マスメディアとしての近代建築: アドルフ・ロ-スとル・コルビュジエ

  • 鹿島出版会
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  • Amazon.co.jp ・本 (237ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784306043442

作品紹介・あらすじ

一九九五年「インターナショナル・ブック・アウォード」受賞。

感想・レビュー・書評

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  • 原題が|Privacy and Publicity|であることに注意しておきたい.
    モダニズム建築の先駆けとなったロースと骨格となっていったコルビュジエ.二人の建築家の建築や芸術に対するスタンスはまるで対のように違う.各章のテーマについてのそれぞれの言説や振る舞い,あるいは客観的評価がマニアックに抽出され,翻って彼らの建築をみたときに,内部/外部,私的/公的がどのように表象されているかという考察が試みられている.例えば,ロースにとって空間が建築的であると見なすには,視覚と触覚,実態から得る感覚が大切であったがゆえに,写真は意味をなさなかった.それに対して,コルビュジエにとっては二次元こそ観念の領域だとして,写真は彼の実作をも超えるメディアのひとつであった.そして,というふうに考察が続く.
    何度か読み下さないとわからないところもあるけど,これが単なる作家論やメディア論にとどまらず次なる問題提起を起こしてくれるターミナルのような内容だった.

  • 内容(「BOOK」データベースより)
    一九九五年「インターナショナル・ブック・アウォード」受賞。


    内容(「MARC」データベースより)
    家庭における私的で親密な生活領域と、公共的なコミュニケーション領域の表面的な対比をテーマに、公共的な誘惑の戦略と私的な空間の策略による今世紀の建築のはじまりを解きあかす。〈ソフトカバー〉
    目次
    アーカイヴ
    都市
    写真
    広告
    美術館
    室内

  • 作品の資料を自ら破棄したロースと、過剰なまでに保存したコルビュジエ。メディアに対して対照的な態度をとった両者の住宅建築を、写真や映像といった表象のレベルから分析する。
    『建築ノートEXTRA 01−住宅を読む100冊』より転載

     *

    ル・コルビュジエは、自身にまつわる、あらゆる情報を記録しアーカイヴ化して、保存した。設計図面やアイデア段階のドローイングはもちろんのこと、日記や新聞の切り抜き、旅行中のスナップ、洗濯屋からの請求書、等々。これによって、コルビュジエはある意味で神格化した。なまじ情報があるから、すべての情報を閲覧しようという欲望が、後世の人間に生まれる。しかしそのすべてを把握することは不可能であり、たとえすべてを閲覧したとしても、それが本当に「すべて」であるかどうかが疑われ、まだ見ぬ情報の発見が欲望される。実際の作品の崇高性とは別に、こういった具合にも、コルビュジエの神格化は行われたのである。コルビュジエは、写真やテクストがマス化する「近代」という時代の特性を、きわめて自覚的に利用したのである。

    後世の人間に対してだけでなく、同時代の人間に対しても、コルビュジエのマスメディアの利用による自己演出は行われている。コルビュジエの設計は、建築を現実世界に建設する時点にとどまらない。建てられた建築が(それは動かない)、写真というマスメディアに乗って世界中に流通する際にも、手を加えた。輪郭線を強調するためにトレースしたり、異物と思われた添景は、消す。白黒の写真が主である建築メディアの特性を逆手にとった、小癪な手段であるが、その効果は絶大だったであろう。並大抵の建築家には中途半端な倫理感が邪魔して行えないようなことを、平気でやっている。コルビュジエの時代の寵児たるゆえんである。

    一方で、コルビュジエより若干年長であるウィーンの建築家アドルフ・ロースは、あるとき、自身の設計に関する資料を、ほとんどすべて自らの手で処分した。これにより、ロースは文字通り、人格(建築家の作家性)が神秘化されたのである。調べようにも、手段がない。作品はあるのに、それを語るための補助線がだれにもひけない。じゃあ、語るのやめるか、としたいところだが、建築史的に考えてロースの作品の重要度は明らかである。なんとしても知りたい。つまり、コルビュジエが情報の過剰により批評の欲望を生んだのに対し、ロースは情報の不足により批評の欲望を生んだ。

    ロースのこのような所作は意識的なものだとはあまり考えられていない。単純に、場所に固定されることで固有性を帯びる建築の特性を揺るがす、マスメディアというものをあまり好ましく思っていなかったと考えられる。「私のデザインした室内がまったく写真に向いていないということに、私はたいへんに誇りを感じている」(『装飾と罪悪』99頁)とロースは自著で語っている。

     *

    ロースは住宅建築について、ファサード(外部に対する顔)と室内空間をまったく分けて考えている。住宅の豊かさは内部空間にのみあればよく、それが「外部に対して語る必要はない」としている。他方、公共的な建築については、裁判所は裁判所らしく、銀行は銀行らしく、内部空間の内容(豊かさ)をファサードに表して「語る」べきだと、反対に考えていている。

    図式的に考えてみれば、この相違の理由は瞭然である。住宅であれ公共のものであれ建築の外部空間は、一般的に都市=公共の場である。住宅建築の室内は、家族が暮らす私的な空間。裁判所や銀行などは、言うまでもなく公共的な空間。後者においてファサードは空間の境界面として、特別強い意味を持っていない。どちらも図式的には「公共的」という意味でおなじである。このときファサードは境界であるより、性質の相同なる空間の偏差をしめす「表情」をもっていさえすればよい、と考えることができる。だから、公共的な建築のファサードは自身の機能を「語る」べきなのである。

    一方で、住宅のファサードは、何より私的空間(室内)と公共的空間の境界面である。それぞれの空間の性質はいっさい、交わるところがない。このときロースはニーチェの言うような、都市に住む近代的主体の「公」と「私」の乖離を考慮に入れている。つまり、都市での他者と同化した均質的な振る舞いと、住宅でのアイデンティカルな振る舞いの乖離した近代的主体のための住宅をロースは目指しているのであり、この断絶のうえにあるファサードは何も「語る」べきものを持たないのだ。強いて言うならば、住宅のファサードは「沈黙」を語っているのである。「沈黙」している建築は、ひどくカメラ映えしないであろう。

    ファサードが何かを「語る」とき、つまり公共的な空間と密接に関わる必要性のあるとき、用いられる概念。それがロースにとっての「装飾」である。

    外部空間=都市に対して防御的なロースの住宅はだから、必然的に内向的と呼ぶべき性質を帯びる。室内と外部空間を物質的にむすぶ窓は重視されず、着席する場所は窓に背を向けていたり、窓に対面していたとしても、カーテンや曇りガラスによって視線は室内へ折り返される。つまり、室内では居住者の視線が錯綜しているのである。このような室内はある視線を優越させられないから、ファサード同様、カメラ映えするとは言いがたい。

    反対に、コルビュジエの住宅は、あの有名な「水平連窓」によって非常に開放的につくられている。視線は、常に外部へと向う。そして、そのような視線を持った居住者は、絶えず住宅内を移動し、落ち着きをもたないたんなる「滞在者」として暮らすことになる。さらに、この開放性は居住者を外部空間からの視線に曝させることに帰結する。コルビュジエの住宅の居住者はつねに、自分を「ディスプレイ」するために自己演出をはからなければならない。室内からも外部空間からも、コルビュジエの住宅は視線の操作に余念がない。

     *

    尻つぼみ。コルビュジエの住宅のカメラ映えの良さ、ひいてはマスメディアへの親和性の高さで結論したかったけれど、つかれて届きませんでした。

    あまり面白い本とは言えないかな、こんだけ書いて今更だけど。

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著者プロフィール

ビアトリス・コロミーナ(Beatriz Colomina)
1952年スペイン生まれ。プリンストン大学建築学部教授、メディア&モダニティ・プログラムの創設者にしてディレクター。翻訳書には『マスメディアとしての近代建築―アドルフ・ロースとル・コルビュジエ』(松畑強訳、鹿島出版会、1996年)。その他、著書多数。建築、芸術、性、メディアに関する問題を横断的に扱っている。第3回イスタンブール・デザイン・ビエンナーレの共同キュレーター。

「2023年 『[新版]我々は 人間 なのか?』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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