのリズム的な呼応関係を生み出す。反対に礼儀作法の衰弱とは、周囲の者に不愉快な思いをさせるだけでなく、宇宙との調和のとれた呼応関係を失うこと

    模範的で規範的な型としての礼儀作法が、「外から通じて内へと向か」い「内面的」なものを生み出すためには、礼儀作法が全体的社会事実であることが不可欠だが、礼儀作法はマナーという単一の機能に変容される

    「マナー問題」とは、生き方と人間形成に関わっていた全体的社会事実としての礼儀作法が、外発的な西洋化と近代化によって、マナーという単一の機能へと縮減してしまい

    マナーを、社会的慣習によって形成される身体技法として捉え、そして社会的な人間関係への適応と考えるとき、マナーは、人間関係において交互に交わされる交換として捉えられている。

    慣習化し有用性の道具となったマナーを破壊し、その初発の生命を取り戻す必要がある。→歓待という純粋贈与

    普通、私たちは、その人が同じ家族の一員だから、友人だから、同僚だから、同じ民族だから、つまりは仲間だから相手を助けようとする。このときの援助は、いつの日か将来において援助した相手から見返りが自分に戻ってくることを期待する援助

    「義理」に基づく道徳も、「義理を返す」とか「返すこと」や「報いること」が不文律として義務化されている

    しかし、歓待は相手が仲間だからなされるのではなく、仲間でないがゆえになされるのである。歓待とは、客がなにものであろうと関わりなく、無条件に飢え疲れた客に食事をふるまい寝床を用意すること

    歓待する人は、自分もいつか共同体の外部に出たときに、相手が返礼をしてくれることなどを期待していない。歓待は見返りを求めない純粋な贈与なのである。
    →インドのバスのことを思い出した

    『歓待のユートピア』の著者シュレールは、「歓待の徳」究極の姿を次のように言っている。「君がそれであるところのもの、それは他者へと生成する君の能力、君以外の他者を迎え入れる能力なのだ。君がそれであるとことのものとなれ。わたしはひとりの他者なのだ」

    相手に屈服したからでも、敵意をもっていないことを示すためでもなく、ただ自己を開いて差し出すこと、これが純粋贈与のおじぎ

    マナーの精神をもつ人とは、自制心・克己心・忍耐力をもつだけでは十分ではなく、さらにまた優しさや寛容さや親切心をもつだけでも十分ではない。有用性を基にした目的的な企図を、気前よく破壊する力を発揮できる必要がある

    純粋贈与のおじぎである。この瞬間、目的的生から解き放たれ、おじぎはそれ自体以外にいかなる目的ももつことのない聖なる瞬間を生み出す。

    おじぎをすることによって、一切の見返りなじに自己を他者の前に差しだすことがある。それはバルネラブルな状態に自らを曝けだしているといえるだろう。なぜなら、差し出された「私」を、相手は無視したり拒否したりするかもしれないからだ。

    相手からの仕返しも見返りも計算することなく、私たちは自らを開き、無防備に自分を差しだす。こうして無条件に相手を招き入れる。私たちはおじぎをするたびに、大きな「賭」をしているのである
    →柳ケ瀬のたいやき屋さんを思い出す

    自己が有用性に基づく交換の環から離脱し、非-知の体験ともいうべき自己ならざるものに開かれることによって、初めて私たちは畏れと歓喜とを感じる

    マナーが、負い目に基づく羞恥を基本とする贈与交換から、歓喜に満ちた純粋贈与としての歓待に変わる

    過去の無数のテクスト群から国民国家の文化を形作ったとされる「古典」の選択とその伝達によって、「想像の共同体」が誕生する。

    デュルケムー教育とよばれる事象の出現の理由を共同体の再生産という必要性に求める

    「個人」ということの意味自体が、あらためて問い直される必要がある。個人とは何者か。個人とは、共同体の道徳に安住することなく、「ほんたうは何か」と問い、共同体の交感の道徳を侵犯する贈与の倫理を生きる者

    贈与の一撃は、共同体の内部で安んじて交換を生きる人間から、その生の根拠を奪い取ることで、その人間に恐れとともに生命の次元に触れる体験を与える
    →これは芸術作品と全く類似

    最初の先生とは、死の体験を贈与するイニシエーターであり、その意味で「最初の先生」とは、個人を生み出すものである。

  • 八王子市中央図書館に蔵書あり。
    博士論文をもとにして書かれた本。あるひとに紹介されて読み始めたものの、難解すぎてざっと飛ばし読み。

    第9章;生成と発達の場としての学校ー生成としての教育の教育学的位相
    第10章:純粋贈与としてのボランティア活動体験ー贈与と交換がせめぎあう場所
    は、かろうじて興味を持って読めた。
    また、10章では「経験」と「体験」というふたつの次元を区別して教育の課題を吟味していて、この視点は興味深い。

    もっとしっかりと読めば、著者の言う「純粋贈与」の意味も、教育における位置付けや価値もより深く理解できるのだろうが、延々と続く漱石や宮沢賢治に関する議論について行けず、ついて行く気力も残念ながら継続できず。orz

    【無断転載を禁じます】

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著者プロフィール

1954年神戸生まれ。京都大学大学院教育学研究科博士課程中退。香川大学教育学部助教授をへて、1992年より京都大学教育学部助教授。2002年より京都大学大学院教育学研究科教授(臨床教育学講座)。博士(教育学)。専門は、教育人間学、臨床教育学。著書に『子どもという思想』『ソクラテスのダブル・バインド』『自己変容という物語』『動物絵本をめぐる冒険』『意味が躍動する生とは何か』『贈与と交換の教育学』『幼児理解の現象学』『大人が子どもにおくりとどける40の物語』などがある。

「2015年 『講座スピリチュアル学 第5巻 スピリチュアリティと教育』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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