- Amazon.co.jp ・本 (208ページ)
- / ISBN・EAN: 9784140884096
作品紹介・あらすじ
わたしたちは、なぜか「古語」と「現代語」が別物だと考えてしまう。だが、古語ははじめから古語だったのではなく、現代語もいつまでも現代語ではない。隔絶しているようで、二つは地続きなのである。本書は、古典と近代の言葉の連続をたどり、「古語」と「現代語」を繋ぐ失われた輪を探すことで、日本人の国語観の幻想をはらい、古典の深奥に誘わんとする一冊である。
感想・レビュー・書評
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2024.1.31読了
かなり時間がかかった。
言葉は生き物である。時代と共に常に変化していく。「誤用」が定着することで新しい言葉や用法になりうる。それを忘れずに、頭ごなしに否定せずに語彙の種を育てていきたいなぁ。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
小難しい内容だったが、何度も繰り返し説明されて理解できた。目からウロコの話だった。
・若山牧水の”白鳥やかなしからずや・・・”の「かなし」は、現代語では「悲しい」の意味だが、古語(万葉集)では「うれしい」の意にも用いられ、この歌が詠まれた頃の牧水の心情(歌集に収められた前後の歌)から考えれば、後者の意に解すべきではないのかという論考。
・鎌倉時代に成立した「徒然草」は、鎌倉時代の言葉(当時の現代語)ではなく、「枕草子」を模した平安時代の言葉(擬古文)で書かれた作品である。江戸時代の「雨月物語」も、江戸時代の言葉ではなく、擬古文で書かれた作品である。
・江戸時代には現在では存在が否定されている古語(古語研究)が存在した。
・歴史的仮名遣いは、江戸時代の契沖から始まった。伝統的仮名遣いではない。 -
古語や古文という言葉が相対的な意味合いでしかないこと、絶対的に正統と言える仮名遣いはないこと(過去の仮名遣い自体が幾度もの変化を経て来ている)、この二つは解った(と信じたい)。しかし仮名遣いは所詮効率というのはやっぱり解らなかった。というより、時代によってはそうとも言えるが、時代が変わればそうも言えなくなるということだと思う。実際愛好家がいる時点で仮名は最早効率のためだけに存在している訳ではないはず。最終目的が仮名遣いなのか、はたまた仮名遣いを通して歴史に思いを馳せているだけなのかは知らないが、仮名遣いに特殊な感情を抱いている時点で効率以外のものがそこに生まれてはいないか。結局何にしても他人に関わるものなら他人の便を考え、そうでないならその人の自由にすればいいことかと“思ふ”。
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第11章 「捏造される伝統」で歴史的仮名遣い論者のクレームを完璧に論破しているのが圧巻だ."伝統ある歴史的仮名遣い”の伝統ある云々は自民党の連中の議論とよく似ている.歴史的仮名遣いに伝統なぞないのをわかっていな人がいるのだ! 著者の明快な論述を楽しめた.
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古語と現代語の断絶の錯覚から生まれた「ミッシングリンク」を断ち切る試み、と書かれた一冊。
最後まで読んでも「ミッシングリンク」という言葉に慣れないことだけが残念(「地続き」に対応する良い表現はないだろうか)。
今の教育現場では、江戸時代までを「古典」の分野で、明治時代からを「現代文」の分野で扱っているが、何かが断絶しているわけではない。
その地続きの中で、いつの間にか乖離してしまった感覚があるのだとすれば、その繋がりを意識させてくれる意味で本書の役割は大きい。
『雨月物語』における「たそ」から、それが誤りであったとしても時代性をきちんと反映することへの研究の第一歩であるという筆者の意見には大きく頷ける。