強欲資本主義は死んだ: 個人主義からコミュニティの時代へ

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  • Amazon.co.jp ・本 (320ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784326550920

作品紹介・あらすじ

イギリスの最強エコノミストからの警告! 自信過剰な経営者も、独善的な社会運動家や政治家も、個人主義は社会を幸せにしない。

21世紀のいま、経済と政治を混乱に陥れているのは二つの個人主義だ。市場原理主義が擁護してきた所有的個人主義と、自分の権利を声高に主張する表現的個人主義。「私がすべてだ」という傲慢な態度は捨て、今こそ足元のコミュニティを復活させよう。市場と共存するコミュニティをめざして、さぁ、新しい資本主義へ!
【原著】Paul Collier and John Kay, Greed Is Dead: Politics After Individualism (Penguin, 2020)

感想・レビュー・書評

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  • 「デムスの仕組では個人に他者との関何や成感を得る。個人の道徳的負荷や他者との関わりは重荷ではなく、むしろ達成の必須要素なのである。しかし、彼らコミュニタリアンの哲学者たちは経済学を警戒しており、コミュニティは市場の価値と実践によって侵食されていると考えている。私たちはコミュニタリアンであると同時に経済学者でもあり、この本の中心的な議論はコミュニティと経済の和解にある。私たちは、成功するビジネスはコミュニティそのものであると信じている。本来、コミュニティと市場との間に緊張関係はなく、市場は社会関係の網の目に埋め込まれているときにのみ、効果的に機能することができる。多くの企業は、リップサービスで社会制度としての商業という考え方に言及する。「ゴールドマンサックスのすべてのスタッフは、顧客サービスの伝統と倫理的企業としての名声を守ります」。しかし、時折出てくるレトリックと頻繁に現れる現実との間には大きなギャップがあり、それは(このゴールドマンサックスの主張のように)ほとんど自己風刺である。


    「経済人」の活動によってもたらされる市場の効率性に関する定理は、反社会的人間からなる社会がうまく機能する諸条件を示している。しかし、それらの諸条件がすべて満たされることはほとんどないため、モデルから学ぶことができるのは、「市場がどうしてうまく機能するのか」ということと同時に、「どうしてうまく機能しないのか」だということをアローとハーンは正しく認識していた。競争均衡分析の効率性の楽園などというものは存在したことがないし、存在しえないのである。しかし幸いなことに、それらの条件が満たされる必要はない。なぜなら、私たちのほとんどは反社会的人間ではないからだ。


     エクスティンクション・レベリオンよりもずっと前から、活動家たちは環境を利用してきた。ドイツの「緑の党」は二つの主要政党にとって大きな脅威となったため、主要政党は譲歩によって先手を打とうと必死になってきた。日本の津波は、愚かな場所に建設された原子力発電所を飲み込み、装大な被害をもたらした。その直後、緑の党はドイツの世論調査で支持率が急上昇した。ドイツは津波の危険にさらされておらず、また原子力発電所はドイツらしい徹底的な管理のもとで維持されていた。しかし、自分自身も科学者であったメルケル首相は、ドイツのすべての原子力発電所の閉鎖を発表することで、緑の党に妥協することを選択した。ドイツはいまも電力を必要としているが、その多くは最も大気を汚染させるエネルギー源である褐炭から得ている。二〇二〇年二月には最新の石炭火力発電所をオープンさせ、ヨーロッパの他のほとんどの国よりも一人あたりの炭素排出量が多い。ドイツ国民は、原子力発電所を閉鎖する前よりも安全になったわけではないが、ドイツが追加的に排出する二酸化炭素は、アフリカに被害をもたらす。アフリカでは、気候変動の影響はすでに明らかになっており、アフリカの人たちはそれに対処する準備がまだできていない。緑の党の積極行動主義は、想像上のリスクを膨らませ、それを軽減することになったが、その代償として、一〇億人のアフリカ人が直面する現実のリスクを悪化させることになった。


     幸福に関する研究は、これらの満足に向けた各ルートに疑問を投げかける。ある適度なレベルを超えると、消費がシュガーラッシュ〔糖分の過剰摂取による一時的な興奮状態〕しかもたらさないことは、宝くじの当選者が悲しい証拠を示している。キャリアの成功に関して言うと、さらに悪い。年収が六万ポンド(約一〇〇〇万円〕のレベルを超えると、所得が増えるにつれて、幸福度は低下していくようである。最近のイギリスの調査は、年収が一〇万ポンド〔約一五〇〇万円〕を超える人たちは、それ以下の人たちと比べて自分の生活に満足していないことを示している。閾値が低すぎるかもしれないので、年収が七桁〔一〇〇万ドルの桁、約一億円以上〕を超えるアメリカのトップ法律事務所のパートナーの場合を見てみよう。うつ病の割合は三〇パーセントという異常に高い数値を示し、薬物中毒が蔓延している。


     私たちが必要としているのは、個人やコミュニティではうまくできないことを実施し、国にはうまくできないことはしない効果的な国家である。最善であるのは、政党が私たちの期待に応え、それを達成可能な共通の目標に変えることだ。しかし、それらの目標のうち、国家の独占によって最もよく連成されるものはほとんどない。にもかかわらず、それに執着するのは、二つの誤謬が重なっているからである。ひとつは、自分たちはモデルを知っていて、トップダウン型の管理は、分権化された意思決定よりも効率的であるというテクノクラートたちの幻想である。もうひとつは、共通の目的は国家によってのみ達成可能であり、社会の他の組織では道徳的に重荷であり、共通の目的のために利己心を放棄することができないというものである。その結果、人々の期待を何度も裏切り、政府の能力だけでなく、政府の誠実さに対する信頼を損なうことになった。毎年行なわれているエーデルマン調査によると、二〇一九年には、ほとんどの人はどの面でも政府を信頼しなくなっていた。国への信頼と政治への信頼は必然的に絡み合っている。戦後間もないころは、この二つはどちらもうまくいっていた。しかし、中央集権的でないほうがうまくいく分野にまで政府が手を出すようになり、個人主義的な圧力によって共通の目的が損なわれたため、二〇二〇年にはどちらも失われてしまった。これまで国に対する信頼の低下について見てきたが、次章では政党に対する信頼の低下について見ていくことにする。


     この新しい能力主義では、エリートになれるかどうかは、階級ではなく教育によって決まる。将来、アーネスト・ベヴィンヤハーバート・モリソンのようになる人物は、ほぼ間違いなく、大学に行く人口五〇パーセントの中にいるだろう。このような形で労働者階級から選ばれた政治家階級は、必ずしも労働者階級の政治的立場を反映せず、労働者階級が真に求めているものに鈍感になっただけでなく、才能ある若者をコミュニティから引き離すことになった。ドン・バレーとストークから教育を受けた若者が去っていった結果が二〇一一年の国勢調査に表れている。ドン・バレーは、最も学生数が少ない選挙区のひとつである。ストーク・ノースは平均的なレベルだが、それはストークで育った子どもたちがそこで大学に通うわけではなく、キール〔ストーク・ノースの地域)で三年間過ごす学生に安価な住居を提供しているからだ。


    「国会は、さまざまな敵対的な利害関係を代表する大使が集まり、それぞれが代理人または論者として、ほかの代理人または論者に対して自らの利害を主張する会議の場ではない。国会は、ひとつの国の、ひとつの利害、全体の利害のために熟慮する場である」[強調原文]。ある種の個人主義が拒否
    「ひとつの利害」、つまり「共通の目的」というパークの概念である。サッチャリズムの全盛期に、ある政策顧問は著者の一人に向かって次のように言った。「もちろん、集団の利害のようなものなどなく、あるのは個人の利害の偶然の一致だけだ」。私たちはこのような考え方には強く反対する。
     コミュニタリアンの政治は、正確な情報にもとづいた共通の目的を構築するものである。バークの言う「熟慮する場」は、人々が「私は有色人種の女性として話します」や「金融部門を代表して述べます」という言葉でスピーチを始めるような場ではない。また、「全国ブレイスメーカー連合のメンバーはプレイスメイキングが国民経済に不可欠だと考えている」、あるいは「納税者同盟のメンバーは、税金が高すぎると考えている」と発言する場でもないし、代表者が、すべての問題をボリオブーラ・ガー〔ディケンズの小説「荒涼館』に出てくるアフリカの先住民〕への影響という視点から論じるような場でもない。


     民主主義が「インクルーシブ(包摂的)」なものであるのみならず、「参加型」でもあってほしいという点で私たちは同意できるだろう。しかし、参加とは何を意味するのだろうか。私たちは、それが頻繁に選挙を行なうことだとは考えない。そうではなく、十分な情報にもとづいて、前向きな共通の目的を構築するプロセスに参加する機会が大きく開かれていることを意味し、そのプロセスは、おそらく最も効果的な参加型民主主義の国であるスイスのように、小さなグループに始まり、大きなグルーブへと展開していくものであると私たちは考える。目的と、それを導くために必要な知識とを結合することが不可欠だが、それは簡単ではない。情熱的な人は、知識に起因する曖昧さを締め出したいと思う一方、専門家は情熱的な人の傲慢なやり方に嫌悪感を抱く。参加には分権化が不可欠である。人々は会って、互いに顔を合わせることで相互信頼を築くのである。しかし、専門知識を生み出し、共有するためには協力も不可欠である。アイデアは、最初はグループの中で生まれ、それが上位のレベルで比較され、統合され、それが再び下位のレベルに戻され、そうすることによって当初の多くの知識が共有されることになる。このようなプロセスは緊張と摩擦を伴うものだが、それが共通の目的を生み出す手段なのである。
     参加はいくつかの点で重要である。人々の参加は、経験から得られる暗黙の知識を引き出し、ラディカルな不確実性のある世界では避けることのできない欠陥に対して早期に警鐘を鳴らす仕組みを提供する。参加によって、人々は意思決定とその実施に貢献することが可能になり、順守(コンプライアンス)の問題を軽減することができる。人々は意思決定を自分のものと感じるため、それを尊重するようになる。そして最後に、共通の取り組みに参加することで、人々は絆を深め、相互信頼を築いていく。それは、成功する社会のきわめて重要な資産である。帰属意識は人間にとって非常に重要であり、共通性以外に何の目的がなくても、共通の取り組みに参加したいと思うことがよくある。パフォーマンスのような儀式は広く行なわれている。それは相互性の純粋で楽しい表現である。理想的な儀式は、サッカー、「ブリティッシュ・ベイクオフ」〔素人がパンやケーキを焼く腕を競うイギリスの人気テレビ番組〕、NHSの〔医療従事者への〕拍手のように、政治的な分断を乗り越えて人々を結びつける。政治的アイデンティティに関しては、〔グループ内の〕連帯を弱め(つまり敵対者を非難する「儀式」を減らし)、共通のアイデンティティ(そのうち最も明らかなのは、同じ場所に住んでいることから生まれるものである)による連帯をもっと強める必要がある。政治的決定をホワイトホールから地方に分散させる必要があることを考えると、場所にもとづく連帯には特別の価値がある。敵対する相手を非難するスローガンを叫ぶ全国的な政治集会は少ないほうが良く、地元の祝いの祭りは多いほうが良い。
     しかし、参加型民主主義は、社会の福祉にとって単に手段として役に立つだけでなく、実存的に不可欠なものである。この点は、人工知能とビッグデータによってもたらされる機会と危険性によってよく示されている。将来、機械がどのような能力を持つにせよ、機械が道徳を支えることはできない。
     なぜなら、人間は自己を認識し、いつかは死ぬ存在であるのに対し、機械はそうではないからである。機械は、人間の意思決定を補完し、強化するために使われるだけでなく、悪いことにも使うことができる。検索の最適化技術[インターネットの検索で、特定のサイトを検索結果の上位に表示させる方法など〕は、すでに影響力の最適化手段へと姿を変えている。私たちは、人間性の領域で道徳的に適切な意思決定をしっかりと続けていかなければならない。
     十分な情報にもとづく、相互関係の上に築かれた参加型民主主義は、日常の責任だけでなく、もっと大きな責任も伴う。しかし、そのような現実的な義務を果たすこと、つまり道徳的であるという負担を受け入れることで、結果的に私たちの社会はより良いものとなる。そして、私たち相互の努力が道徳的な目的にかなっていれば、私たちはより良い社会を手に入れるだけでなく、ひとりひとりが心の安らぎを見出すことができるだろう。


     コミュニティの必要性は、社会生活と経済生活の両方にとって根本的なものである。テクノロジーの進歩と社会的変化によってある種のコミュニティの有効性が低下したとしても、それは同時に、そして必然的に他の形態のコミュニティにとっての機会を増やすことになった。市場は本質的にコミュニティにとって有害だというわけではない。実際、今日の有効な市場は、これまでもそうであったように、コミュニティの中に埋め込まれている。


     場所は重要である。ブレグジットと、それがもたらした激しい分断は、この明白な事実を無視したためにイギリスが支払った代償の一部である。企業、家族、公共サービス、市民社会などの組織からなり、人々を生産的な存在にする複雑な集合体である誇りある町や都市を再生させるのは困難な挑戦である。しかし、いったん再生されれば、活気ある場はそれ自身、持続するものである。「経済人」とは違い、人類にとって、将来に向けた共通の目的のために協力することは自然であり、それは場所との結びつきを通して行なわれる。友好的で助け合う隣人関係は自然な姿である。


     私たちは現実的な経済学者であって、ロマンチックな伝道者ではない。すべての経済学者と同様に、私たちは世界が〔効用や利潤を〕最大化する合理的な個人から成ると教えられ、そのことを学生に教えてきた。しかし、ポールがアフリカ経済の研究を通して思い知らされてきたのは、家族や部族以外のすべて人との関係は純粋な取引だと見なし、自分自身の利益を個々パラパラに追求するような個人から成る社会は、地球上で最も貧しいだけでなく、社会変革がなければ、そのままの状態が続くということだった。一方、ジョンが学んだのは、すべての関係を取引と見なすようなビジネスモデルは、成功している企業の実態とはまったく違うこと、二〇〇八年の金融危機は、そのようなモデルにもとづく企業がいつかは失敗するだろうという予測が正しかったことである。成功している企業は、協力し合う個人のグループを作り出し、集合知を活用し、ほとんどの人が価値ある目的のために協力しようとする内在的な動機から恩恵を受けていた。
     国家は、あらゆる経済的権利の保障や、グローバル救済主義や経済成長の目標など、すべての義務を抱え込むことはできないし、またそうすべきでもない。補完性原理は、ほとんどの義務をかなり下層の組織に割り当てる。そして、参加型民主主義に表現されているように、国家は市民に仕える立場にある。知的潮流は、個人と国家の関係を敵対的なものと見なす考え方から離れつつあり、社会は、人々が共通の目的を持つ小さな組織が多数集まったものであり、もっと大きな規模での共通の目的のためにはもっと大きなグループで協力し合うという考え方にとって代わられようとしている。
     個人主義は孤独であり、個人の解放ではない。塹壕の中で身を守ろうとしても、最終的には失敗する。何かに所属することは、私たちにとって負担なのではなく、人間性を取り戻すことにつながる。私たちのこの短い本が、あなたに参加する確信を与えてくれることを願っている。

  • 【配架場所、貸出状況はこちらから確認できます】
    https://libipu.iwate-pu.ac.jp/opac/volume/562927

  • ●個人主義を賞賛し、コミュニティーを軽視する自己中心的な思想を取り上げ、それを正当化してきた議論が、もはや知的に支持できないことを示そう。そのような思想が社会で支配的であり続ける限り、社会は深刻な分断と機能不全に陥るだろう。
    ●トゥキディデス。貧困の親の恥辱は、貧困であると言う事実にあるのではなく、それを克服する努力を諦めるところにある。
    ●人間は、生まれつき「向社会的」であり、自己顕示欲の強い人の強欲は、目障りであると同時に、伝染する。
    ●所有的個人主義」、ジョンロックに始まるもので、財産権は、社会的な協力と合意から生まれるのではなく、人の労働を資源と組み合わせることによって獲得されると言うものである。それは、土地を囲い込み、隣人や国家権力や先住民の侵入を銃で防ぐと言う開拓者精神である。
    ●社会経済的野心の達成を人権として認めると、貧しく恵まれない人々への支援に必要な共感や連帯を損なうことになるだろう。
    ●企業は、単に個々の株主の利益の代弁者に過ぎず、道徳的には何の責任も負っていないと言われる。フリードマンの言葉を引用するなら「企業の社会的責任とは利益を最大化すること」
    ●日本の所得格差。再分配所得を見れば拡大してはいないが、当初所得では格差は顕著に拡大している。大事なのは、労働の「尊厳」の問題。
    ●利己的な個人からなる経済はうまく機能すしない。それとも現実の経済がカオスに陥らないのは「私たちのほとんどは反社会的人間ではない」からである。
    ●イギリス。かつての工業地帯で、労働党の基盤だった地域。今の労働党議員は鉱工業地帯出身とは言っても、高校卒業までにそこに住んでいただけであって、その後街を出ていく。生まれた地域に戻って立候補しても、地元の人は支持してくれない。労働者は保守党を支持するようになり、ブレグジットを進めた。
    ●正規と非正規の間の大きな格差は成果によって正当化できるようなものではない。同一労働同一賃金が実現されているはずだが、現実にはそうなっていない。
    ●就職には、上の者の言うことを素直に聞く体育会系の方が就職で有利だとわかると、学生は勉強にもスポーツに精を出す。大学で勉強することが就職で有利にならない以上に、大学院でさらに進んだことを学ぶのはもっと不利に働く。
    ●非常勤講師に低賃金を強いる理由が「予算がないから」「経営が苦しいから」と言うのであれば、そんな大学は淘汰されるべき大学であり、ゾンビ大学と呼ぶべきだろう。
    ●ノーベル経済学賞は、正確には「アルフレッド・ノーベル記念スウェーデン国立銀行経済学賞」ってあって、厳密な意味ではノーベル賞ではない。
    ●なぜ、トランプやブレグジットが予想に反して勝利したのかと言う分析。それは能力主義の世界で「落ちこぼれ」とみなされ、それでも自己責任だと見放された人々の反乱であった。極端な個人主義をもたらしたのは、社会の分断であった。
    ●訳者池本氏の意見。成功後シンドロームに陥って、1%の低成長に満足している国には、もっと上を目指す強欲が必要だと思えるようになった。

  • ふむ

  • 経済、および社会の仕組みにおいて、個人主義や個人の権利を基盤にした仕組みは真に豊かで良い未来を築くことはできないと筆者は主張している。

    これらの仕組みに代って重要であると筆者が考えているのは、多元主義的な社会であり、そしてその基盤にはコミュニティがあるという。


    経済の面においては、経済学が想定する個人の効用を最大化する「経済人」のあり方や、それを組織にも適用した企業のあり方が、格差の拡大だけではなく、経済危機や環境問題など多くの課題を生み出しており、それらが逆に経済の停滞の一因となるといったネガティブな循環が生まれている。

    また、社会の面においても、個人主義の台頭は地域や小規模な社会集団における課題解決に向けたコミュニケーションを失わせ、逆に権利の主張や表現的なアイデンティティの衝突による社会の分断に繋がっている。

    このような状況を打開するために中央政府の役割を強調したり、市場化等の経済メカニズムを大きなシステムとして導入しようとする動きが見られるが、これらの取り組みが課題を解決することは難しいと筆者は指摘している。


    筆者がこのような社会の状況を変えていくために必要と考えているのは、ローカルな課題をローカルなレベルでの解決に委ねる、コミュニティからのアプローチである。

    そして、そのコミュニティの中での多元主義的なコミュニケーションを再生していくことで、社会的な課題を真に解決していくことができるとしている。

    コミュニティは近隣や学校、礼拝所などの小さな単位から始まるが、それらだけでは解決できない課題は、徐々に大きな単位でのコミュニティに委ねられていく。このような小さな単位から徐々に大きな単位へと移行していく形を、筆者は補完性の原則と呼んでいる。

    コミュニティが機能するためには、共通の目的、そしてそのコミュニティ内のメンバー間が協力し合うということが共有されていなければならない。このような認識をコミュニティ内につくり出すためのコミュニケーターの役割も重要である。


    経済学や政治学の領域で現在のシステムの行き詰まりが様々な形で指摘をされており、本書はその代替策の一つを提示するものであると思う。コミュニティからのアプローチというものを分かりやすく提示した本として、意義がある書籍なのではないかと思う。

  • 東2法経図・6F開架:332.06A/C84g//K

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著者プロフィール

オックスフォードのセントアントニーズカレッジの経済学教授。世界銀行を経て、開発経済学の世界的な大家。著書The Bottom Billion(邦訳『最底辺の10億人』)は、ライオネル・ゲルバー賞、外交問題評議会のアーサー・ロス賞、コリン・プライズなどを受賞。移民問題を扱ったExodus: How Migration is Changing Our World(Oxford University Press、2013)(邦訳:『エクソダス――移民は世界をどう変えつつあるか』松本裕訳、みすず書房)も話題を呼んでいる。

「2023年 『難民 行き詰まる国際難民制度を超えて』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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