- Amazon.co.jp ・本 (592ページ)
- / ISBN・EAN: 9784309467436
感想・レビュー・書評
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イランで英米文学を鏡に自らの苦悩や理想を引き出していく本書を、日本で読んで自身の闘い方(あるいは、闘わない姿勢への個人的な是非)を見出す。「読み」とは時に切実なものだ。空想の城は脆い。しかし反面では力強く、連鎖する。
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毎週木曜日の朝。
大学教員の個人宅で「イスラーム共和国のクラスでは許されない自由をあたえてくれる特別なクラス」が開講された。
二十世紀の終わりに開かれたこの秘密の読書会では、大学教員のほか七人のイラン女性たちが、ナボコフやヘンリー・ジェイムズ、オースティンについてざっくばらんに意見を交わした。西洋的なものは退廃的と見なされ、イスラームの文化を堕落させる帝国主義的なものが禁じられた時代に、検閲官の目をのがれ、自由な服装で自由に文学について語る会。どれほど貴重な場だっただろう。
束の間、圧政から開放された女性たちは、作品について語り、作品を通して自分たちの胸の内も明かすようになる。
当時、イランの結婚最低年齢は九歳。売春は石打ちによる死刑。法律上、女性は男性の半分しか価値がなかった。
イスラーム共和国の女性たちは、西洋文学を好きなだけ読むことも、アイスクリームを食べることも、好きな服を着て好きな男性とデートをすることも、限りなく不可能に近かった。『テヘランでロリータを読む』こと自体、当局に拘束されかねない、とても危険な行為であった。だが、禁じられるとより惹かれるのは、人間の本能ではないだろうか。
ひっそりと暮らしているように見える、イラン女性たちの内面が率直に綴られたこのドキュメントを読み、思った。文学作品の解釈の仕方は実に多様だ、と。
少なくともわたしは『高慢と偏見』や『デイジー・ミラー』を、ひとむかし前の恋愛小説として楽しんだ。日本人と文化的・政治的な背景の異なるイラン人の目を通して読むと、同じ作品の別の面に光が当てられた。わたしたちはまったくちがう作品を読んでいるのではないかという気さえした。
異なる国の読書会をのぞくことは、わたしのような日本人だけで本の話をする会を開いている人間にとって、多様性が必要だと気付かされる機会にもなった。
わたしが主催しているなごやか読書会も、出身国に関係なく、だれでも参加しやすい読書会にしたい。日本でなら、他国で発禁処分になった本を読んで、公の場で語り合える。日本でふつうに暮らしていると意識することのない、思想や言論の自由をありがたく思えた。
p22
イスラーム共和国で教職にあるということは、どんな職業の人とも同じく、政治のいいなりになり、専制的な規則に従わなければならないということだった。教える喜びはつねに、体制が押しつけるさまざまな問題や障害によってふみにじられた-大学当局が人の仕事ぶりではなく、唇の色や、危険な力を秘めた一筋の髪の毛などに最大の関心をよせているときに、いい授業などできるだろうか。教授たちがヘミングウェイの短編から「ワイン」という言葉を削除しようと躍起になっているところで、フロントは不倫を認めているから教えないなどというところで、本当に仕事に集中できるだろうか?
p42
ナボコフの説明によれば、ポーシロスチとは「見るからにくだらないものだけでなく、偽りのもったいぶり、偽りの美しさ、ウツワリの利口さ、偽りの魅力」をも意味する。
p43
イラン・イスラーム共和国に生きる私たちには、自分たちが直面している残酷な状況の悲劇性もばかばかしさもよくわかっていた。生きのびるためには自分の惨めさを嗤うしかなかった。私たちはポーシロスチを本能的に見分けた-他人のポーシロスチばかりでなく、自分自身のポーシロスチも見えた。芸術と文学が私たちの生活になくてはならないものとなった理由のひとつはここにある。芸術と文学は贅沢品ではなく必要不可欠なものだった。ナボコフがとらえたのは全体主義社会における生の感覚である。そこでは、偽りの約束に満ちた見せかけの世界の中で、人は完全な孤独におちいり、もはや救いと死刑執行人の区別もつかない。
ナボコフの散文の難解さにもかかわらず、私たちは彼に特別な絆を感じた。彼の描くテーマに共鳴するだけにとどまらない、もっと深い絆だった。ナボコフの小説は、見えない落とし穴、絶えず読者の足元をすくう思わぬ裂け目の上に形づくられる。そこには、いわゆる日常的現実への不信、現実のはかなさと脆さへの鋭い感覚が満ち満ちている。
p46
モッラーすなわちイスラーム教指導者の支配下にある私たちの世界は、盲目の検閲官の色彩のない眼鏡によって形づくられた。検閲官が詩人の向こうを張って現実を組み換え、つくり直す世界、私たちが自分自身をつくりあげると同時に他人の想像の産物になってしまう世界では、現実のみならずフィクションまでもがこのような奇妙なモノクロームの色合いをおびていた。
私たちが暮らしていた文化は、文学作品にいかなる価値も認めず、文学がより緊急度の高いとされる問題-すなわちイデオロギーに奉仕する場合のみ重要と見なした。この国ではあらゆる身ぶりが、ごく私的なものさえも、政治的に解釈された。私が頭にかぶるスカーフや父のネクタイの色は西洋的頽廃と帝国主義的傾向のしるしとされた。ひげを生やさないこと、異性との握手、公の集会で手を叩いたり口笛を吹いたりすることも、やはり西洋的で、したがって頽廃的とみなされ、われわれの文化を堕落させようとする帝国主義者の陰謀の一環とされた。
p48
背筋を伸ばして歩くのではなく、うつむいて、道行く人には目を向けない。早足に断固たる足どりで歩く。テヘランをはじめ、イランの都市では民兵がパトロールしている。白いトヨタのパトロールカーに銃を持った四人の男女が乗りこみ、時にはミニバスを引き連れていることもある。彼らは「神の血」と呼ばれる組織だ。街中を巡回しては、サーナーズのような女性たちがヴェールをきちんとつけているか、化粧をしていないか、父親や兄弟、夫でもない男と出歩いていないかチェックする。彼女は壁に書かれたスローガンを通りすぎるだろう。ホメイニーや「神の党」という組織からの引用で、「ネクタイをする男は米国の下僕。ヴェールは女性を守る」といった具合である。スローガンの隣には、特徴のない顔を黒っぽいチャドルで覆った女性の絵が黒で描かれている。「姉妹よ、ヴェールを守れ。兄弟よ、目を伏せよ」
バスに乗る場合、座席は男女別だ。サーナーズはうしろのドアから乗り、後方の女性用の席にすわらなければならない。しかし、タクシーの場合は客を五人も乗せるため、男も女も文字どおりすしづめになる。それはミニバスも同じで、実に多くの女子学生が、敬虔なひげの男たちにさわられると文句を言っていた。
p49
革命後、結婚可能年齢が十八歳から九歳に下がったことを、姦通と売春に対する刑罰として石打ち形が復活したことを、屈辱と思っているだろうか。
ここ二十年ほどのあいだに、通りは危険な場所になった。規則に従わない若い女性はパトロールカーに放りこまれて監獄に連行され、鞭打たれて罰金を科され、トイレ掃除をさせられ、屈辱的な扱いを受け、自由の身になったとたんに戻ってまた同じことをする。サーナーズは自分の力に気づいているだろうか。規則からはずれたあらゆる身ぶりが公の安全への脅威となる社会で、自分がどれほど危険な存在となりうるか自覚しているだろうか。
p183
小説は寓意ではありません。(中略)それはもうひとつの世界の官能的な体験なのです。その世界に入りこまなければ、登場人物とともに固唾をのんで、彼らの運命に巻きこまれなければ、感情移入はできません。感情移入こそが小説の本質なのです。小説を読むということは、その体験を深く吸いこむことです。さあ息を吸って。それを忘れないで。以上です。
p217
「不注意に対する批判が罪になるなら」と私はいくぶん人目を意識して言った。「少なくとも私だけでなく、多くの優れた小説が同じ罪を犯しています。こうした不注意、共感の欠如は、ジェイン・オースティンの描く否定的な人物にも見られます。『高慢と偏見』のキャサリン夫人、ミスター・コリンズ、『マンスフィールド・パーク』のノリス夫人、クロフォード兄妹などです。このテーマはヘンリー・ジェイムズの短編にも、ナボコフの怪物的な主人公たち、ハンバート、キンボート、ヴァン・ヴィーンとアーダにも見られます。こうした作品において、想像力とはすなわち共感の能力のことです。他者の経験のすべてを体験することは不可能ですが、フィクションの中でなら、極悪非道な人間の心さえ理解できるのです。いい小説とは人間の複雑さを明らかにし、すべての作中人物が発言できる自由をつくりだすものです。この点で小説は民主的であるといえます-民主主義を主張するからではなく、本質的に民主的なものなのです。多くの優れれた小説と同じように、『ギャツビー』の核心にも共感があります-他者の問題や苦痛に気づかないことこそが最大の罪なのです。見ないというのはその存在を否定することです」
p270
私は貪欲な切迫感をもって本を集め始めた。ペーパーバッグにとりかかり、ヘンリー・ジェイムズのほぼ全作品とオースティンの六つの長編をすべて集めた。E・M・フォースターの『ハワーズ・エンド』と『眺めのいい部屋』を手にとった。それから、まだ読んだことのない本、ハインリヒ・ベルの長編四作、とずっと昔に読んだ本-サッカレーの『虚栄の市』、スモレットの『ロデリック・ランダムの冒険』、ソール・べロウの『フンベルトの贈り物』と『雨の王ヘンダソン』を選ぶ。二か国語のリルケ詩集とナボコフの『記憶よ、語れ』をとった。無削除版の『ファニー・ヒル』を買うべきかどうかでしばし悩みさえした。それからミステリにかかった。ドロシー・セイヤーズを何冊か手にとり、何ともうれしいことに、E・C・ベントリー『トレント最後の事件』、アガサ・クリスティの新しい本二、三冊、ロス・マクドナルドの選集、レイモンド・チャンドラーの全作品とダシール・ハメット二冊も見つけた。
p316
小説入門講座で私が強調したかった点は、小説という新たに誕生した物語形式が、いかに人間のもっとも重要な関係をめぐる基本的な通念を根底から変え、ひいては人間と社会、仕事、義務との関係に対する伝統的な姿勢を変化させたかにあった。こうした変化がどこよりもはっきり見られるのは、男女の関係である。十八世紀にサミュエル・リチャードソンの書簡体小説『クラリッサ』の主人公クラリッサ・ハーロウ、とヘンリー・フィールディングの『トム・ジョーンズ』のソファイア・ウエスタンが-慎み深く、一見従順そうな娘二人が-愛していない男との結婚を拒んだときから、物語の流れは変わり、結婚をはじめとするその時代のもっとも基本的な制度が疑問にさらされることになった。
デイジーとキャサリンにはほとんど共通点はないが、しかしいずれも自分が生きた時代の慣習に公然と反抗した女性である。二人とも他人から指図されるのを拒否する。彼女たちは『高慢と偏見』のエリザベス・ベネットや『嵐が丘』のキャサリン・アーンショー、『ジェイン・エア』のジェインといった反抗的なヒロインの長い系譜につらなっている。こうした女性たちは服従を拒否することで、話を紛糾させる主な原因となる。二十世紀に登場する明らかに革命的なヒロインより、彼女たちのほうが複雑だ。自分がラディカルだなどとはいっさい主張しないからである。
p337
いま思えば、タルコフスキーの名の綴りも知らない人間が大部分を占める観客が、しかもは通常の状況なら彼の作品を無視するか嫌悪さえ抱くはずの人々が、あのときタルコフスキーの映画にあれほど酔いしれたのは、私たちが感覚的歓びを徹底的に奪われていたせいだろう。私たちは何らかの美を渇望していた。不可解で、過度に知的で、抽象的な映画、字幕もなく、検閲でずたずたにされた映画の中の美でもかまわなかった。数年ぶりに恐怖も怒りもなく公の場にいるということ、大勢の他人とともに、デモでも抗議集会でも配給の列でも公開処刑の場でもない場所にいるということに、感動と驚きをおぼえた。
p516
現代の小説は家庭生活やありふれた関係、あなたや私のようなふつうの人間に潜む悪を描き出す-読者よ!兄弟よ!とハンバートが言ったように。優れた小説に描かれた悪はほとんどそうだが、オースティンにおける悪もやはり、他者を「見る」能力の欠如、したがって他者の心を理解する能力の欠如にある。恐ろしいのは、こうした他者への盲目性が、(ハンバートのような)最悪の人間だけでなく(エリザベス・ベネットのような)最良の人間にさえ見られることである。私たちはだれもが盲目の検閲官になりかねず、自分の理想や欲望を他者に押しつけかねない。
僕が個人的なものになり、日常生活の一部になると、悪への抵抗の仕方もまた個人的にものになる。魂が生きのびる道はあるのか、というのが何よりも重要な問いとなる。その答えは愛と想像力にある。 -
イラン革命直後に母国のイランに戻った著者が、大学の教え子で優秀な6人の女性と秘密の読書会を行う。
著者はテヘラン大学で教鞭を取ったが、ヴェールを着用することを拒み追放されてしまう。
女性の価値が男性の半分以下ともされ、美人ということだけで逮捕され処刑されてしまうような社会で、文学を学ぶ意義を問う。本書で取り上げられる『ロリータ』『傲慢と偏見』などタイトルだけは知っている著書が多かったですが、政府側とすれば規制したいような内容なのだと思う。その中に彼女らは何を見出したのか。 -
この本を発行できたことが奇跡だと思う。
読んでいてこれが現実だということを忘れそうになった。そのくらい私にとって彼女達の日常が現実離れしていた。
しかし彼女達の悩みに共感できることがあったり、ハッとさせられることもあった。
人の感情はとても単純だけど、社会や道徳、願望が複雑にしているのだと思う。
心の準備ができたらロリータを読んでみたい。 -
【書誌情報】
『テヘランでロリータを読む』
原題:Reading Lolita in Tehran: A Memoir in Books
著者:Azar Nafisi
訳者:市川恵里
レーベル:河出文庫 ナ3-1
頁数:592
ISBN:978-4-309-46743-6
Cコード:0198
発売日:2021.11.06
定価:1,672円(本体1,520円)
〈https://www.kawade.co.jp/sp/isbn/9784309467436/〉 -
アメリカで大学生活を送ってきた女性教授と、イランで育った教え子が、イラン革命後の厳しい日々の中で、規制の目を逃れながら、時の政府が「退廃的」と敵視する欧米文学を学ぶ姿を描いた物語。
教授が「私の娘たち」と呼んだ教え子たちは、こっそり集まっては様々な小説を読んで話し合う。その頃のイランは、たとえばヴェールから髪がはみ出しているというだけでさえ、逮捕、拷問されるもしれない。反政府に与するとみなされれば、いつどんな形でさつがいされるかもしれない、そういう国。そんな不安にさらされながらも、彼女たちは、特に自分たち女性に課せられた不自由さと、体制の理不尽さに怒り、自由に文学について話し合える場がいかに貴重なものなのか自覚している。
そんな彼女たちですら、ある点では育ってきた環境に沿った考え方から抜け出せないのだ、という部分を読んだ時、人が育つ時の環境の影響を改めて思い知らされた気がした。 個人の自由な発言、思い、考え方を、政治体制や、宗教が縛りすぎることの悪を改めて思う。
だからと言って、好き勝手に言いたいことを言っていい、というわけではないと思う。
小節を読むのは、自分の想像力を豊かにするため、そうして培った想像力で他者の心を理解する能力を得るのだ、他者を「見る」能力の欠如は悪であるという教授の想いはよくわかる。今の世の中、自分の思いだけでキツイことを言いまくる人が多すぎないだろうか、SNSでのバッシングとか。他者の心を理解する能力があれば、そんなに相手を追い詰めることも無いだろうに。
次々に出てくる、小説論については、残念ながらあまり理解できなかったけど、民主主義とは言えない国々の人々の苦悩を垣間見ることができたように思える。 -
【選書No】160
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激動のイランを冷静に見つめた記録。
そして女というだけで抑圧されながら文学を手に自分らしく生きる道を模索する筆者とその生徒たちの記録。
ページを捲れば捲るほどイランが暗黒の道へと進んでいく。
その延長線上にあるのが今のイランなのだ。
今、イランで女性たちが命を懸けて声を上げているのはこの作品で触れられるような数々の女性への酷い仕打ちの積み重ねであることが痛いほどわかる。
胸が張り裂けそうだった。
でも今このタイミングで読んで良かった。
イランを知るために映画を観るのも勿論良いけどこの本から始めても良いのでは。
私はこの本を強く推したい。
あと文学批評本としても完成度がとても高いのでそういった意味でもオススメ。 -
イスラーム革命後のイランで密かに開かれた女性たちの読書会。女性が学ぶことを厭う場所で学び続けることの苦しさを思った。学べば、どう生きるかを他者に規定される理不尽と、向き合わざるをえないから。
知ることは、自分の世界の狭さに気づくことだ。 -
タイトルの勝利ですなあ。【2022年6月17日読了】