ふれたところから稲妻
今日では小説『嵐が丘』の著者として知られる存在。エミリ・ブロンテの詩にふれてみました☆
英詩って翻訳した端から光が薄れていくもののようで、完全に理解しようとしても難しいのだなぁ……。それでも、言葉の向こうからただならぬ熱情が吹きつけてくる。引きこまれました。
『嵐が丘』も凄みのある作品だけれど、詩篇からは、作者の精神性がより一層深く伝わってきます! そもそもエミリの想念は小説向きとは言えず、とても詩的なもののようですね。
エミリと妹アンは、ゴンダルという架空の島を創作していた。二人(特にエミリ)はこの島に歴史と人物を設定し、激しい闘争の物語を展開することに、精魂かたむけていたと言います。
鑑賞したもののなかにも、ゴンダルと関連ありと思われる詩を視ました。叙事詩の世界に接近した、壮大なイマジネーションが広がっていました。
痺れました☆ この途方もない白昼夢のなか、彼女の魂は確かに息づいていた。風も雲も草も、胸をふさぐような強い憂鬱までも、あまりにも鮮やかに詠われていたのです。
ブランウェル(兄)とシャーロット(姉)の間にも、アングリアなる架空の世界が創作されました。ゴンダルに触発される格好で復活したものの、一旦休止していたとか。
いくらか現実に適応していたシャーロットは、妄想に溺れずアングリアと距離を置いたようだけど、エミリはどうだったかな。終生、ゴンダルを卒業しなかったんじゃないでしょうか?
エミリの作風は、女性らしい優美さ(女性らしさの決めつけは、差別表現と言われそうだけど……★)はあまり見られず、なかなかダイナミック。
しばしば描いていた死のイメージは、生命の終わりを告げる恐怖の対象ではなく、荒々しくもどこか神聖なものでした。死の瞬間というものに、何か特別なイメージをキャッチしたのか……? ふれたところから稲妻に打たれるみたいな読書をしました。