ヘーゲル『精神現象学』 2023年5月 (NHKテキスト)

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  • NHK出版
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  • Amazon.co.jp ・本 (116ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784142231515

作品紹介・あらすじ

分断の時代にこそヘーゲルの思考法が必要だ!

さまざまな分断が可視化された現代社会にこそ、ヘーゲルの思考法が必要だ!
ポスト・トゥルースの時代はなぜ訪れたのか? 意見を異にする他者と共に生きていくために必要なこととは?
矛盾や否定を重んじて弁証法によって自由を構想したヘーゲルの著作には、
不毛な対立を乗り越えて社会を形作っていくためのヒントが詰まっている。

マルクスが「私は自分があの偉大な思想家の弟子であることを率直に認め」(『資本論』)と書くように、
ヘーゲルは後世に多大な影響をおよぼした大哲学者だが、
破格のスケールで展開される思考には独特の難解さが付きまとう。

今回「100分de名著」で取り上げるにあたっては、さまざまな補助線を示しながら解説。
ベルリンにわたってヘーゲルを研究した斎藤氏が、近年アメリカで進んでいる再評価の成果も踏まえつつ、
日本の一般読者に向けて易しく解きほぐす。

感想・レビュー・書評

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  • Eテレの放送は見ていたようなみていなかったような、という感じ。

    ヘーゲルは好きじゃない。40年前の大学時代に弁証法を教えられたが、納得できなかった。
    命題(テーゼ)に対する反対命題(アンチテーゼ)、その対立から止揚(アウフヘーベン)されてた新しいテーゼ。そんな莫迦なことあってたまるものか。
    マルクスは交換価値の段では、商品の「命がけの跳躍」と言っていたくせに、労働価値にアウフヘーベンされたら、生産性向上による価値の獲得を収奪と決めつける欺瞞。ドイツ観念主義なんてくだらないと思っていた。

    さて、本書で説明される弁証法はぜんぜん違う。何しろヘーゲルが弁証法を唱えたわけではないという。
    (引用)自分の知が否定されるような矛盾に耐えて考え抜き、悪いところは棄て、良いところは残しつつ、より高度の知を生み出していく
    全然、マルクスと違いじゃないか。

    本書は、信仰なき論破について、反論することが目的化して共通認識に至ることがないと批判する。また、「啓蒙」には相手を信頼する態度に欠くとする。
    現代日本でも、論破に血道をあげている輩も多いし、正しいことを主張しているつもりで全然共感を集まられない集団もいるなあ。
    「行為する意識」に自己批判と「評価する意識」の赦しが相互承認の関係の実現に至る。成程と思うが、トランプ支持の共和党員とか、ワクチンにはICチップが入っていると主張する人たちは自己批判も「然り!」という赦しも受け付けないだろうなあ。

    講師役の斎藤先生は100分de名著に加筆した「ゼロからの『資本論』」という本があると広告があった。さて、どうしよう。

  • 「ヘーゲル『精神現象学』」斎藤幸平著、NHK出版、2023.05.01
    131p ¥600 C9410 (2023.06.14読了)(2023.04.28購入)
    難攻不落の大著
    ・カント『純粋理性批判』
    ・ハイデガー『存在と時間』
    ・ヘーゲル『精神現象学』(上記二著の50倍ぐらい難しい)
    (いずれも最初の巻だけ買って積読してあります。)

    【目次】
    【はじめに】社会の分断を乗り越える思想
    第1回 奴隷の絶望の先に ―「弁証法」と「承認」
    第2回 論破がもたらすもの ―「疎外」と「教養」
    第3回 理性は薔薇で踊りだす ―「啓蒙」と「信仰」
    第4回 それでも共に生きていく ―「告白」と「赦し」

    ●他者との協働が不可欠(49頁)
    ヘーゲルによれば、個々の「私」は「私たち」のもとでさまざまな認識や知を獲得し、「私たち」の次元でこそ自由を実現できるといいます。つまり、知の獲得や自由の実現には、他者との協働が不可欠なことを示したのです。
    「精神」章においてヘーゲルは、社会の中で多くの他者と交わり、影響を受けながら、「私」が「私たちの中の私」として成長していく過程を描いています。ここにこそ、ヘーゲル哲学の画期性があるのです。

    ☆関連図書(既読)
    「ヘーゲル・大人のなりかた」西研著、NHKブックス、1995.01.20
    「「幸せ」について考えよう」島田雅彦・浜矩子・西研・鈴木晶著、NHK出版、2014.05.30
    「カント『純粋理性批判』入門」黒崎政男著、講談社選書メチエ、2000.09.10
    「カント『純粋理性批判』」西研著、NHK出版、2020.06.01
    「ハイデガー『存在と時間』」戸谷洋志著、NHK出版、2022.04.01
    (アマゾンより)
    分断の時代にこそヘーゲルの思考法が必要だ!
    さまざまな分断が可視化された現代社会にこそ、ヘーゲルの思考法が必要だ!
    ポスト・トゥルースの時代はなぜ訪れたのか? 意見を異にする他者と共に生きていくために必要なこととは?
    矛盾や否定を重んじて弁証法によって自由を構想したヘーゲルの著作には、不毛な対立を乗り越えて社会を形作っていくためのヒントが詰まっている。
    マルクスが「私は自分があの偉大な思想家の弟子であることを率直に認め」(『資本論』)と書くように、ヘーゲルは後世に多大な影響をおよぼした大哲学者だが、破格のスケールで展開される思考には独特の難解さが付きまとう。
    今回「100分de名著」で取り上げるにあたっては、さまざまな補助線を示しながら解説。ベルリンにわたってヘーゲルを研究した斎藤氏が、近年アメリカで進んでいる再評価の成果も踏まえつつ、日本の一般読者に向けて易しく解きほぐす。

  • 斎藤幸平さんによるヘーゲル『精神現象学』の解説。冒頭100分で解説するのは無理とご本人が書かれているけれど、対立の克服ということをテーマに上手くまとまっている印象。
    昨今のエビデンス主義を取り上げて、単にエビデンスに基づいて論破するという態度は、自己批判の契機がなく自分こそが真理であるという態度に陥っている。信頼のベースがあってのエビデンスということを見失っている。
    言い切ってしまってすっきりしたいというムードが蔓延しているのがいまの時代だと思うけれど、色々な立場や考え方を踏まえながら、絶えず止揚を続ける態度が有限性の中での自由を考えたヘーゲルの立場であるという考え方は現代性があると思う。
    問題はそれは万人がしたがってしまうような普遍法則ではなく、良心のある人のみが採用できるような態度なのではないかということではないか。

  • 右も左も耳を傾けるべき。相互承認を続けるための自己批判の可能性。斎藤さんは世に数多いる左翼とは一線を画する人物であることがよく分かった。

    信仰を馬鹿にする啓蒙の浅はかさの主張が白眉か。

  • ヘーゲルが今のところ自分の思考と最も近い哲学者だと思った ちゃんとした本もいつか読みたい

  •  難解な哲学書の1つである『精神現象学』を、できる限りわかりやすく、要点をまとめたのが本書である。他者との関わりを重視するところが、ヘーゲル哲学の特徴であるが、第4回で、相互承認を理解するために、進撃の巨人の一場面を取り上げたのは意外であった。本書にあるように、相互承認によって、社会にはびこるコンフリクトそのものを解消することはできない。しかし、適切な処理を可能にする、開かれた態度が相互承認である。これは、たしかに、進撃の巨人のテーマ、とくに最終話を彷彿させる。

  • 「近代社会では、規範や伝統を踏まえた絶対的な基準がないため、各人が信じたいものを信じる相対主義となる」という部分は、意見が氾濫して社会の分断が深まる現代社会を上手く言い当てていると感じた。

    一方、その対処方法として、「科学を特権視するのではなく、科学(啓蒙)と信仰の『相互承認』」としているのは疑問も残る。
    あらゆる意見が相対化されると社会は分裂するので、一体感を保つには拠り所が必要。もはや信仰や伝統を無条件で信じられない以上、拠り所は科学しかないように感じた。勿論、科学的な証明は時間を要するので、その間意見が乱立し、有用性に取り込まれることもあるだろうが、人々が共通認識を持つ上では、科学的な裏付けに頼る以外にないのではないか。

  •  なんの疑いももたずに「絶対にこれが正しい!」と持論や既存の価値観に固執する人と比べれば、さまざまな問題を懐疑的にとらえ、現実の矛盾をきちんと表現しようとする論破好きはまだマシかもしれません。しかし、彼らには決定的に欠けているものがあります。それは「協働」の態度です。
     やたらと論破を試みる人は、他者との意見の違いを踏まえて反論しているように見えますが、それは違います。彼らは反論すること自体を目的としていて、相手との共通意識に辿り着くことは目指していません。それゆえ、自身の意見を反省して修正したり、他者との意見の違いを調停する態度がないのです。つねに「自分が正しい」状況をつくるため、議論の展開に合わせて立場をころころと変え、相手を言い負かそうとする。それをエスプリに富んだしかたーーオーディエンスが喜ぶようなやり方でやっているにすぎないからです。
     そういった人々のことを、ヘーゲルは次のように評しています。
     それはつまり一般的な欺罔(きもう)であって、自己自身をも他者たちをも欺くものとなるのである。このような欺瞞を口にするとは恥知らずなことであるが、その無知こそがまさにそれゆえに最大の真理なのだ。
     繰り返しになりますが、懐疑主義は重要です。例えば、伝統や常識の名のもとに差別が温存されていたら、疑いの目を向ける必要があるでしょう。ただし、すべてをひたすら疑っていたら規範やルールが底抜けになって、社会全体が不安定化してしまうので、何らかの形で別の「真理」を固定化していかなければなりません。ところが、他者を論破することばかり試みている人々からは、固定化に向けた他者との協働が見えてこない。これこそが、「教養」の意識の限界なのです。

     私たちは、これまでの自分をみずから超えていく力を持っていますが、人間を学び成長させるような「ほんらいの経験」は、これまでの自分を否定することでもあります。その過程は、自分自身に暴力をふるうものとして感じられる場合があるとヘーゲルは「序論」で指摘しています。
     この暴力を感得するとき、真理を前にして不安はたじろいで、喪失するかもしれないと脅かされているものを維持しようとつとめるだろう。
     今までの自分を捨てなければいけないという不安が、私たちのうちに「真理への恐怖」を呼び起こします。これが勝ると、自分の誤りを認めたくない、変わりたくないという「制限された満足」に固執する態度が現れてくる。これが動物的な意識の特徴です。教養がもたらした近代の自由を拒絶し、自然に帰ろうとするディオゲネスの態度は、まさに「再動物化」という病理の現れなのです。
     私たちは、教養の矛盾を再動物化の病理を避けつつ、乗り越えなければなりません。そのためには、他者と共有可能な客観的な知(真理)を見つける必要があります。そのためには、論破ではない形で他者との関係性を再構築をしなければなりません。

    「良心」とは何でしょうか。ヘーゲルによれば、伝統や宗教にしたがうのではなく、自分が正しいと思っていることを、みずからの判断で行う意識を指します。
     良心は、みずからの判断が「みんなにとっても正しい」と思うから、そのように行為します。そうした良心のあり方を、ヘーゲルは「道徳的な天才」と呼びました。自分だけでなく、他の人にも妥当する正しさを、神のような外的な権威に依らず自分で作る才がある、ということです。
     ただそれだけだと、「良心」は非常に独りよがりなものになってしまいますよね。だから、みずからの判断や行為が、みんなにとっても正しいと思う根拠を、ちゃんと「説明すること」ができないといけない。これが良心の大きな特徴の一つです。「聖書にそう書かれていたから」とか「親や年長者からそう教わったから」といった理由ではなく、なぜそれが正しいと思ったのか、なぜ普遍的だといえるのか、みずからの言葉で説明できる。自分の見解や判断が正しいものであることを、他の人に承認してもらいたいから、きちんと説明し、行為する。それが良心です。
     ここで重要になるのが、他者の視点です。自分が正しい、あるいは良いと思うことが、単なる「思いなし」か、それとも客観的で普遍的なものになっているかは、他者が私の挙げる根拠を受け入れてくれるかどうかで決まります。説明しても、「そんなのおかしいよ」といわれれば、独善的な「思いなし」だったことになる。他人が承認してくれるーーつまり、評価し認めてくれることが重要です。つまりこの過程は、必ず他者を巻き込んで展開されるという点で対話的であり、相手とのやり取りを通じて展開されるのです。
     何が正しいかはダイアローグ(対話)によって決まるーー当たり前のようにも思えるヘーゲルの主張は、道徳法則をめぐる議論に大きな転換を迫るものでした。というのも、第2回で触れたように、ヘーゲル以前の哲学は基本的に個人主義モデルだったからです。道徳的な「正しさ」を吟味する方法も同様です。その典型例が、カントの定言命法です。

     繰り返しになりますが、相互承認によって社会からコンフリクトそのものがなくなるわけではありません。あくまでも、コンフリクトの適切な処理を可能にする態度が相互承認だということです。
     そのような到達点を、ヘーゲルは『精神現象学』の最終章で「絶対知」と呼びました。絶対知というと、絶対的に正しい知を手に入れた状態をイメージされるかもしれませんが、それは間違いです。また、素朴な意識から出発して「教養」「啓蒙」「良心」へと長い旅を続けてきた意識が、ようやく辿り着いた安住の地というわけでもありません。
     なぜ間違いかといえば、私たちはあくまでも有限だから、絶対的に正しい知のもとで安住などできないからです。主観的確信と客観的知、普遍性と個別性、自分の判断と社会の規範ーーこういった緊張関係から生じるコンフリクトを相互承認に基づいて調停し、一緒に考えながら、絶えず新たな知を反省的に生み出していく。これは、道徳や政治といった領域はもちろんのこと、自然科学でも同じです。この問いのプロセスは永遠に続いていく。まさに、そのような「開かれた始まり」こそが、近代の到達点としての「絶対知」なのです。
     先に引用した文章のなかに「相互承認が絶対的な精神である」という一文がありました。これまでの記述からもわかるように、この「絶対精神」も、つねに新たな知に開かれている精神のありようを目指しています。「絶対知」や「絶対精神」を全知全能の神の視点として誤解する人が絶えませんが、それはへーゲルが考えていたこととは正反対なのです。ヘーゲル哲学のエッセンスは、神が死んだ近代という時代における人間の有限性の肯定なのですから。

     協働の負担を嫌がる人たちは、対立する相手と議論したり、「なぜ彼らはそう主張するのだろう」と想像力を働かせたりする代わりに、「あいつらは話のわからないバカだから」と斬って捨てます。時間も手間もかかるだけでなく、自分も傷つくことのある他者との協働の道を選ぶか、「バカは相手にならん」と自分たちの価値観に閉じこもる道を選ぶかーーその選択は私たちの「自由」です。後者の道を選ぶ方がもちろんずっと簡単でしょう。ただし、自分の狭い世界に閉じこもって他者を否定する行為は、第2回で指摘した「再動物化」という病理的な態度だということは強調しておきましょう。

  • 難解な書をかなり分かりやすく解説してくれている。啓蒙と信仰の戦い、論破する人に足りない視点、反省など、一つひとつのトピックがうまくまとまっていた。

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著者プロフィール

1987年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科准教授。ベルリン・フンボルト大学哲学科博士課程修了。博士(哲学)。専門は経済思想、社会思想。Karl Marxʼs Ecosocialism:Capital, Nature, and the Unfinished Critique of Political Economy (邦訳『大洪水の前に』)によって権威ある「ドイッチャー記念賞」を日本人初歴代最年少で受賞。著書に『人新世の「資本論」 』(集英社新書)などがある。

「2022年 『撤退論 歴史のパラダイム転換にむけて』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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