意識の起源史

  • 紀伊國屋書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (634ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784314010122

感想・レビュー・書評

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  • 非常に面白い。これはエヴァンゲリオンのネタ元になっているのではないか。こころと言う言葉にゼーレと言うルビがふってある。

    人間は超個人的な意識から、個人的な意識に変化していく。
    人類補完計画で、世界中の人が1つになることを目指していたのと逆だろう。つまり世界中の人はもともと1つだった。そこから意識がそれぞれの個人に分離していったんだ。
    このことは神話の世界創造においても語られている。著者によれば意識の芽生えと言うのは、神話では光と言うキーワードで語れることが多い。それ以前の混沌の状態はまちまちのようだ。抽象的に語られる。要するに、よくわからないものを、何とか表現しようとして、よくわからないと書いているようなものだ。それはある意味正しいとは言える。混沌なのだから、表現しようがないのだ。
    意識と言うものは、成長すると個人のものになるが、それとは別に集合的な意識と言うものがある。集合的無意識とはまた違うのか。これはピストン高田さんがよく言っているものだ。スピリチュアルなニュアンスになるのでここでは関係がない。
    集合的意識としては、宗教とかわかりやすいかもしれない。つまりキリスト教に信仰し、神を信じる。そこで、これは超個人的な体験と言える。神秘体験をして、神に出会う、啓示を受ける、こういった事は個人的な体験と言える。
    これらの要素は、同時に存在するのだろうか。もちろん宗教と言う意味では、神を信じる、神に出会う、この2つの体験は同時に存在する。個人の意識と言うものは、成長過程において、超個人的から個人的に変化するのか。個人的になった時点で、超個人的な感覚は失われるのだろうか。
    人間の意識が30,000年前から変化してきたと書いているが、なぜわかるのだろう。この本に限らず、原始人はこう考えていたなどと書いてある本があるが、どうしてわかるのだろうと思う。そもそもそれは全体的な思考なのか、原始人のうちの1人がそう考えていたのか。

    この本では、原始人というか未開民族が子供の頃からセックスをしていると書いているが、初めて聞いた。本当だろうか。また、未開人は意識を持っていない、無意識のまま生活していると言うが、これはマインドフルネスではないと言うことではなくて、他者と自分を区別していないと言うことだろうか
    そんなことが可能なのだろうか。一般的に未開人は危険と隣り合わせに生きているからマインドフルネスに生きている。と言う事は、自分の感覚に意識的なのではないだろうか。つまり他者と自分と言うものは区別されているのではないだろうか。
    著者が言っているのはどういう意味の無意識なのだろう。
    意識的、無意識的と言う定義をどこかでしているはずだから、それを探した方が良い。
    無意識で生きる人間と言うのは、むしろマインドワンダリングの状態。つまり自動運転で過ごしてしまうと言うことだ。無意識、意識を共有している状態になっている状態になっている人がいるかもしれない。。これは考えてみる余地がありそうだ。
    母親の胎内にいる状態、これが人間にとって1番幸せな状態なんだろうか。それはわからない。

    子供は祖先のすべてを引き継いでいて、子供は祖先そのものだと言う。しかし、大人になる段階でそれがどう変化するのか書いていない。
    食べると言う事は人間の根本的なものだ。これは漫画に使えるかもしれない。食べる寝るセックスする。これを奪われた人間が、それを取り戻す物語などはどうだろう。
    神は、神というよりは神話において、自己受精、子供を産んでいた。自己受精と言うよりはつばから子供ができると言う話だ。これは人間が地からできていると言う話に似ている。アダムは地からできた。アダムの脇腹からイブができた。そう考えると、アダムを経過してイブができたわけだから、最初の神話とは違いがある。しかし、神が作ったと言う点では同じだ。
    また何でも食べてしまう神と言うのも登場する。食べた後、神は力をつけ巨大化していく。これは重要なイメージだ。食べたものは力をつけ大きくなっていく。逆にはならない。食べると言う事はエネルギーなのだ。逆に、エネルギーにならないものは食べてはいけない。力を弱めることになる。これは、本を読むとか、映画を見るとか、全てにおいて応用できる考え方だ。これがどんなエネルギーになるのか考える必要がある。事前にリサーチするのだ。そして自分はどんなエネルギーを得たのか考える必要がある。
    この本は、意識の起源史と言う本だが、食べると言う行為は意識につながるのだろうか。
    それはこれから明かされるのかもしれない。今のところフロイトはに対する攻撃が激しい。そして師匠であるユングがいかに偉大であるかと言うことを、随所で述べている。狂信的なユング派だ。ユングに近いところにいたのかもしれない。
    そういう背景を加味して読む必要がある。
    学説を応用して描いているのだろうか。つまり、自分で信じていることを書いているのか。そこまで読み取れない。しかし、フロイトに対して良い感情を持っていないのは明らかだ。もしくはユング自身からそういう指示をえたのかもしれない。
    ユング自身も、プライドが高いようで、冒頭にコメントが書いてある。自分は先駆者で大変なことをしたが、後続の人間は物事を俯瞰できるから、この本がかけたのだと、自分の功績をかなりアピールしている。学会と言うものはそういうものなのだろうか。自分自身をいかにアピールするか。
    そのプライドが、この本に影響与えているであろうことを考えると、全てをそのまま受け止めるのは危険かもしれない。かなりのバイアスがかかっていると思う。
    情動シミュレーション。書いてある事の空気を読む。

    ウロボロスの話から太母の話。
    宇宙は最初自己完結的で、それがウロボロスと同じだと言う話。これは非常に興味深い。最初宇宙には空気もなかったし、見るものもなかったし、音もしなかった。だから目も耳も必要ないと、哲学者が言っていたそうだ。これは、現在の宇宙にも言えることではないだろうか。地球などはあるが、宇宙が自己完結していると言う意味では現在も家は自己完結している。
    幼児の話もなかなか面白い。幼児は、母親の体内から生まれ落ちて、この世界に存在する。無防備で、経験も知識もないから、母親に守られる。これはその通りだと思う。だから怖いのだ。著者が、西洋人至上主義であることも、文章の中から読み取れる。読んでいて思ったのだが、この著者はいろいろなバイアスを持っていて、それが文章の中に現れている。まずユング派であると言うことの誇り、フロイト派に対する敵対心、そしてこの西洋人至上主義。そういった人が書いた本というのがどの程度正確なのかと言う疑問がある。ただ、読んでおいて損はないだろう。そういう考え方の人がいると言うサンプルになる。

    意識の起源史と言うタイトルだが、ようやく話題が意識に向かってきたような気がする。神話と言うものが意識の起源として置かれているところ、神話は生物学的な、意識の起源ではない。何かを抽象的に表したものだ。それが心理学のスタンスなのだろうか。心理学とは、人間に対する考え方を述べたものではあるが、それは神話なのだろうか。神話と言うものが、人間の心理を表しているのだろうか。そもそも、神は何のために存在するのか。そして、なぜ人を惹きつけるのか。人の中に神話があるというか、大きなバイアスになっていることは間違いがない。それは、神話が身近なところにあると言う事でもある。なぜ神話は身近なのか。明らかに、ギリシャ神話等は、人間とは関係がない。ギリシャ神話に出てくる神神は、人間に影響与えるが、それは実際に存在した人ではない。言ってみれば、漫画の登場人物に憧れるようなものではないだろうか。
    人間たちが、自分には生み出せないもの、自分にはできないもの、神神の姿に託したと言えるのではないだろうか。
    話がそれたが、人間の意識とは何なのか。そもそも意識とは何なのか。その点について、これから述べられていくのだろうか。なかなか難しいところだと思う。子供の頃、つまり生まれたての幼児は意識があるのだろうか。意識があるから、恐怖を感じるのか。そう考えると意識があると言うことになる。しかし、子供の頃の事は覚えていない。生まれたときの記憶がある人間はほとんどいない。これは、成長して忘れてしまうのだろうか。それとも必然的に、もしくは生物学的な理由によって消去されるのだろうか

    母親と子供の関係について。男の子供は、母親にとって愛人であり、殺されるべき存在であると言う話。女の子供はどうなのだろう。それについてはまだ述べられていない。面白いと思ったのは、このユング派の著者によると、最初に存在したのは母親であり、つまり女性であると言うこと。聖書ではアダムが最初に存在している。つまり、男が先に存在しているはずだ。それとも、神は女性であったと言うのだろうか。
    他の宗教において、例えばギリシャ神話において最初に生まれたのは女性だったのだろうか。神道もそうだ考えてみれば最初は女性だっただろうか。生物学的に、男性と女性が生まれなければ、最初の子供と言うものは存在しなかった。
    著者が言っているのは、精神的な、意識的な話だと思う。ウロボロスの循環に則って、女性が出産からその息子の殺害再生と言う循環をめぐると言う主張だ。その主張自体は正しいのだと思う。ただし、イメージにおける母性の考察と言うものが、現実に、どのような影響与えるんだろう。世界において、母性と言うものはどれほど重要視されているのだろう。現代において男性と女性は等しいと言う意識がある。

    この本が書かれた時代、女性の社会的な立ち位置と言うのはどうなっていたのだろう。
    社会的な背景と言うものが、この本を書いたときの状況に影響していると思われる。それは、当然だ。風景画においてもトレンドがあった。心理学においてもトレンドがあって当然だろう。
    ウロボロスと言う記号、象徴を頻繁に使っているのは、心理学において、もしくはユング派の心理学において、オーソドックスなことなのだろうか。様々なことがウロボロスを起点として発送されている。もちろん、様々な世界的な儀式について著者は熟知している。ただし彼の持っているバイアスがかなり強い事は考慮に入れる必要がある。
    男根が蛇であると言うのはユング派のオリジナルのイメージだろうか。フロイトが考えたのだろうか。現代において蛇と男根と言うのは結び付けられている。誰もが知っているイメージでもある。母親が、自分の息子、単なる男根として考えると言うのは面白い。現実には、そういう母親は少ないと思うが、イメージ、意識と言う観点からはアリだと思う。抽象的な意味では、そういう意識を持っているんだろうか。深層心理の解釈だ。本当にそういう意識を持っているかどうかと言うのは、それこそ心理学者の母親にしかわからない。ここで気になるのは女性の子供はどうなんだと言う所だ。

    息子は、去勢され、母親に飲み込まれる。
    この本は、東洋の神話にはあまり触れない。
    インドの神話には触れる。ただし、今はローマやギリシャの話が多い。母親と言うものは豊穣のしるしであり、魅力的であり、恐怖でもある。これは、母親の強さを表しているのかもしれない。
    ここで述べられているのは、意識と言う観点から言うと、人類が根本的に持っている意識と言う意味なのかもしれない。すなわち、意識の起源について述べていると言うことだ。
    意識と言うのは、母親の事だけでは無いはずだ。
    著者は、神話を通じて、人間の根本的な意識について論じようとしているのか。ここで、延々と述べられている母親の話が、現代の人類の意識にどうつながっていくんだろう。
    神話は、人間の、人類の根本的な意識に根付いているものといえよう。ただし、言ってみれば超個人的な意識であり、個人的な意識については言及されていない。古代人が、個人的な意識と言うものは持っていなかったと判断するのは難しい。それぞれの人間が何かしら考えていたはずだ。文中に、古代人はこう考えていたと言う文章があるが、それは、ソースはどこにあるのだろう。
    原始人の考えていたことなどわからない。今の時代は、日記とか読めばある程度は推測できる。しかし、それが本当のことなのか、後の世の人が判断できるのだろうか。例えばSNSで書かれている事は本当ではない。様々なバイアスがかかっているし、そもそも意見ですらないかもしれない。それは、構成において、SNSが存続すれば、そういうものだということがわかるが、途絶えてしまえば分析が難しくなるだろう。
    それと同じで、原始人が考えたことを何をソースに推測するかと言うのは判断が難しいことだ。判断できないと言っても良いかもしれない。記録を残すと言う事は、大変な労力が引き落とされたことであろう。つまり公式見解のようなもので、個人の意見ではない可能性が高い。

    神話は、人間の、人類の根本的な意識に根付いているものといえよう。ただし、言ってみれば超個人的な意識であり、個人的な意識については言及されていない。古代人が、個人的な意識と言うものは持っていなかったと判断するのは難しい。それぞれの人間が何かしら考えていたはずだ。文中に、古代人はこう考えていたと言う文章があるが、それは、ソースはどこにあるのだろう。
    原始人の考えていたことなどわからない。今の時代は、日記とか読めばある程度は推測できる。しかし、それが本当のことなのか、後の世の人が判断できるのだろうか。例えばSNSで書かれている事は本当ではない。様々なバイアスがかかっているし、そもそも意見ですらないかもしれない。それは、構成において、SNSが存続すれば、そういうものだということがわかるが、途絶えてしまえば分析が難しくなるだろう。
    それと同じで、原始人が考えたことを何をソースに推測するかと言うのは判断が難しいことだ。判断できないと言っても良いかもしれない。記録を残すと言う事は、大変な労力が引き落とされたことであろう。つまり公式見解のようなもので、個人の意見ではない可能性が高い。

    男の息子が、母親に飲み込まれる。そして母親はそのことによって懐妊する。そういったことが繰り返し述べられていた。
    ゴルゴと言う上についても述べられていた。猪狩りの光景が描かれているそうだ。ゴルゴ13もここから来ているんだろうか。

    また、カバが、神話において重要な役割を果たしているのも面白い。
    鳩も、神聖な役割を果たしている。キリスト教においても後は重要なモチーフだ。なぜ鳩なのだろうか。
    この本は、時折主語が我々と述べているところから、複数の人間で書いていることが想像される。著者として名前が記されている人は、代表の人なのだろう。つまり、ユング派の中にあるチームが書いた本と言うことだ。これはユング派としての意見のまとめなのかもしれない。
    神話における、男根と女神の受胎。この点において、非常に重視するのはなぜなのだろう。よくよく考えてみると、神話とはそれだけでは無いような気がする。何かを生み出す、と言うことに重きを置くのは当然のことだと思うが、誕生、もしくは死、それだけが神話なんだろうか。
    意識の起源史と言うタイトルではあるが、出産や大地への貢物といったイメージがほとんどである。意識とは、それがスタートと言うことなのか。これは、ユング派だけが考えていることなのだろうか。
    心理学と言うものが、そこをスタートにしているのなら、この本の論点はぶれていない。もちろん、ユングが前書きを提供していることを考えても、この本はユング派の総意と考えて良いだろう。
    つまり、ユング派の考えていることの集大成とでも言うべき本なのかもしれない。この本を読み終わったら、この本についてもっと調べてみる必要性を感じる。エジプトでは魚を食べなかったと言う描写もある。これはにわかに信じがたい。地中海食では魚はたくさん食べるはずだ。

    アルゴスの大いなるアプロディーテ祭には女性が男性として参加し、男性が女性としてしかもベールをかぶった女性として参加したがこの祭典は豚を生贄としたことからヒステリアと呼ばれた。
    これが、情動的な錯乱状態を意味するヒステリアの語源。

    神々の歴史が、だんだんと個人的な意識を持った上の描写に変わってきた。
    つまり、神話も、常に同じではないと言うことか。
    バッハオーフェンと言う人物に関する描写が多い。
    この本は、神話について熟知していないと理解が難しい。ただし、意識の熟成していく流れを学ぶと言う意味では、外観を押さえておくだけでも役に立つだろう。ここでは、新しく、ナルキッソスが登場した。今までは出てこなかった。ナルキッソスは意志を持った個人として描かれている。しかし、水の中で彼の姿を取り、ナルキッソスを水の中に誘うのは太母だ。ここでも、母親が息子を殺す、男根のイメージ、といった象徴が繰り返す。
    豚が聖なるものとして描かれているのも興味深いところだ。豚や牛といったものは、こういったギリシア神話の頃から重要なモチーフだったことがわかった。なぜだろう。どうして豚や牛が選ばれたのだろうか。また蛇はどうして男根のイメージなのか。また蜘蛛も、男を誘うイメージとして使われている。これは、蜘蛛女という映画もあった。神話でのイメージが、現代でも残っていて、様々なところで使われている事はわかる

    人間が、意識を持ち始めたあたりを描いている。つまり、神話の中で、ウロボロス的であった、父と母を分離することによって、人間として生きるようになる。つまり自我が芽生えたと言うことだ。中国の陰陽の図。あれは天と地が1つになっていると言うことも示しているのかもしれない。すべてのものは2つであり、1つである。
    未開の地の森まで、父である空と、母である地上を引き離す子供たちの話が出ていた。
    これは面白い。天と地がくっついていたから、もしくはほんの少しの隙間しかなかったから、人間はまっすぐ立って歩くことができなかった。それを、天地を引き離すことによって、人間は歩くことができるようになった。
    いわゆる創造神話と言うものなんだろうか。
    この本では、ウロボロスのイメージがずっと出てくる。なぜ、ウロボロスが、そんなに大切にされるのか。ユング派において大切なのか、神話を解釈するときに必ず出てくるものなのか。
    そして、ウロボロスは、誰が考えたのだろう。いつからあるのだろう。中国の、陰陽の図もそうだ。誰が考えて、いつからあるのか。それを発見するのは、神話を、物事の起源を、考察する際に、重要ではないだろうか。
    もし、それが、比較的新しいものだとしたら、神はそのものが、世界の始まりを示しているのではない、後天的な、比較的新しいものであると言う可能性も出てくる。
    いずれにせよ、人間の意識と言うものは興味深い。様々な神話が取り上げられていて、どの程度網羅しているのかも把握できない。そういう意味では、この本は、研究者向けの本なのかもしれない。少なくとも、素人が読んで全部理解できるものではない。


    神話とは、人々が自分たちを表現するための手段だったと言うのだ。つまり、具体的に説明することができなくて、神話の形をとったと言う。これは、現実を見て、物語を作ると言う現代のクリエイティブに通ずるものがある。例えば小説は、現実を見て、未来予測をし、それを物語の形で表現する。しかし原初人は自分たちの行動や自我を表現する術がなく、抽象的に表現した。そこには、過去の報告がある。過去と現在の報告がある。これを考えると、現在のストーリーテラーは、神話を作る過程をアレンジしたものと考えられる。
    そう考えると、神話の存在が、ふに落ちる。そこに書かれている事は、具体的に起こったことなのだ。ただし、それを表現することができなかったので、新話になった。
    もしこの話が本当ならば、神と言うものは、そもそも人間が作り出したものであると言うことになる。要するに、キャラクターなのだ。もちろん、儀式が行われていたのであろう。ただし、自分や自分の外に起きている事に対応する方法として生み出されたものなのだ。宗教とは自然現象ありき。または自我の目覚めありき。自分たちに説明できない現象が起きた時、人々は神話を頼った。もちろん、これは俺の読み違いと言う可能性もあるので、調べる必要がある。ユング派がそう言っているだけかもしれない。そこは大切なところだ。個人の意見が述べられているだけかもしれないのだ。もちろん、過去を解釈すると言う事は、何らかのバイアスがかかっている可能性が高い。特にこの本はユングの意見が反映されているので、フロイトはまた別の見解を持っているかもしれない。かなり偏りのある本である事は意識すべきだ。

    自我の目覚めについて語られていた。
    自我の目覚めとは、ウロボロスからの脱却である。しかし、自我が確立されても、それがすぐにうまくいくわけではない。再び無意識に取り込まれる可能性もある。
    これは、マインドフルネスと、マインドワンダリングの関係に近いのだろうか。
    超個人とは、母性との融合を示しているようだ。
    神話において、超個人的な段階は、平和な世界、争いのない世界として描かれる。つまり、キリスト教において、エデンでの生活がそうなんだろう。そして蛇が現れて、楽園を追放される。これは、自我の目覚めを描いている。なるほど、確かにそうだ。
    アダムとイブは知恵の実を食べてお互いが裸であることに気づく。これは自我の目覚めを意味している。
    そう考えると非常に納得がいく。
    その後はどうなるんだろうか。自我が目覚めた後、人間は発達していく。どのような発達段階を歩んだのだろうか。
    神話はなぜどれも同じ題材を扱っているのか。
    自我の目覚めと言うテーマを、いろいろな国の、いろいろな人種が、それぞれの言葉で語ろうとしているのが神話と言うことになるのか。そうすると、世界的に、同じテーマにみんなが着目していたと言うことになる。そもそも、神話と言うのは、唯一の物語なのか。他にもたくさんの物語があって、研究者が神話だけを取り上げているのだろうか。
    こういった研究を読んでいると、あたかも、古代の物語は神話しかないような印象を受ける。しかしそれは本当なのだろうか。そこがわからない。
    面白いと言えば面白いのだが、確認できるのだろうか。そもそも神話はいつ成立したのだ。そして、誰が考えたのだろう。例えば、現代なら小説は、作家がいて、誰が書いたのか明白だ。神話においては、誰が書いたのか書いてないのだろうか。つまりそれこそ超個人的と言うことか。しかし、自我が確立していない人間が、人間の自我が確立する過程を物語にすることはできない。つまり、自我の確立した人間が書いていると言うことだ。これはすなわち、誰が書いたかと言う記録を残すと言う認識がなかったと言うことだ。自分の名前を残しておくと言うことに興味がないということだ。承認欲求がまだ芽生えていなかったと言うことか。そもそも、承認欲求はいつから芽生えたのか。
    考えていくと面白いな。

    ここでは、男が自我を確立していく段階が語られる。著者によると、男性は妻の家に婿入りするため、自由が少ないと言う。超個人的な時代において、女性は、性交と、妊娠が結び付けられていなかったと言う話は面白い。つまり、セックスの結果として子供が生まれるとは考えられていなかったと言うことだ。マインドフルネスというか、セックスは単体で完結していると言うことだ。それが、女性が子供を産むと言うことが、上から授かったと言う認識につながった。現象に対して、それを説明する言葉がないから、神話が誕生した。
    面白い見解だと思う。世界中で、同じようなシワがあることについては説明がされていない。つまり、意識と言うものが個人的なものではなく、超個人的なものであった時代、人々は皆が同じ神話を考えたのだろうか。そうなると、世界中の人間が、超個人的、超民族的であったと言うことになる。日本でもギリシャでも、意識が分かれていなかった。そんなことがあり得るだろうか。そこは謎だ。
    また、この本によると、男性の意識が、自我を獲得していく様子が語られているが、女性については触れられていない。女性の自我の確立はどうなっているのだろうか。彼女たちは、超個人的な状態から、どのようにして個人に変わっていったのか。
    それはこれから述べられていくんだろうか。また、神話において、自我の確立と言うものが、竜との戦い、クジラとの戦いとして述べられているのも興味深い。クジラと聞いて、想像するのは、聖書のヨナの物語だ。ヨナはクジラに飲み込まれその中で過ごす。これは自我を確立する過程だったのだ。少なくとも、この本の著者はそういうふうに解釈しているはずだ。
    実際どうなんだろう。ヨナの物語は、ただの物語ではなく、神話だとしたら。これはもう一度聖書を読み返す必要がある。つまり、ギリシャ神話、などによって説明されている自我の確立は、神話の読み方を変える。聖書が神話だとしたらそこには人間成長のヒントが描かれているはずだ。

    英雄は2度死ぬ
    2度目の再生によって英雄になる
    フロイトへの攻撃が激しい。フロイトは神話を誤読していると主張している
    男には父親が2人いて、1人は実際の父親、もう1人は天の父。キリストなどがわかりやすい。ただし著者が引き合いに出しているのはエジプトの王だ
    エジプトの王は、太陽の光になると言う。
    太陽の子供と言うことで、神格化される、神と同一化する。
    世界中に似たような神話があるのかもしれない。
    これは漫画でも使えるかもしれない、本当の父親と精神的な父親。
    息子が成長して、ウロボロスを引き分け、父と母両方と戦う。それが竜との戦いとして象徴的に表される。
    竜との戦いは、母親との戦いだと思っていたが、父と母両方との戦いと言うことだ竜と言う概念はどこから出てきたのだろう

    世界中に竜と言うイメージがある
    宗教の創始者がトーテムポールになると言う考え方は面白い。要するに、麻原彰晃もそーゆー象徴になったと言うことだそれはよくわかる
    そしてその後、ω真理教は解体したが、もし存続していれば、麻原彰晃はアイコンとなっていたはずだ。
    これはいろいろなことに当てはまる気がする。
    キリストも2度生まれている

    引き続き母親との戦いについて描かれている。聖書の登場人物であるサムソンについても触れられている。英雄は、1年に、復活して、勝利を収める。
    このパターンが、太陽が西に沈み、東から昇ることに、なぞらえている。
    古代にとっては、太陽が沈むと言う事は私の象徴だったのだ。
    竜との戦いについても述べられている。
    フロイトの、解釈は誤りであると、かなり、フロイトをディスって言う。この、解釈の違い、アカデミックな論争。これは、この本が、学会の中で、どのような評価を得ているのか、調べる必要がある。
    フロイトは間違いでユングは正しい、この決めつけが、本書の中では散見される。
    また、バッハオーフェンに対する評価が高い。バッハオーフェンを読んだことがないのでどういう本なのかわからない。
    古代人の、自我の確立。それは、本当に、神話とリンクしているんだろうか。少なくとも本書においては、神話とは古代人の意識の発達を示していると言うスタンスだ。これは面白い解釈だと思う。神話は単なる物語ではないのだ。
    神話は、様々なモチーフが散りばめられており、それを読み取ることによって、古代人の、意識の発達を読み取ることができる。そういう解釈だ。それが事実かどうかは確認のしようがない。面白い解釈だとは思う。この手法が、本書独自のものなのか、心理学の世界では一般的なのか、それを知りたい。
    引き続き日本の神話については語られていない。ギリシアローマ、キリスト教。西洋文明を中心とした解釈だ。

    父親は神話において2人いることが多いようだ。すなわち、天の父と、実際の現実の父親だ。
    現実の父親は、肉体を持ってはいるが、本当の父親とはされない。これはキリスト教におけるヨセフの役割だ。キリストはヨセフの息子として生まれるが、実際の父親は神だ。
    ギリシャ神話などでもそういう傾向があるようだ。
    これは何を意味しているのだろう。
    母親は、息子が成長するのを妨げようとする。その戦いに勝つことによって英雄が生まれる。
    母親は、息子を手元に置いておきたいのだろうか。子供のままにしておきたい、自立させたくない、と言う気持ちが強いと言うことだろうか。
    ちなみに、まだ娘については語られない。
    今まで限定的にしか扱われなかった父親と言う存在が、ようやく語られるようになってきた。
    父親の役割と言うのは、息子を、英雄を英雄たらしめる、成長を手助けする存在のようだ。
    ここで言う父親と言うのは、肉体を持った父親だ。
    父親のアドバイスは、常に聞き入れられるのだろうか。
    神話と、現代の家族をリンクさせる描写も見られるようになってきた。

    男性が、意識を持ち始めたあたりを描いている。
    超個人的な存在から、個人的な存在に至る。母親と言うものに対して戦いを挑むようになる。また神との関係性や父親との関係性も描かれている。今回は、具体的な神話についてはほとんど触れられていなかった。意識の変化はどのように判断していたのだろう。つまり、ソースがない状態で言っているわけではないだろう。今までは、母方の家に婿入りしていたが、今回は、父方の家に入ると言うことが述べられている。つまり、これは大きな変化だと思う。

    英雄の物語は個人のものではなく、すべてのものである。
    つまり、人の成長そのものを描いていると言うこと。
    英雄は、宝を求めて竜と戦う。
    これを詳細に分析すると言う話になってきている。
    今まで、竜とは母親だと再三述べられてきた。
    英雄の行動は、超個人的なものである。また、少し述べられていたが、言葉での意思疎通以外の表現もある。これは、超個人的なものだと作者は述べているが、いわゆるノンバーバルコミュニケーションと言うものではないだろうか
    英雄の個人史は、英雄の個人のものではなく、超個人的な体験を描いている。

    英雄譚において、女性を救出して結婚すると言う事は個人の意識の芽生えであると言う。
    つまりこれは、それまで超個人的であった意識が、個人的な意識えと変化していくことを意味しているそうだ。
    セックスについても、出産との関わりが認識され始めたと言う記述がある。
    囚われの女性との結婚がいつから物語に現れるようになったのかを考えれば、人類がどのようにして個人的な存在になっていったのか、その時期を特定できると言うことだろうか。

    今回は具体的な神話の例を挙げて人間の精神が独立していく様子を解釈していたここで取り上げられているのはペルセウスだった。
    ペルセウスはゴルゴとの戦いに勝利してその後海の怪獣を倒す。
    人間の発達は原則として3つの次元で起こる。1つは外部への、世界と、適応と発達、つまり外向であり、第二は内部への、客観的な心と元型への適応と発達、つまり内向である。そして第3 はこの心の内部での自己形成傾向あるいは個性化傾向、つまり中心思考であるが、これは前記2つの心得的な構えの方向及びその発達から独立している。
    宇宙において神が自然を創造すると言う段階から、人間である個人が、英雄が、神を殺すと言う段階まで話が流れてきた。これは、人間が、自我を獲得したと言うことだろう。つまり、超個人的な存在から、個人と言う存在になったと言うことだ。
    この展開は、ユング派の独自の解釈によるものなのか、心理学的に、スタンダードなのか。そもそも、歴史と言うものは過去、再解釈していることなので、本当の正解かどうか、答え合わせをすることはできない。ただし、ビックデータを用いれば、ある程度正解に近づくことができる。ただし、今回の話は1つの神話を取り上げて、解釈しているので、本当に正しいのかどうかわからない。もちろん、著者は、多くの神話を考察した結果として、それを1つの例に当てはめてみると言う検証を試みているわけだが、その検証と言うものが、1つの神話に対する解釈だ。だから、今までは多くの神話を解釈してきたかもしれないが、その方法論を、ただ1つの神話に当てはめることが正しいのかどうか、自分の知識ではわからない。
    つまり、神話の解釈と言うものは、かなりハイブローなものだということが理解できた。そこに含まれるコンテンツやアクション、心理の動き、そういったものを読み取るには、大量の知識や経験が必要と言うことだ。言ってみれば、ジェームスジョイスの、フィネガンズウェイクは神話的であると言っても良い。
    ユング派の解釈によれば、と言う表現になるのかもしれない。
    本の中に、6世紀のツボに描かれた神話の話題が出ているが、6世紀の人間がまだ神話を、創作していたのだろうか。その点は疑問だ。

    オシリスは豊穣の神である。
    彼は殺され地にまかれる
    その体は各地にバラバラにされる。
    それは再生し、ピラミッドの頂点に君臨する
    オシリスは、木の柱の形をとって表現される。エジプトの人たちにとって木は永遠に生き続けるシンボルなのだ。
    各地に体が分散されると言うイメージは、キリストの体がバラバラにされるとイメージにもつながる。
    この、重要なモチーフをバラバラにして、それを集めると言うストーリーは今もいろいろなところで使われている。エジプトの神話が下に合っているかどうかわからない。
    木が永遠の象徴であると言うのは日本でも同じような感覚があるから理解できる。神社に御神木があるのと同じ感覚だろう。
    ここでは、オシリス神について解説しているが、エジプト神話において他の神々はどういう位置づけなのだろう。同じように象徴に分解することができるのではないか
    再生したオシリス神には男根がなく、木の男根をつけたと言う話もあった。それでも妊娠させる機能があったと言う。この点についての解説はまだ出てきていない

    引き続きオシリスの話が続いているが、カーと言う概念が登場する。カーとは魂、魂とは自我のことだ。魂は我々が今日自己と言う物の原型的な前形態である。と書いてある。
    オシリスについての話は一段落したようだ。
    これからは、カーと言う自己についての話になるようだ。
    徐々に、人類が意識を持ち始めている。
    時代で言うと、紀元前400年位の話なのだろうか。つまり、キリスト教はまだ発生していない。ユダヤ教はあるかもしれない。日本だと、何時代になるのだろう。

    ここでは、古巣の神話について語られる。
    オシリスは神であり、ホルスはその息子。ホルスが自分の子供を得るとオシリスになる。子供を得ると言うよりは、子供がホルスになると、父親はオシリスになる。
    今までは、息子が大になる時、父親は殺されていたが、今は、父親の位が上がることになっている。この辺が、大きな変化だろう。また、母親は、息子をフォローする役割になっているそうだ。ここも大きな違いだ。今までは母親は恐ろしい母として、息子を飲み込む役割だったが、今はそういう役割ではなくなっている。
    去勢と男根の話はまだ続いている。
    このストーリーはどこまでも語られるのだろうか。
    最初の頃に出てきていたウロボロスの話。この影響がいつまでも残っている。と言う印象がある。ウロボロスありきで、神話が変化しているのだ。
    実際、どこまで読み込めているのかわからないが、非常に興味深い。延々と同じ話が繰り返されているような気分にもなるが、意識の解釈は少しずつ変化している。
    今、ようやく、現代人との関係性においても、つながりが見えてきた。要するに、人間は成長し神になる、もしくは神の1部になる。そういうことを目指す。そんなことを記載し始めた。人が、上のようになると言うのは、1種の全能感であり、褒められたものではないが、実際には、そういう人間もいる。もしかすると、すべての人にそういう欲求があるのかもしれない。

    今回のは心理学的な話題に変わっていた
    登場人物の行動と言うものが表面的な、個人としての行動を示すこともありまた文化的な背景、もしくは著者の個人的な背景をも示している、解釈することができるということだ。
    これは面白い見解だ。例えば研究者が神話を解釈しようとする時、彼が選ぶ神話と言うものは、何らかの理由があって選ばれる。彼の心理が影響しているということだ。
    人が何かをする時、そこには必ず何かしらの影響がある。それは、神話において、英雄がミッションを達成する時、英雄個人の活動でもあるが、それ以外の、民族的な、人類的な意思の表れでもある。

    原初人は、意識が集団で融合していたそうだ。個人としての意識はなかった、家族であったり部族であったりそういったものの意識が全て一緒だったそうだ。これはどういう感覚なのかよくわからない。正しいマインドワンダリングな状態だったのではないかと推測される。そして現代の西洋人は個人の意識が確立していると言う。これは、言ってみれば、マインドフルネスな状態なのだろうか。
    もちろん、著者はマインドワンダリング、マインドフルネスといった言葉は使っていない。
    集団が同じ意識を持つと言う事について、現在の集会などで人々が熱狂する様をあげている
    例えばライブなどに行って自我をなくす、我を忘れて盛り上がると言った時、確かに集団の意識が全てつながっていると言うこともできる。もちろん、それはイベントのイメージであって完全に融合しているわけではない。古代においては完全に融合していたのかもしれない。しかも、そういう状態がずっと続いていた。そう考えると、マインドワンダリング、マインドフルネスとは違うのかもしれない。なお、著者が言うには、夢の中の状態と言うのは原初の人々の状態の名残だと言う。これはよくわからない。夢に出てくる要素にはすべて意味がある。それは原初の人間もそういう心理状態に生きていたと言う。これはつまり、自然現象の全てに、意味を見出していたと言うことだろうか。空の状態や、草木の状態、動物の動きなど。そういう事ならわからないではない。
    そこまではわかったとして、原初の人間の気持ちが、集団で一緒だったというのがよくわからない。
    集合的無意識と言うやつだろうか。それ自体は、今はスピリチュアルな界隈で耳にする用語だ。おそらく著者が使っているのとは意味が違う。自分の中に起こっている変化は、外界に投影されるのではなく、外界で起こっている出来事が、自分の中に投影される。これは夢で考えるとわかりやすい。
    つまり、夢の中で出てくるモチーフは、それ自体が人間の心理に影響を与える。いやそう考えると、夢との関係はまた逆なのか。一般的に夢とは、夢に出てくるモチーフは、人間の心理の表れとされている。

    人間の意識の目覚め、自我の目覚めについて。
    著者によると、自我が目覚めたのは特別な人間、預言者のような人間が最初だと言う。それは現在では天才と呼ばれる存在だと言う。それまではマクロ的な存在だった中で1人だけミクロ的な自我を持った人間が発生する。ここで思い出すのは陸上選手が世界記録を出すと、次々とその記録に迫る記録が出ると言うこと。これは、誰かがその記録を達成すると、他の選手の意識にも、その速度が出せると言う意識が出ると言うのだ。だから世界記録の更新と言うのは、短期間で続く。
    これと同じように、誰かが自我を拡大させると、周囲の人間もその壁を破るのではないだろうか。例えば、スティーブ・ジョブズのような人間が現れると、世界中のテクノロジーが大きく発展するのではないだろうか。
    またトーテムについても語られている。トーテムポールは、守護神でありながら、個人そのものでもある。これは仏教的な考え方にも通ずるものを感じる。それは2つ内1つである。同じものであり、別のものでもある。それは矛盾するようだが、矛盾していない。そういう考え方だ。つまりトーテムポールと言うものは個人が存在する以前から存在したし、個人が死んだ後も存在する、しかしそれは個人なのだ。この考え方は、人間の自我と、超個人的な考え方が混在している気がする。個人であり、超個人でもある。
    マインドフルネスとマインドワンダリングと言うことを考えると、原初の人々はマインドワンダリングであったと感じる。しかし、誰かがマインドフルネスになったことで、周囲の人間もマインドフルネスを手に入れた。この考え方は多少乱暴かもしれない。この本の中では、マインドフルネスについては触れられていない。書かれている時代にまだマインドフルネスが認知されていなかったのかもしれない。もしくはユング派では興味のないところなのかもしれない。
    マクロとミクロと言う考え方で言うと、原初の人々はマクロ的だったのではないだろうか。それがやがてミクロになっていった。経済学にもつながる感じがして面白い。
    もちろんマクロとミクロの経済学と言うものは、それぞれが既に存在しているので、意識の発生と言う点に当てはめるのは間違いなのかもしれない。

    これを読んでいて思ったのは、攻殻機動隊の世界だ。甲殻機動隊の中では、世界中がネットでつながっていて、会話している。つまり超個人的な存在になっているのだ。人間は、超個人的な存在から始まり、個人となり、再び超個人的な存在となるのだろうか。

    外的な要因と内的な要因と言うものが人間の中でバランスが取れると言うことだ。つまり外部で起こった事が、人間の内部で何らかのイメージを受け取り、同一のものとなる。ただし内的なイメージと言うものは、そのままの外的なイメージではない。つまり、炎と言う外的なイメージは、内的なイメージとしては炎でもありながら、暑いとか情熱的であるとか怒りであるとか、そういった内的なイメージも呼び覚ます。また、著者が主張している事を読み解くと、おそらく太母のイメージと言うものは無意識であって、人間は意識的になるということは太母と戦うと言うことなのである。
    待望との戦いに敗れると、人間は女性的になると言う。
    これはよくわからない。
    人間がともすれば、無意識にとらわれる傾向にあり、そこから自分の意識を持つと言う事は、大母からの独立を示しているのは理解ができる。
    これは現象の人々だけではなく、現代人にとっても言えることだと思う。
    人は、無意識にとらわれやすい。つまり、この本によれば、太母に負けると言うことだ。もちろん、この本で書かれている太母に負けると言う表現は、もっと瞬間的な、熱狂的な瞬間であるような気がする。
    人は自分の意識を獲得する。
    内的なイメージと外的なイメージは、まず外的なイメージがあって内的なイメージが生まれるのだろうか。つまり外海における何らかの刺激を受けて、人間はイメージを受け取る。と言うことだろうか。
    また、自我を持った人間が、集団に対してアプローチする、つまり共同体に対してアプローチすることについても述べられている。それは超個人的と言うのとはまた違った意味合いだろう。自我を持った人間が他の、自我を持った人間たちとグループを作る。それは個人では無いのだが個人である。
    ここで述べられている事は、女性も含まれているのだろうか。この本を読んでいてすでに思うのは、男性の視点、男性を対象とした分析であるような気がする。それは大母と息子と言う表現をするからだ。女性の自我の目覚めと言うのはどうなっているのだろうか。
    それについては今のところ述べられていない。

    意識と無意識の話。意識とは、自我であり、身体と対極のものである。
    人間は、超個人的な存在から、個人と言う存在に変化する。最初は、セックスと、出産は結び付けられていなかった。
    この辺は今まで散々語られてきたことだ。
    新しい段階として、ナルシシズムと言う要素が出てきた。これはまだ意識が確立する前段階のようだ。
    気がついたんだけど、他者への興味と言うものがまだ語られていない。他者と言うものはどういう認識になっていたのだろう。
    自然と人間が意識の上で分離される。その時に他者と言うものも意識されたのだろうか。つまり、自我と言うものは、自分自身と言うことを認識したのだから、当然他者と自分と言う関係性も認識されているはずだ。そもそも現象の人々は、他者と自分と言う個体としても区別もしていなかったのだろうか。それはありえないつまり他者が怪我をしたら自分も痛いと言うことだ。他者が死んだ場合自分も死ぬと言うことだ。もしくはそういった認識はしなかったのか。その認識自体が自我を前提とした考え方なのかもしれない。
    つまり、今までは工場でレーンで働いていた人たちが、その中から考える人たちが出てきたと言うことか。

    人間の意識について。かなり意識がはっきりとしてきたようだ。もともとはウロボロス的だった存在がやがて細かく分析され、父と母に分かれる。そして、恐ろしい母と言う存在が、恐ろしい父と言う存在に変わり母親はそれをサポートする役割になる。
    著者によると恐ろしい母と言う存在は隠されていた。歴史をひもとくによって、そのことが発見されたと著者は言っている。
    それが、著者が発見したことなのか、ユングが発見したことなのか、他の誰かが発見したことなのかわからない。
    とにかく、人類の意識の歴史は上書きされてきて、それを発掘する必要があったと言うことだ。
    この、ウロボロス的な意識を分解していくと言う工程。これは、例えば読書をしていて最初はよくわからなかった漠然と読んでいたそういったものが、丹念に読み解くことによって、内容が原内する、頭に入ってくるといった状態になるのに似ている。それは、この本に述べられている自我の発達の頃と似ている。同じと言っても良いかもしれない。
    つまり、マインドフルネスに接することによって様々なことが理解できて、腹落ちするようになると言うことだ。もちろん、著者はマインドフルネスと言う言葉を使っていないが、そういうことだと理解する。
    自分がやってきたことが、色々とつながって面白い。
    それはともかく意識の話だ。意識を持つのは最初は1部の英雄だった。それは神話において登場する英雄たちだ。彼らは自らの意識を持ち行動し戦いそして死んでいく。彼らは無意識に戻る事は無いと作者は言う。
    やがてそれが人間の、普通の人間のものとなっていく。やはりこれは以前も述べたように、世界新記録の更新と似ている。誰かが世界新記録を更新すると他の人間も自分にもそれができると感じて、その壁を破る。誰かが壁を破る。これが他の人間にも同じ影響与える。これが大切なことだ。
    マインドフルネスもそうだろう。マインドフルネスと言うものがどういうものなのか、達人がいれば、彼がどういう人間なのかを調べることによって、自分もその領域に近づくことができる。これは調べてみる価値がありそうだ。
    意識と言うものは面白い。つまり、脳が発達したと言うことだろうか。著者はそのようには述べていないただ意識と話している。つまり頭が良くなったとか、賢くなったとか、そういうことでは無いのだ。認識が開かれたと言うのだろうか。
    例えば大地。もともとは植物を産む母なる大地と言った認識だったのが、それがどういった構成になっているかと言うことを理解し始める。これが自我と言うものなのだろう。よくわからないモヤモヤした存在、恐ろしい存在だったものが、理解をするにつれて恐ろしいものではなくなっていく。幽霊とか、そういったものも同じかもしれない。よくわからないから神話と言う形で処理していたものが、自然に変化する。八百万の神もそうかもしれない。

    人間の意識がいかに記してきたか。いよいよ現代人の話になった。もちろん現代人といっても、この著者が書いた時代でも現代人である。
    興味深いのは、この時もぼんやりした人は多かったようで、意識をはっきりと思っていない人間のような描写がある。これは現代でもいる。
    そういう人たちが原初的な人間に戻れば良いかと言うと、それはそれで不都合が生じるらしい。要するに、人間が、情動飲みに従って生きると言う事は不都合が生じると言うことだ。
    衝動的に人を殺したり、すると言うことだ。
    確かにそれはそうだ。
    現在でもぼんやりと生きている人はたくさんいる。そんな中で重要視されているのがマインドフルネスと言うことになると思う。
    もちろんこの本の中ではマインドフルネスについて触れられてはいない。
    人は、未知のもの、形のないのない恐ろしいものとして考えていたが、やがてそれを理解するにつれて、神々は個性を獲得し、人間に近くなっていった。これは面白い解釈だ。
    また、牛や馬が手を使って笑を書くことができたら、牛や馬に似た上を創造しただろうと書いてある。これもなかなか面白い解釈だ。牛や馬と、人間の違いと言うのは、手を使って何かをできるかと言う所かもしれない。牛や馬ライオンが手を使うとことができたら、今とは違う発達をしただろう。
    現代の、ぼんやりした人たちと言うのは、物事をぼんやりとしか捉えていないと言うことだろうか。明確な捉え方をしていないと言うことだろうか。
    それは何となくわかる気がする。つまりまさにそのなんとなくであって、自分の感情についても大雑把な把握しかしていない。楽しい、嬉しい、つまらない。それをさらに細分化することによって、自分と言うものを知っていく。そういったことをしないと言うことだろう。また、それは、芸術作品を見たり、音楽を聴いたりすることによっても養われる力だと思う。要するに教養が必要と言う事だ。意識を明確に持つこと、物事を見る解像度を上げていくこと、そうすることによって人はより意識的になることができる。それは自分自身も意識していこうと思う。要するにマインドフルネスに生きると言うことだ。それをいかに継続するかと言うことで、人間は成長する。このことを考えると、物事を数値化すると言う事は、その一環として有効であると思われる。物事を数字で表すと言う事は、それを具体的にすると言うことであって、多いとか少ないとか、そういったなんとなくのニュアンスで語るのではなく、明確な数値として表現できる
    具体的、解像度を高く表現すること、把握することによって、他の者との比較もやりやすくなる。

    人間の意識と無意識についての解説。
    人間の意識と無意識は、それぞれ独立している。そして意識が快感を得ると無意識は不快感を得る場合もあるようだ。この辺は具体例がないので、どういう意味なのかよくわからない。意識とは脳であり、無意識は体であると考えると、例えば風呂に入って気持ちが良いと感じるのは無意識なのか、意識なのか。本を読んで快感を感じるのは意識だろうが、その場合身体の不快感を感じているんだろうか。具体的な例が欲しいが、今のところ述べられていない。
    人間の自我が発達していくにつれて、様々な複雑な要素が加わっていくようだ。原初の人々は、全てが無意識だった。自分の理解できないものは神だった。それが、様々なものが具体的な理解を得ていく上で、意識が複雑化していったのだろう。つまり理解できるものとできないものというのが分かれてきたと言うことだろうか。様々なものが科学によって解明され、それは意識の中に取り込まれてきた。ただし、現在でもわからない事はたくさんあり、そういったものは無意識として処理されると言うことだろうか。そもそも無意識とは何なのか集合的無意識のことを言っているのか。
    しかし、今の段階では、個人と言うものが成立している前提で話をしているようだから、超個人は登場しないのではないか。もしくは、超個人の要素がまだ残っていると言うことか。それは十分に考え得ることだ。人間が個人になったからといって、無意識、集合体としての要素が完全に失われたわけではないだろう。むしろ、現在はインターネットが普及し人々の意識と言うものは以前よりも結びついている可能性もある。これはアフターデジタルによってさらに加速するのではないだろうか。意識と言うものが、解像度が上がっていくと、無意識とのギャップはどうなるのだろう。つまり、現実をより具体的に認識するようになると、人間の無意識と言うものはどうなっていくのだろう。無意識の段階は、領域は減っていくのだろうか。そこは興味深いところだ。もしくは無意識の領域と言うものが明確になっていくのか。こうして考えていくと言うこと自体が意識の領域を広げていくと言うことになるのだろうか。
    ここで述べられている意識と無意識と言うものが、人それぞれでその深さが違うのではないか。意識がより明晰な人間もいるし、無意識の領域が広い人間もいるだろう。この本をどこまで読み込めるかと言うことについても、そういったバロメーターがある気がする。

    現実認識について。古代においてウロボロスであった際読んだ。
    現実認識について。古代においてウロボロスであった自我は、やがて恐ろしい太母になり、救いを求める女になった。
    この過程は、ぼんやりとしていた物事に焦点を合わせていくにつれて、対象が明晰に見えていくのと同じだと説明されている。この見解は非常に納得だ。要するに解像度が上がっていくと言う事だ。物事をじっくりと見つめ、観察する。そうすることによって意識が拡大していく。無意識の領域が減っていく。これは現代でも通用する大切な考え

  • Wikipedia:ノイマンはユングの最も重要で最も独創的な弟子であり、ノイマン独自の学派を打ち立てている。ノイマンは師・ユングの文字通り後継者となるべき立場にあったが、その師よりも1年早く死去した。

  • NE1a

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著者プロフィール

1905年、ベルリン生まれ。1927年哲学の博士号取得。1933年医師資格試験合格。その後、ドイツを離れチューリッヒのユングのもとで研究に従事。1934年以後、テルアビブに居を定め、ユング派の分析家として活躍。ユング研究所、エラノス会議で毎年のように講義、講演を行う。1960年没。邦訳に『アモールとプシケー』『女性の深層』『意識の起源史』(以上、紀伊國屋書店)、『グレート・マザー』(ナツメ社)、『深層心理学と新しい倫理』(人文書院)などがある。ユング派随一の俊才で、深層心理学に人類史的な視野を導入した画期的な研究を始め、女性的心性の発達、創造や芸術の心理について多くの重要な仕事を残した。

「2021年 『芸術と創造的無意識』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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