碓氷峠を越えたアプト式鉄道 - 66・7パーミルへの挑戦 (交通新聞社新書076)
- 交通新聞社 (2015年2月11日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (230ページ)
- / ISBN・EAN: 9784330538150
作品紹介・あらすじ
万葉の時代から東西の人々の交通の要衝であった「碓氷峠」。開国後、政府により国内の鉄道建設が進んでいくなか、東海道につづき、中山道経由の鉄道も建設がすすめられた。そこに立ちはだかったのが最大勾配66・7パーミルの「碓氷峠」だ。この峠を鉄道で越えるために導入されたのが「アプト式」だった。急勾配に加えて26カ所もの隧道(トンネル)では煤煙に包まれ運転は命がけであった。隧道番や保線区員の奮闘に支えられ、日本初の第3軌条採用、幹線電化と進化した碓氷線。昭和38年に粘着運転方式の新線への切り換えを経て、長野新幹線開通によって廃止されるまで、幾多の艱難辛苦を乗り越えてきた碓氷線104年間の歴史をつづる。
感想・レビュー・書評
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今の職場は矢ケ崎信号所跡地にあるようだ。
いつも通勤の時には旧矢ケ崎踏切を渡るが、この踏切からは碓氷トンネルに向かう旧信越本線のレールが草に埋もれているを毎日見る。
かつてこのレールを主要幹線の信越本線が往来していた。
その時のことを少し知ってみようと思った。
日本の鉄道黎明期、両京を結ぶ幹線として東海道と中山道上の鉄道建設が計画された。
当初は中山道での建設が進められたが、結果として東海道線が先に開通する。
中山道の難所、碓氷峠の建設が進まなかったためだ。
66.7パーミルの激坂を、どうやって鉄道が越えられるのか。
先に直江津~軽井沢間の建設が終わってしまい、残すは横川~軽井沢のみとなった。
この急こう配を乗り越えるのに取り入れられたのがアプト式だった。
軌条のほかに、ラック軌条と歯車を噛ませて粘着力を確保するわけだが、建設後も特殊さゆえの扱いづらさがあった。
また、急こう配のトンネルは汽車の煤煙がすさまじく、各トンネルには幕を引く係員が昼夜働いていた。
その家族のトンネル脇の生活の苦労も書かれている。
明治26年に全通してから平成9年の新幹線開業で廃止になるまでの百年間、碓氷線の苦労の歴史が記録される。詳細をみるコメント0件をすべて表示