科学を語るとはどういうことか---科学者、哲学者にモノ申す (河出ブックス)

  • 河出書房新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (304ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309624570

作品紹介・あらすじ

「こんな的外れでナンセンスな議論をしているなんて、開いた口がふさがらない…」一人の物理屋の感じた哲学ヘの猛烈な憤りから、妥協なき応酬が始まった-科学ではない者が自然科学について語る「科学哲学」に関して、科学者・須藤靖が不満・疑念を率直に問いただし、哲学者・伊勢田哲治が真摯かつ精緻に応じていく。科学と哲学はどこですれ違うのか?科学哲学は何のために存在するのか?

感想・レビュー・書評

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  • 科学哲学という業界に「アホがアホを再生産しているのではあるまいか」と疑念を持つ物理学者と,それを迎え撃つ気鋭の科学哲学者との対談。物理学者の須藤氏の半ば先入観に基づく(しかし科学者が科学哲学に対して抱く印象としては極めてまっとうな)疑問に対し,科学哲学の伊勢田氏が丁寧に答えていくというスタイル。対談本にしては,予定調和のないガチンコ対決という風情で非常に刺激的。だらだらしゃべって文字起こしという安易な作りではなく,事前の論点整理,事後のやりとりの反映や正確を期するための補足も入念になされていて,文章が散漫にならないのも良い。「科学を扱いながら科学界への具体的提案のない,独りよがりで内向きの学問なのでは?」,「同業の権威者の説や奇異な理論を取り上げて些細な点を執拗にあれこれし,議論が堂々巡りする不毛な業界では?」,「おかしなことを言っているか,当たり前のことをややこしく言っているだけなのでは」という素朴な疑問をぶつけていく須藤氏も,科学哲学に素人とはいえ,入門書を複数読み概要を踏まえた上で対談に臨んでいる。研究や研究室の業務に忙しいまっとうな科学者が,ある程度の興味をもって科学哲学者と率直にやりあうこういう機会は貴重だし,それがしっかりした書籍として世の中に出たのはとても有意義。科学に興味をもつ多くの人にとって示唆に富む内容。
    読む人が科学にどれほど信頼を置いているかによって,この本の印象はだいぶ異なったものになりそうだ。頭の硬い科学者を,社会や人間存在というものを踏まえた大局的見地に立った哲学者がたしなめていくという風に読む人もいるだろうし,現場の科学者の常識的・合理的な感覚に対して,哲学者が役にも立たない些末な揚げ足取りを繰り返し極端な懐疑論まで擁護していると読む人もいるだろう。でも,本書から読み取るべきことは,そのどちらでもない。いくつかレビューを見ると,対談は最後まで平行線という感想が目立つけど,哲学の考え方,立ち位置に須藤氏が次第に納得していく様子も見られる。ソーカル事件の顛末を知って科学哲学に対して抱いた敵意と,ビリヤードを用いた旧態依然の因果論に対する激しい違和感で,業界全体に対する感情的な反発をもってしまっていたこともはっきり認めて反省している。その種の多くの誤解は解けたし,二人の間で意見が一致する論点が多々あることも最終的には確認できている。ただ須藤氏は最後まで「学問の目的」という点では納得いかない様子だ。問題設定が具体的で目指すべきゴールのはっきりした科学と,実用性からは幾分遊離した哲学のものの見方にはやはり大きな距離がある。科学のために科学哲学があるわけではなく,科学哲学者は自身の哲学的に興味に基づいて科学を哲学しているのだから,この差はある意味当然なのだろう。
    科学の専門家でない立場から科学全体を俯瞰するという行為が,今や密接不可分となった科学と社会を考える上で意味のある営みであることは否定しがたい。仮に現在の科学哲学がそれほど意義ある内容のものでないとしても,学問の世界,特に人文系の学問にはその程度の遊びは必要だと思う。高価な実験器具や大規模な調査など要らないから,たいして金がかかるわけでもないし,大いにやればいいんじゃないかな。いくつか著書を読む限り,伊勢田氏は聡明で知的に誠実な学者だし,彼もその一員である科学哲学業界がまるごとダメダメな業界とも思えない。ただ科学者との交流が少ないのは事実と思われるので,そこは改善の余地がありそう。必ずしも良い関係である必要はなくて,立場の違いからのすれ違い,いがみ合いがあってもいい。この点現状で特に手薄なのはやはり科学者側の科学哲学に対する関心のようなのだが,科学者側になかなか余裕がなさそうなのがネックかも知れない。極端な成果主義を改めて,もっと遊びを設けることができればいいのだけれど…。

  • 科学哲学の価値に大きな疑いをいだく宇宙物理学者の須藤靖さんと,気鋭の科学哲学者の伊勢田哲治さんの科学哲学をめぐるかなり本気な対談.ずっと緊迫した会話が続き,読んでいてとても疲れた.だがとても勉強になった.

    頭脳明晰な二人が,あいまいな妥協なく,とことんまで話し,お互いを理解しようと懸命に努力をする.しかし,互いの問題意識をうまく共有することができない.話し合いでわかりあうことの難しさ!お互い熱くなって論争しているが,緻密に議論をすすめているのがすごい.

    私は戸田山和久「科学哲学の冒険」のレビューで「ここに出てくる(科学的実在論の)議論のほとんどは哲学者には大問題でも科学者にとってはほとんど気にもならない問題なのではないかな.」と書いた.この本で須藤さんは,日頃科学哲学に感じているこのような違和感を伊勢田さんに堂々とぶつけている.

    第1章,第2章では須藤さんの疑問に答えながら,科学哲学の流れを丁寧に辛抱強く伊勢田さんが説明して行く姿が印象的.説明もわかりやすい.

    第3章で哲学者の問題意識が科学者とはちがうという話をするあたりから,議論が白熱する.議論が白熱する要因はいくつかある.まず議論の基礎となる部分で,

    (1) 哲学者が専門用語を無定義のまま使ってしまい,物理学者からわからない,定義の問題だと言われる.異分野の人と話をするときは,なるべく専門用語を使わない,それができないなら,それが大まかにでもどういう意味かを説明しないとうまくいかない.具体的に言えば,自由意志,マーク,メタフィジックスなど.「物理理論がメタフィジカルな部分まで正しい」って,意味が分からないのは須藤さんだけではあるまい.定義自体が問題だといわれれば確かにその通りなんだけど,それだと話しができない.「視覚情報や文字情報として我々がもっているデータというのは,ある意味非常に二次元的な色の空間配置のデータなんですよ.そこからまず,その背後にある,何か世界に関する推論をして,その世界の持っている規則性について推論する.」(p.259 )なんてのもよくわからない.須藤さんは「それを職業としているからには,自分の考えたことをわかりやすく言語に翻訳する責任はありますよね.」(p.227)と言う.

    (2) 物理学者が,いろいろな状況で何度も具体例を求めるのに,十分に具体的とはいえない返答が多い.非実在論の説明を具体的に求められて,「物理理論はそのまま受け入れるし,それが観測可能な事実を良く説明することも受け入れる.ただ,その理論がうまくいっている理由がメタフィジカルな部分まで正しいからなのか別の理由によるのかについては保留する.どういう態度か,という説明としてはこれで十分具体的だと思います.」(p.202)と答えてるが,これは十分具体的だろうか.実際,後で何度も何度も説明することになる.また難しい言葉,概念が登場したとき,難しい抽象論をすすめるとき具体例が欲しくなるの当然なのだが,これはたぶん「具体例で議論する性質の問題じゃないんですよ.」(p.106)という本質的な壁があるのかも.それだったらなぜそうなのかは説明が欲しいところ.

    そして,議論の本質となる部分では,
    (3) 科学哲学の究極の目標は「科学とは何か」を探求することにある.そしてそのために,因果論とか,実在論・非実在論を議論している.因果論では,非常にシンプルなモデルから出発して,現象の原因を探ろうとしている.実在論・非実在論では科学の全く無いところから始めて,科学を積み上げていったときに,我々は科学をやることによって何をしていることになるのかというのが問題意識なのだそうだ.なるほど.須藤さんは,それを理解した上で,300年前ならいいかもしれないが,現在の科学,特に物理学の状況を考えれば,あまりにも問題設定がプリミティブだし,そのようなことをしていてはいつまでたっても「科学とは何か」に迫ることはできないだろうと批判する.そして,そのような思考を通じて,「具体的にどのような成果があったか?どういう新たな知見を得たのか?」と尋ねる.哲学者には酷だろうな.「もし科学の本当の姿を捉えたいのであるとすれば,方法論を考え直すべきではないでしょうか.それはプログラムとしては壮大だけど,「五感しか信じない」という出発点からそんなことが本当にできるのだろうか.」(p.204).「かつての偉大な哲学者と同じ出発点にしがみついたまま物事を考えてはいけないと思います.過去の哲学書を読むだけではなく,その後の科学による新たな知見を加えた上で,再度その問いに現代的な意味があるかを常に問い直してから出発するかどうかを判断しなければ.」(p.190)とも.

    最後まで,お互いの文化をわかりあえたという感じではないのだが,この厳しい議論を通じて,科学哲学が何を問題にし,そしてそこに何が足りないかがよくわかる対談だった.

    蛇足だが「クリシン」という略語がかっこわるい.

  • ここで須藤さんが語る科学の方法論はリサ・ランドールが『宇宙の扉をノックする』で語っているものとほぼ同じものである。
    学生時代に廣松渉の『科学の危機と認識論』を読み、村上陽一郎の講義を聞き影響を受けてクーン、ハンソン、ポパー、ファイアアーベントを愛読してきた自分が、それでもやっぱり須藤さんの言っていることの方が共感できる、というところに少なくとも日本における哲学の問題があるだろうと思う。自分の”アタマ”に信頼を置き過ぎ、というか、道具立てが古すぎる、というか。
    読み終わっても科学哲学の目的と意義を理解も納得もできなかった。またいつか読み直してみようと思う。

  • 2023-05-13
    いやあ、面白いほど話が噛み合っていない。最終的には価値判断に帰することであり、そこはまあ趣味の問題と言ってもいいのだけど、そこに至るまでまだ考えることがあるのではとも思う。
    全員が合意することを目指す営みと、価値判断との境目がどこか、という話か。
    また、一方が「取り組む問題を明らかにせよ」というのに対し、「何が取り組む問題なのかが問題だ」と答えて平行線に陥っている気もする。
    存在するゴールに到達することが大切と考えるか、あってもなくてもそこに向かうことが大切と考えるか。ここまで来ると結局価値判断ということになるのか。

  • 科学者の須藤さんが、科学哲学って何やってんの?科学に何か利益をもたらしてくれるの?なんか科学をとんでもなく誤解してない?という疑問、批判をぶつけ、それに科学哲学の側から伊勢田さんが応えていく対談。
    めちゃくちゃ面白い。図書館で借りたけど、購入検討します。ツイッターでちょっと盛り上がった谷村ノート以来、自分の中に追求したいテーマができた。哲学の目指すゴールって何なんだ?方法論としてどうなの?というもの。この本はまさにそこを議論してくれているから、自分にとってドンピシャ。須藤さんの歯に衣着せない物言いが心地よい。し、明快なところがよい。納得できないところは両者きちんと食い下がってくれているのも◎。変に引き下がられると筋が通らなくなって読む側からすると議論がわかりにくくなるよね。
    ある話題にかんして、須藤さんがもともと誤解してたけど対話を重ねていくうちに理解するプロセスも描出されていて、それがより読者にとって助けになる。最初から綺麗に整理されたものを読むより、思考の筋道をたどっていったほうがわかることもある。
    谷村ノートの時もそうだったけど、科学者側の方が歯切れがいいんだよな…。「科学哲学にはこういうゴールがあって、例えば今まではこんな成果をあげた!」と明快に説明できる日は絶対にこないのだろうか。。伊勢田さんもいくつか例は挙げてたけどあまりぴんとくるものはなかった気が。

  • 副題に「科学者、哲学者にモノ申す」とあるように、実際は宇宙物理学者が「科学哲学は科学の役に立っていない」と疑問を呈し、科学哲学者がそれに答える本。
    非常に面白い一冊で発見が多かった。
    須藤靖、伊勢田哲治両氏ともにそれぞれの分野ではそれなりの実力のある方だと見受けられますが、罵り合いにならないことをまずは寿ぐべきというレベルで噛み合わない。
    言葉の定義が異なると話し合うことすらできない。「原因」とは何か。「因果」とは何か。それを巡って定義を合わせようとするところ、つまり議論の最初ですでに同意できない。
    普段から論文や発表や講義という形で議論をこなしている学者同士であってもベースラインが違うと建設的な議論は難しいというのは、「話せばわかる」と思っている楽天的な進歩主義者には正視しにくい。
    二人とも繰り返し「先ほどから何度も申し上げているのですが」と自説を展開し、「なるほど私は自分の意見を変えました」とはならない。意見を変えたら負けと思っているかのよう。
    (いわんや素人のネット議論をや。)

    私はどちらかというと科学哲学好きなので、主に科学哲学側にシンパシーを覚えながら読んだが、その中で気になったのは『科学を語るとはどういうことか』というタイトルにそった話し合いにならず、科学者が「科学哲学は科学にどう役に立ってくれるんですか、役に立ってくれないんなら存在意義はないから消えろください」という態度でモノ申していたこと。
    普段「世の中」からよせられる「宇宙のことを研究して私たちの生活の何に役立つんですか」に感じる苛立ちをそのまま科学哲学にぶつけているかのよう。
    もっとも、科学者は文中でアンリ・ポアンカレの言葉を引いている「科学者は役に立つから自然を研究するのではない。楽しいから研究するのであり、自然が美しいからこそ楽しいのである」。でも自分の物理学はそれでいいのに科学哲学はそれじゃダメというのかしっくりこなかった。(最後の方で、ほとんどの科学哲学はまともだと分かったとは書いてある)

    最後まで噛み合わない、それなりのボリュームの対談が一冊の本に纏まっている。そのこと自体にとても大きな価値があると感じた。(科学哲学者はあとがきで「噛み合っていないかもしれないけど、みのりが多かった」と書いていて、それには諸手を挙げて賛成します)

    これを一冊の本にまとめあげたのは、それぞれの著者の力量もさることながら、間にたった編集者の力量がものすごく大きかったのだと思う。「河出書房新社の朝田明子さん」へ最大の賛辞を贈りたい。少しでも編集的な仕事に携わったことのある方なら、本書を形にすることがいかに困難な大異形だったのか、想像しただけでお腹が痛くなるレベルでわかると思う。

  • これは面白かった。下半期ベストに入るかも。科学哲学者と科学者(物理学者)が対談をするのだが、哲学者が物理学の研究を不毛と思うことはなくとも、物理学者は科学哲学の議論をざっときくと腹が立つようだ。プロの研究者でかつ科学哲学の入門書をいくつも見ているような人でも議論をある程度精密に理解してもらうのにこれだけの紙幅が必要なのかと驚いたところはある。いい加減にものを言ってはいけないなと思った。伊勢田先生が最後に、議論が包括的ではないからが入門向けではないかもと言っていたが、私にはちょうど楽しめる本だった。

  • 最初から最後まで噛み合わず、予定不調和な展開。別の分野の科学者が対談していたら、全然違う議論が展開されていたかもしれない。あるいは数学者だったら・・・

  • 偏見に対し大人な対応を試みるも、対話は……。


    【簡易目次】
    目次 [003-005]
    はじめに――科学哲学と科学の間の埋めがたき違和感(須藤靖) [007-017]

    第1章 科学者が抱く科学哲学者への不信 018
    第2章 ツッコミながら教わる科学哲学 041
    第3章 哲学者の興味の持ち方 078
    第4章 科学者の理解しにくい科学哲学的テーマ1――因果論とビリヤード 116
    第5章 科学者の理解しにくい科学哲学的テーマ2――実在論と反実在論をめぐる応酬 180
    第6章 答えの出ない問いを考え続けることについて 230
    第7章 科学哲学の目的は何か、これから何を目指すのか 263

    終わりに――気の長い異分野対話のために 263
    あとがき(二〇一三年一月 伊勢田哲治) [297-301]

  • 科学者と科学哲学者の対談。議論がかみ合わないまま延々と続き、どこかでわかりあうというカタルシスがあるかと思えば、最後まで併行線のままで、ある意味シュールだが、一方的にお互いの考えを語るのであれば対談形式にする必要はなかったのでは。

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著者プロフィール

東京大学大学院理学系研究科教授

「2021年 『ものの大きさ 第2版』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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