啓蒙思想2.0〔新版〕: 政治・経済・生活を正気に戻すために (ハヤカワ文庫NF)

制作 : 宇野 重規 
  • 早川書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (592ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784150505875

作品紹介・あらすじ

世界はもはや右翼/左翼ではなく、狂気/正気に分断されている。保守主義や認知科学を動員した、新しい啓蒙思想。解説:宇野重規

感想・レビュー・書評

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  • 2022年からちょびちょび読み進めてきて、ようやく読了の523ページ。

    精神的環境を改善するために、ファストライフ(素早い消費を促進させ、理性を働かせなくさせる社会)を捨て、スローポリティクスを掲げよ。
    そして、その目標の下に集団的な行動を起こしていこう、という一冊。

    何度も何度も、分かった気になってしまう自分に、分かった気になってるだけだよ、人間の直感ほど当てにならないものはないんだよ、と警鐘を鳴らし続けてくれて、面白かった。

    「進化的適応の環境でたぶん平均寿命が三〇歳にも届かなかった時代には、この未来への態度はさほど重要でなかったが、人間の寿命がどんどん延びるなか、未来を扱う直感的能力にほとんど欠けることは、強力な現在主義バイアスとあいまって、ますます厄介になっている。」

    「アインシュタインを偉大な科学者たらしめたのは『違った考え方をする』能力ではなく、『否定的要素を考える』能力だった。いかにも、科学教育の中核をなす美点はーー単なる技術教育に反してーー厳格なまでの反証重視である。」

    「『バイアスがかかった自分の考え方は意識的な内省によって検知できる』と考える傾向が強いが、そうではない。内省は誰もが思うよりはるかに頼りないものだ。そして困ったことに、内省の限界は内省では確かめられない。したがってバイアスがかった自分の思考傾向の最大のチェック機構は、他者の人の誤りを正そうとする意志である。」

    「あまりに致死性が高いと、ウイルスは自滅する。患者が死ぬか、または免疫をつけるからだ。ヒト個体群はそんなわけで中度から低度の害しかないウイルスたちを保有するようになっている。」

    「学ぶべき教訓は、容易さは理性の敵ということだ。なのに教育者たちは長年、学生にとって学習を容易にすることが、または直感的に理解しやすいように課題を提示することが仕事だと言われていた。ここから、認知バイアスを克服するように学生に教えるよりむしろ、以前から存在する認知バイアスを発動させるだけのことになるという、真の危険が生じる。」

    「これらの事実は、生物兵器や化学兵器を手に入れたテロリストでさえも、多数の人々に被害を与えられる状態までには、まだ至っていないことを示している。なのに二〇〇六年八月のギャラップ世論調査では、アメリカ人の四四パーセントが、自分か家族がテロ攻撃の犠牲になることを『とても』もしくは『いくぶん』心配していると答えた。これは現実のリスクの異常なほどの過大評価である。」

  • 実に挑戦的な書物だ。とかく私たちは合理的/理性的に考えることを理想とする(からこそ、人間はそんなに理性的ではありえないと居直る御仁も現れる)。だが、啓蒙思想とそれを批判した保守主義の歴史を引き、それだけではなく生物学的な見地からも人間存在にアプローチし、とにかく「人間の非合理性(平たく言えば『軟弱さ』)」を丸裸にする試みがここでは展開される。そしてだからこそ、その弱さを踏まえて啓蒙思想に新たな可能性を見出す試みが行われる(過去を学び直し更新するからこその「2.0」だろう)。力作で、再読するべき本と思った

  • 人間の脳は構造的に弱点があり、そのため常に非合理的な考え方が優勢になる。この仕組みを克服するのではなく、よく理解して上手く使おうという提案書。そうすれば、世にはびこる非合理主義、反知性主義(例えばトランプ主義者。本人たちは思想だと思っている)に対抗できるぞ、と。それがアップデートした啓蒙「啓蒙思想2.0」。
    端的に2.0とは、「政治は外部クルージ(人間の脳の弱点を有り合わせの応急措置で解決する)を利用していこう」「他者からの啓蒙(コントロール)をどんどん使っていこう」ということ。「個々の人間が理性を高めて社会を向上させる」というポストモダンで個人主義的な思想は武器にならなかった。実際効力が無い。個人では弱くて戦っていけない。いっぽうで、集団で協力して非合理を無効にするのはかなり有効。問題に直面したら、非当事者からの冷静な理性的助言に頼り正気を取り戻す。そして別の機会にはその立場が逆転する状況も起こるので、その時はこちらが理性的判断を代行してあげる。

    偏見・男女差別・人種差別は人間のもって生まれた性質なのか。残念ながら、人間は、内には連帯感を求め、外には敵がい心を抱くという自集団中心バイアスは、変えられない性質は持っている。しかし幸運にもこれは固定されておらず、グループのくくりが固まれば性別、人種にかかわらずどのような集団にもなれる。「○○社員」「シカゴ・カブスファン」など。
    そして人種に注意ができるだけ行かないようにすれば、差別感情は低下する。典型的なのはアメリカのぷろすぽーつチーム488

    肥満問題では外部クルージ(クルージは、場当たり的な、いいかげんな解決策)の有効性が実証された。アメリカでは肥満問題解決のため外食のカロリー表示が義務付けられたが効果はなかった。しかしニューヨークのブルームバーグ市長は470ml以上のソーダ販売禁止の法律を作った。悪法とか、無意味な法制とかの声が高かったが、これが有効だった463

    学校の授業以外、合理的理論を身につける場は、おどろくほど日常の中に存在しない。ディナーパーティーでたとえ10分間でも相手の話に真剣に耳を傾ける人はいない。ましてや説明に1時間を要する話など、聞く人はいない。但し例外がある。それは本だ458

    インフレというのは、人間の脳の弱い部分をなだめて経済問題を解決できるように作られた政策。「給料が下がる(名目賃金が下がる)」と言われると弱い部分はひどく動揺する。しかし給料は上がるがそれを上回って物価が上がること(実質賃金が下がる)には反応が鈍い。このような脳の仕組みを取り入れた経済問題の解決法がインフレ。インフレ政策は典型的な政治における「外部クルージ」である450

    リベラル本の結論によくある「よく考えて、批判的になって認知バイアスを克服するのが大切。さぁ読者の皆さんも実行しよう、」というのは、理論は正しいがほぼ無意味。非合理主義をこの戦略で覆せる楽観論に根拠は無い439

    環境保護論者は地球環境問題を否定する論者(基本的に右派)を「科学的コンセンサスを無視する愚か者」と罵るが、いっぽうで自らは「ワクチンの否定」「農薬の否定」「ホメオパシーの推奨」を同じ口で言う。その時都合の良いことに、右派同様にしばしば陰謀論を持ち出す338

    マルクーゼの思想が支持されると、新たな申し子が次々に生まれる。その典型的な一人が「フェミニズム」だ。当初は男女の対等な「理性の追及」を目指し、それが達成されなかった歴史は、「女性の教育機会の無さ」つまり理性のゲームに参加させてもらえなかったのが原因とされ、その克服を目指した(ウーマンリヴ)。しかし理性の正統性が失われる「解放と自由」の時代になると、フェミニズムは理性と直感の対比論争の中で、直感を支持したくなる誘惑に駆られた。理性と直感の対比は、そのまま男の流儀と女の流儀の対比と類比され、戦争を生む男の流儀(正統性の疑わしい「理性」の象徴)よりも、それに対抗する女の流儀(すなわち「理性に対抗」するのだから「直感」に類比される)のほうが正統性がある、と主張されることになる(ラディカルフェミニズム)331

    理性の申し子「科学技術」はユートピアを生み出すはずであった。しかし2つの世界大戦は科学技術が善ではなく、多くの人々を殺戮するものだと認識させた。これに対し、ドイツからアメリカに戦時亡命したヘルベルト・マルクーゼは、解放と自由を重視した思想を生み出す。科学・管理と人間の対立を、解放された意識で超克することで、技術は「芸術」に進化する、と提唱した。この思想は60年代のニューエイジに支持された。これが現代まで生き残っている「リベラル側の反合理主義」に繋がる。そして、時が経つとこの思想は、新たな科学技術も、自然と折り合う方法も、理想の人間社会も生み出さないことが解った。327

    成功した迷信や神話は「一点だけ期待から逸脱している」法則がある。全てが期待どおりだったり、期待が複数外れていたりするものは失敗する。例えば幽霊は「物質ではない」ので壁や窓をすり抜ける(『リング』ではモニターまでも)。しかし「床をすり抜ける」だけはしない(重力の法則にだけは従う)。本来、物質では無い法則期待があるなら床をもすり抜けるが、そうすると宇宙空間を高速で移動する地球から取り残され、出現後一瞬で「幽霊に遭遇した人」から置き去りにされる286

    文化(非自然なもの)の伝播はウイルスと同じ法則。狡猾で、拡がりやすく、駆除しづらいもの、つまり人間の弱点につけ込むものが生存競争を勝ち抜く。SARSが治まったのは、潜伏期感の短さゆえに流行を失ったから。また、近年エイズの死亡率が低下しているのは、致死性の高いウイルス個体より低い個体が優位に進化したからだと言われる269

    社会は人の問題解決ヒューリスティック(経験則に則した大まかな正解)をわざと混乱させ、誤解を与えるためにデザインされたものに溢れている。最も典型的なのは洗濯洗剤のキャップだ。必要以上に大きく、メモリは内側に小さく書かれ、何の説明もない。色はブルーがかった半透明でメモリは見にくい。「太いコップに入れると少なく見える」錯覚を利用した極太の径。不注意な利用者はキャップいっぱいの洗剤を毎回使う。これらは全て「洗剤を必要以上に使用させる」ためのデザイン。平均的に使用者は必要量の6倍の洗剤を使う。このことで衣服の劣化を早めてもいる258

    マーガリンが市場に出回った時、酪農協会は「マーガリンを青く着色する法律」を実現しようと運動した(青色は人間の食欲をそぐため)。これは実らなかったか、マーガリンを不自然なオレンジ色に着色することはかなった255

    2011年猛暑のテキサスでは州知事のリック・ペリーは対策として「三日間の雨乞い」を発令した。その間石油の採掘を続けた。そしてその後大統領選挙に出馬した247

    多の霊長類には無く、人間だけに備わった本能として「利他的な懲罰」がある。これは直感に関連するものであり、人類学でも近年認められつつある。自分に不利益が被ることがあっても他者を攻撃する行為。227

    キース・スタノヴィッチは、「911陰謀論」「高度な占いを勧める隣人」「オーガニックに取りつかれた人」に「合理性障害」という疾患を名付けた212

    「直感(無意識)」を賞揚する研究者たちがいる。しかし直感の最大の欠点は、それがどんなメカニズムで働くかを何も説明出来ないことである。そもそも直感とは、「どうして機能してるか解らない」という事実自体が本質となってしまっているものだ。177

    理想の社会は、国や地域、集団によってまったく異なる形式であり、各々の歴史的修正の累積によって作られてきた。しかし西洋生まれの思想は、「民主主義の形は決まっている」という立場で、それを他国に強要する。このことで様々な逆効果が生まれている。しかも西洋人の間でも「民主主義の形はこうだ」と合意できていないのに。まったく図々しい141

    哲学の歴史では「本能」「欲望」「直感」などは、「理性(道徳)」に劣るものとされてきた。近年になると「道徳(理性)」という存在こそ幻想であり、こじつけのインチキだということになった(ここまでが啓蒙思想1.0)。それが最新の脳科学では「理性」が思想や哲学ではなく、言語を司る機能の一部であることがわかってきた103

    啓蒙思想をアップデートするカギは、どうやら人間の理性である。理性はきわめて自然に「反した」ものだ。これは私たちを自然状態(動物)から解放する可能性があるいっぽうで、そのプロセスはかなり難しい。なぜなら理性を生み出す脳機能は、偶然に備わったきわめて未完成で不合理なものだと科学的に解ってきたから。93

    フロイトは無意識を「内なる子供」と表現したが、現代の心理学者は「内なる火星人」と表現するほうが適切だと考える。人は人間の思考回路より、むしろコンピューターの思考回路のほうが理解出来る。73

  • だいたい山形ひろおが訳してそうな本好きは、ジョセフ・ヒースとか、ジョナサン・ハイトとか大好きやろがい。(星の数は本の良さでなく、単なる好み)

  • 科学的根拠のない言い放しの演説や、都市伝説のような噂話が世の中に溢れている。匿名の一般SNSユーザーの発言ではなく、一国のリーダーが、平気でこういったフェイクをばら撒き、指摘されても開き直り、訂正もせず、陰謀だと逆ギレる。著者はこういった世界的な風潮の分析し、人間の判断や知性の弱点を指摘し、熟慮、理性を取り戻すこと、スローポリティクスを提唱する。確かに、情報の奔流と、アプリの普及などで一瞬にして意思決定させられる状況が、こういった時代を引き起こしているのかもしれない。熟慮、大事だなあ。

  • 心理学の見地から人間の合理的思考の脆さを一通り指摘し、その上で現在までの政治や経済活動における反合理的な風潮を見直す。個人的にはナッジ・パターナリズム(リバタリアン・パターナリズム)が権利の制約が最小限である、という点において魅力的に思った

  • 現代の社会において、人々はなぜ理性的に議論を重ねて結論を出すことができなくなってしまったのか?なぜ、「右派と左派」といった意見の食い違いどころか、「何が事実か」といったことまで、共通認識を持てないほどに人々は分断されてしまったのか?そして、社会的な課題に集団として取り組むための熟議による民主主義といった基盤は、完全に失われてしまったのか?

    このような問いに答えるために、近代社会制度の基盤を形づくった「啓蒙思想」という考え方をその土台から再検討し、その課題を分析するとともに、社会における集団的な課題解決の基盤を取り戻すために必要な新しい啓蒙思想を提唱している本。


    啓蒙思想の背景には、人間は理性を持っているという前提がある。そして、人々が理性を働かせてしっかり考えれば、正しい結論や社会的な合意に至ることができるというのが、啓蒙思想が描いた近代社会の理想像だった。

    しかし、筆者は、この構想には無理があったと考えている。その最大の要因は、人間の脳は「勘」と「理性」という2つの仕組みを備えており、それぞれに異なる特性を持っているという点にあると本書では述べている。

    勘は経験やその場の状況から素早く判断し結論を出す。これまでに経験した似たような状況を手がかりに、何が正しいのかを判断していく。このような仕組みはヒューリスティックと言われる。このシステムは他の生物の脳にも備わっており、長い進化の歴史の中で積み重ねられてきた生存のための仕組みである。

    一方の理性は、推論を積み重ねて答えに至る。これは人間に特有の思考である。このプロセスは多くの労力と時間を要する。勘のように素早く結論を導き出すことはできず、また使うのにはトレーニングが必要である。

    勘と理性は多くの面で対比的である。勘は進化の中で発達してきたために、経路依存的であり、特定の状況でどう判断するかということをベースに積み重ねられてきた能力である。そのため、一見似てはいるが異なる環境に直面したときに、判断を誤ることが多々ある。一方の理性は、状況を抽象化し、合理的推論を積み重ねて結論に至るため、状況に依存せず一般化できる。


    脳は長い生物進化の大半の期間を勘を基にして判断してきたため、理性を働かせることは我々の脳にとって大きな負担である。しかし、私たちの社会が大規模化し、複雑化していくなかで、私たちは勘にだけ頼って社会を動かしていくわけにはいかない。理性的に考え、集団的な意思決定をすることが、社会をより良くしていくためには必要なのである。

    筆者は、理性が我々にとって最上位の決定者になるべきであると述べている。それは、理性がすべての問題を解決するということではなく、勘による判断が誤っている可能性を認識し、何を勘に委ね、どのような場合には理性を発動する必要があるかということを判断する権限を理性に与えるべきだということである。


    しかし、理性的に考えることは難しい。我々は慎重に考えを進めているつもりでも、錯覚や誤解、推論の誤りに陥ることが多々ある。最近の心理学の多くの研究も、このことを明らかにしてきた。筆者は、その大きな理由が、理性と言えども純粋に抽象的な推論に拠っているのではなく、外部環境を思考の足場として使っているからであるとしている。

    我々の脳は、理性的な推論に求められる短期記憶の容量に限界がある。そして、その短所を外部に思考の足掛かりを作ることで、乗り越えている。しかしこのことは、外部環境が意図的に操作されていても、それに気づかずに誤りを犯してしまうという可能性にもつながる。例えば、メディアに取り上げられることが多い事件は、実際より多く起こっているように感じる。また、シンプルなメッセージがくり返されると、それを真実であると考えるようになる。

    このような理性と外部環境の関係性を十分認識することが、新しい啓蒙思想の大切な手掛かりになると筆者は考えている。17世紀から発展した啓蒙思想1.0は、理性を個人主義的なものと考えた。自分の頭の中で熟考すれば、正しい結論が得られるということである。

    しかし、実際には理性的な思考をスムーズに行えるような構造に、われわれの脳は作られていない。外部環境を足場にしながら思考のステップを上っていくのが我々の脳である。


    このような我々の脳が理性を働かせて社会を構築してくことができるようにするということは、個人の努力(だけ)の取組みではなく、社会的事業であると筆者は述べている。

    具体的な方法の1つとしては、心理学者のキャス・サンスティーンとリチャード・セイラーが述べているように、我々が正しい結論に至るように後押しをするような選択的アーキテクチャを社会システムの中に組み込むといったことが挙げられる。例えば、公的保険など集団的に実施することによって社会全体の福祉が高まるような制度については、オプト・アウトの形で制度を設計するといったことである。

    さらに重要なのは、政治や社会に関する議論において、すぐに結論を下すのではなく、時間をかけて議論する、そして実施に至るプロセスに敢えて手間をかけるということである。現代の社会では、メディアも政治家のメッセージも、社会的な出来事に素早く反応し、結論(誰が悪いのか?何を変えればよいのか?)を性急に出そうとする。

    しかし、理性とは結論を出すまでに時間がかかる思考方法である。熟考と熟議のための時間を理性に与えることこそ、デマやプロパガンダ、偏見や怒りに支配された判断から社会を守るために大切なのである。筆者が「スロー・ポリティクス」と呼んでいるこのような仕組みは、その時々の社会的な雰囲気に流れることを抑制することを目指しており、間接民主主義の国では、選挙や二院制といった様々なステップによって、実現されている。


    私たちの脳の仕組みを紐解くことで、「しっかり考えればわかるはず」という「啓蒙思想1.0」の限界を明らかにし、その限界を率直に受け止めることで、外部環境という足場を正しく活用した「啓蒙思想2.0」を提言するという、非常に広がりのある本であった。

    理性を導くための社会の仕組みとして、どのような外部環境が我々を「正しい」結論へと導いてくれるのかと言うことについて合意を得るためには、それ自体にも理性に基づく議論と社会的合意が必要であり、そのようなシステムをどのように設計していくかということについては、これからさらに議論が必要であるように思う。

    しかし、筆者が「スロー・ポリティクス」の例として挙げている間接民主主義などの仕組みは、理性をより効果的に活用していくための必要な仕組みであることが、この本を読んでよく分かった。同様に、マス・メディアやSNSのあり方についても、これらが直観や感情をあおるのではなく、理性を支える外部足場になるような仕組みを考えて行くという方向性が大事なのだということを考えさせられた。

  • 二度の大戦以降、理性を信じきれなくなってしまった現代人に向けて教育とかルールとか、縛られるのも案外悪くないかもよ?理性信用してみようよって投げかける本。

    文句はごもっともなんだけど、改善策がイマイチ出てこないなぁと。それは自分も同じなんだけど。

  • 従来の啓蒙思想の誤りは理性を過大評価したこと。合理的判断には熟慮する時間と認知が必要だけど、人は少ない認知をケチるようにできているし、社会はより直感的でスピードにとりつかれるようになった。広告やSNS、政治の主張はファクトチェックが入る前にメディアによって拡散し繰り返されることで真実化してしまう。真実より真実らしさが重視される時代に、理性の劣化を止め合理的な政治をおこなうためには、それを可能にする条件を理解し改善する方法を熟慮して、集団行動(政治)に取り込まなくてはならない。落ちついていきや。っていう本。

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著者プロフィール

1967年カナダ生まれ。トロント大学教授(哲学・公共政策・ガバナンス)。著書に『ルールに従う』、『資本主義が嫌いな人のための経済学』などが、共著書に『反逆の神話』(すべてNTT出版)などがある。

「2014年 『啓蒙思想2.0 』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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