粛清

  • 早川書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (403ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784152092724

作品紹介・あらすじ

エストニアの小村に暮らすアリーダは、ソビエト統治時代の行ないのせいで近隣からいやがらせを受けながらも、家族の土地を守りながら細々と生活している。ある朝、彼女は家の庭に見知らぬ若い女が倒れているのを発見する。またいやがらせ?あるいは、最近流行りの盗賊の一味?悩みながらも、アリーダは衰弱している女を家にあげてしまう。その女はエストニア語を話すロシア人で、名前をザラといった。誰かから逃げているようだが、理由ははっきりしない。行動も奇矯だった。だが、孤独なアリーダは、ザラを家に匿うことに決める。-激動の歴史に翻弄されたふたりの女の邂逅を描く、フィンランドの新鋭作家の代表作

感想・レビュー・書評

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  • 読み終えてからも、頭の一部はまだ読み続けているよう。
    あの人は本当は、じゃああの人は、と考えることをやめられない。
    エストニアの老女の庭先に倒れていたロシア人の若い女。
    その出会いが暴き出す過去。
    時間軸を頻繁に動かし、手記や公文書を挿入する構成が効果的で、非常に上手い。
    彼女がしたことは許されるものではないだろう、けれど、だからといって彼女が受けた仕打ちや他国の支配(どちらも他者を辱めて恐れで従属させることだ)が正当化されるわけではない、決してない。
    その逆も然り。
    タイトルの原語は「掃除」という意味も含むと検索で知り、より納得した。
    シビアだけれどきっちりと物語の面白さも備えた良作だった。

  • すごい本だねえ。エストニアという国が舞台。田舎で老女が一人で住んでる。行きだおれみたいな若い女が庭で倒れてる。仕方なく介抱する。それでなくとも近所の嫌がらせはいまだに止まないのに、面倒なことはごめんこうむる。嫌がらせはかつてソ連時代に共産員と生き延びるために結婚し、近所に嫌な思いをさせていたからなのだった。そもそも思想はないのに、その行動をさせた彼女のエゴ。時代に蹂躙されてきたエストニアという国を女性の生き方を通じて世界41ヶ国に発信。フィンランドの人だけどな。まだまだ知らなければならないことがある。

  • 朝日のグローブの海外出版事情みたいなページで読んで、いつか日本で読めるだろうかと思っていたら、邦訳してくださる方がいらして、無事日本語で読めることに。
    読んでみたら、あれだ、『魔女たちの饗宴』だったかな?旧ソ連圏の女性作家が描いた、とある作品に結末が似ているんじゃないかな~と思って読んだらほんとに酷似していた。
    ということは、エストニアでは実際そういうことがあったのか、あったと噂されていたのだろうか。

  • 兵士の長靴の下で、それでも私は生きる。

    エストニアの小村で独り暮らす老女アリーダは、ある日自宅の前で倒れている若い女を見つけ、ザラと名乗るその女を家に置くことになる。アリーダには、かつてソ連占領下のエストニアで共産党の活動家の妻として暮らしながら、初恋の人であり、反政府地下組織のメンバーとして追われる身である姉の夫、ハンス・ペックを匿うという秘密があった。ザラの存在は奇しくもアリーダが生涯抱え続けた秘密につながっていく。

    本書はバルト海に面してたびたびソ連やナチスドイツといった大国に運命を翻弄されたエストニアを舞台に、その占領下で虐げられつつも強く生きた女の物語です。

    アリーダの心象風景なのか文中度々現れる、彼女たちの生活空間に当たり前に存在していたと思われる蝿や、共産党による粛清のアレゴリーとも思える男たちの長靴(ちょうか)で描写されるこの小説世界は極東の戦後生まれの自分などには到底想像をし得ないものです。

    この小説が「北欧の文学的レディー・ガガ」と呼ばれる37歳の女性作家の手によるものというのは大変な驚きでもありました。フィンランド人を父にエストニア人を母に持つ著者が、自身のルーツに繋がるエストニアの辿ってきた軌跡に強い関心とある種の愛情を以って書かれた作品であることが伝わってきます。

    自分の人生さえままにならないソ連の圧政下で、アリーダがただ一つ決して手放そうとしなかったものが、匿っていた義兄ハンスへの執着でした。姉のインゲルとその娘リンダが、反政府主義者の家族としてシベリアに強制移住させられてもなお、彼女は夫と娘の住む家、食器棚の向こうの隠し部屋に彼を匿い続けたのです。

    兵士から加えられる恥辱に耐え、生きるために共産党の活動家と結婚し、人から疎まれる仕事をこなす。危険を冒して彼を自由にしようとした彼女の思いはしかし、報われることはありません。少女の頃から持ち続けてきた義兄への想いは、当然ながらハンスには受け入れられるものでは無かったからです。

    ザラとの関係が全て明らかになり、アリーダがすべきことを終えた末にその思いをとげるためにとった行動には、だから胸をしめつけられるのですが、隠し部屋で書き続けられたハンスの手記、そこに残された一文は、アリーダの切ない思いに最後まで追い打ちをかけるものでした。

    「まだ自由の身ではないが、まもなく自由だ。俺の心は、燕のように軽い。
    家族三人一緒になれるのももうすぐだ」

  • エストニアの農村、美しい森に接した古い農家で孤独に暮らす老いた農婦アリーダのもとに、ある日、年若いロシア人の女が逃げ込んでくる。見知らぬ相手を警戒しながらも、近しいものを覚え、手をさしのべながらも疑い、ふと激しい憎しみの感情さえ覚えるアリーダ。それは、この娘が、長年忘れようとしてきた恐怖の匂いを発散していたからだ。暴力に虐げられてきた女が放つ特有の匂い。同じ経験をもつ者には嗅ぎとれるそれは、否応なしにアリーダの身体にも浸透して、心の奥底にしまいこんできた過去の恐怖と秘密をひきずりだしてしまう。
    エストニアは、第2次世界大戦中の1940年にソ連に占領され、翌1941年にはドイツが占領、ドイツが敗戦するとふたたびソ連に併合された。ソ連による支配下で、独立ゲリラ闘争に参加した者たちをはじめ、多くの人々が粛清され、シベリアに送られたという。エストニア人の母をもつ若い書き手によるこの小説は、ソ連の支配が、女たちの身にどのような暴力となってふりかかったのか、身体に深く刻まれた恐怖が、世代を超えて、娘たちにまでどのように引き継がれたのかを、ふたりの女の緊張に満ちたやりとりを通して描き出した。
    恐怖と恥辱に捕らえられてしまったために、必死の思いで「安全」を求め、愛する人を裏切り傷つけることになってしまったアリーダの人生は、ときに読み続けるのが辛くなるほど。それは、ザラのように、今この時にも同じように虐げられ苦しんでいる女たちがいるからだ。
    ふたたび守るべき者を家に迎え入れることになったアリーダのもとには、恐怖もふたたび訪れる。だが、今回は彼女は同じ行動はとらない。
    男の暴力にたちむかう「女同士の絆の物語」という美しい図式にあてはめるには、踏みにじられてきた女ふたりの関係は、あまりにも緊張をはらみ、疑念と怒りと恐怖に翻弄されている。だが、アリーダがザラをたしかに自分の身内だと認めるのは、同じ恐怖をわかちあっていることだけが理由ではなく、同じ生活への愛の痕跡を認めたからであった。アリーダが手元において育てた実の娘にはついに伝えることのできなかった、植物の名前、薬味や薬草の使い方、冬を越すための保存食のつくりかた。それは、アリーダが愛しながら憎み裏切った姉が、壊されてしまった娘を超えて孫娘に伝えた、美しい森に接した女たちの生活の記憶だった。いま恐怖から解放されて、眠りにつこうとするアリーダを包む家と森の匂いが嗅ぎとれるようなラストシーン。
    最後の公文書のパートの効果にはやや首を傾げるが、深い歴史的洞察と筆力を示す、忘れがたい小説。

  • この小説はいくつかの軸で説明できる。「時代」という現実の軸、「エストニア」という土地の軸、そして「女」という悲しみの軸だ。フェミナ賞が多分に女の苦しみという軸からこの本を評価したのなら、僕は作家が描こうとした「時代」の現実を評価したい。今も昔も大国の狭間に翻弄されてきた人々と、エストニアに変わらず、おそらく多くの国で繰り返されてきた悲劇の時代。人は歴史を描くときに人を介さないことができない。そこで書かれたものは物語として、次の世代に受け継がれていく。二つの軸がエストニアを舞台に、錯綜し紡がれた傑作だった。

  • ひたすら読みにくい本で途中で諦めた。非常に興味のある内容だけに残念。

  • 為すすべがない。そんな状況に本当の意味で追い込まれたことがあるわけでもない自分が、この本の中のあれこれに口を出せる筈はない、と一端は思いを定めてみて、それから少しだけ考え直す。ひょっとすると言いたいことがあるのじゃないか、自分、と、問い直してみる。

    信念を貫く、と言うとき、自分も含めて多くの人々は、純粋な形・行動として表れるものを、言葉の差し出す手形として要求してしまうようにも思うけれど、見掛け上は翻意したように見せながら本質的な意味で守り抜く信念の在り方も、きっとあるに違いない。それがこの本の中では「愛」という辺りが如何にも一神教的で、身体的には馴染みにくい趣を押し付けられたような気になるにせよ。

    政治的信条というのも結局のところは宗教的信仰心を支えるものと大差がある訳ではない。そこに救いを求めるという構図もまた然り。その大元の心が如何に慈愛に満ちたものであるにせよ、発露として振りかざされる正義は常にブルータルだ。これまたその信仰が政治的信条に対するものであっても宗教的信条に対するものであっても同じ構図が見える。人間というものの業の深さに眩暈がする気になる。それだからこそ主人公の女性が愛国心と個人的愛と家族愛を天秤にかけても違和感はない。

    解らないのは主人公の女性の姉である。ウラジオストクに棲む晩年を迎えつつある女性については、そこに照明を当てたもう一つの物語が立ち上がりそうであるのに、表にそれが出ることはない。特に彼女が故郷で暮らしていた時の心情が立ち上がらないように思う。歪曲して見れば、彼女の選択したものが、そして結果として得られたものが単純なものであったようすら見えてしまうというのも、どこかしっくりと来ない。匿われていた夫の行方が如何なものであったとしても(作家は敢えてそこに余地を残したような書きぶりだが、その効果は限定的であるような気がする)彼女の物語は広がる気配がない。そしてその流れで言えば、彼女の孫娘の信条もはっきりとはしない。

    但し孫娘の信条がはっきりしない、というのはひどく現実的な描写であるともみえる。今の世の中、政治的であれ宗教的であれ、それに完全に依存するような信頼心を人々は持ち得ないのだから。あるものは迷いだけである。迷いを断ち切る術となっていた過去のありとあらゆる信仰は本質的な救済を与え得ないことも明らかになってしまったのが現代であるとも言えると思うけれど。過去においてそのような信条が成立しえたのは人々の移動が限定的であった為なのかもしれない。限定された人々の動きが、ボーダー、を生む要因となる。境界が定まれば白と黒とは、はっきりと分けられる。境界内には教会を置く。福は内、鬼は外。

    もちろん、そんな風に斜に構えないでこの本と対峙してみてもよい。そこに見えてくるのは主人公の女性の禍々しいまでの人間味なのだと思う。それがあまりにも匂うため、そしてその人間臭さに現代人たる自分の鼻がやんわりとした拒絶反応を示すため、敢えて色々と言い連ねてみたいだけなのかも知れない。どんな状況でも対応することはできる、というメッセージを読み取りたくない、という思いが、どうやら自分の中にはあるらしい、ということに気付かされる。

  • 図書館でみかけて前を何回か通り過ぎたんだけど、やたら気になって結局借りた。
    併合前後のエストニアと、ソ連崩壊前後のロシア、時代の節目で生きる二人の女性の物語。
    母と娘や姉と妹の間には齟齬があり、男女の間には越える気も失せるほどのとてつもない溝がある。

    信頼が擦り切れた世界で、みんなが嘘をつき腹を探り合って生き残ろうとする。
    妄信みたいなすがりかたでも、何かを美化して希望にしなくちゃ動けなくなる。
    身体的な部分もそうだけど、精神的な苦痛の描写が生々しくて痛々しい。

    ひきこまれるけど筋が微妙にわからない(自分の理解力のせいもある)。
    ここで終わっちゃうの?このあとどうするの?
    それでも魅力的な本だったと言える。

    「粛清」されたのは誰なんだろう。


    言い回しがよくわからないのは文化の違いか?


    歴史絡みの小説というところで
    「この世の涯てまでよろしく」http://booklog.jp/users/melancholidea/archives/1/448801335X
    「オリガ・モリソヴナの反語法」http://booklog.jp/users/melancholidea/archives/1/4087745724を思い出しながら読んだ。

  • おぞましくて悲しい時代を生きていた主人公。執着心が強くて辟易するところもあるが、彼女を憎むこともできない。最後も悲しい。こんな社会がまだどこかにあると思うのもやりきれない。

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