大日本帝国の経済戦略 (祥伝社新書)

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  • 祥伝社
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  • / ISBN・EAN: 9784396114114

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  • 明治時代の経済政策をわかりやすく概観した新書。
    元の幕府も朝廷も金がない中で、明治新政府も当然金がない。それが富国強兵を成し遂げたのは、まず維新後初期段階で農地解放で生産性が倍近くなったことが大きい。また収入面では、版籍奉還→廃藩置県→秩録奉還で段階を追って武士への支払いを無くしていったことが大きい。その裏には薩長が自らの利権を追い求めるのではなく率先して改革の負の面も負担したことがある。
    またインフラ整備面では、鉄道や郵便網および普通教育をいち早く広め、その分外資の進出を食い止めた。
    その後日清日露戦争など対外戦争への道を歩み始めるが、日清戦争の賠償金などをうまく使って軍艦を整備したことが軍備拡大に大きく貢献している。
    金融面では、なかなか財政や貨幣の信用が得られず試行錯誤を繰り返すが、松方正義がデフレを起こしつつも長期的な背策を断行し、日本銀行および貨幣の安定、金融政策の確立を成し遂げた。

  • 数年前、この本の著者である武田氏の「ナチスの発明」という本を読んだとき、いかに私は歴史の一面しか見てこなかったか、と痛感しました。それ以来、日本でいえば幕末から明治にかけて、日本は列強諸国のなかでどのように動いていたかについて興味を持っています。

    特に、戦争がどうなったよりも、戦争を行うためのお金をどのように調達したのか、つまり、歴史を経済的にみるとどの様に捉えられのかです。

    この本は、まさに私のこの様な興味に応えてくれた素晴らしい本でした。明治維新で何が起きたか、現代の日本へ導いた多くの改革が明治の初期に行われています。凄いのは、江戸幕府を倒した諸藩の都合よりも、日本の将来を見据えて、新政府側だった人、幕臣だった人が協力して新しい日本をつくろうとしたことが、この本を読んで理解できました。もちろん、諸般の事情からそれに積極的に加われなかった人もいたようですが。

    今まで、太平洋戦争後に行われた「農地解放」が革命的と思っていましたが、それ以上に、明治維新に行われた「地租改正」そして、それを機能させるために行われた、版籍奉還および廃藩置県がポイントのようです。版籍奉還、廃藩置県と似たような改革が、なぜ分けて行われなければならなかったも含めて。

    さらに、明治まで特権階級にいた武士達の俸禄を、一度になくすのではなく、徐々に減らしていく過程もよくわかりました。歴史の授業では、最後の「秩禄処分」という言葉のみで終わっていましたが、この本でその難しさも理解できました。完全ではありませんが、明治初期の国立銀行を設立するまでに行った、松方氏の苦労が少しわかったような気がしました。

    以下は気になったポイントです。

    ・大日本帝国はお金のかかる戦争(日清・日露戦争)をやって勝った、そのお金をどうやって捻出したのか、大胆な「財政再建」「金融制度の整備」「経済構造の改革」を行った(p4)

    ・明治時代、農業生産は飛躍的に倍増した、明治初年から末年の間に、2倍になった。農業の大躍進の原動力は、明治新政府による「武士の巨大利権解体」と「農地解放」(p14)

    ・版籍奉還により、諸藩が所有していた領地は、全部朝廷に返されて、その土地は「地租改正」により、農民に無償で分け与えられ「土地所有権」を与えらえた(p15)

    ・明治維新では、支配層の武士の側が、自ら進んで領地を返還し、それを農民に分け与えた。ほぼ日本の農地全部を。これほど気前のいい農地解放は他にない(p16)

    ・新政府はお金がない中で、鳥羽伏見の戦いが始まってしまった。鳥羽伏見の戦いまでは、自前で軍費をまかなっていたが、それ以降の遠征はできなかった。そのため官軍は1か月以上も足踏みした。江戸の無血開城も、実は新政府の軍資金不足(p19)

    ・鳥羽伏見の戦いで、徳川家の領地を没収して駿河70万石にあることで、約726万石を得た。奥羽諸藩を移封、減石することで、108万石を得た。皇室関係領土を併せて、約860万石の直轄領を持ったが、全く財源は足りなかった(p21)

    ・幕府や諸藩の支出のほとんどは、家臣の秩禄であり、これが幕末の諸藩の財政を圧迫していた。新政府は、年貢と武士の2大制度を大改革する必要があった(p22)

    ・江戸時代までの日本経済は米が中心、その米の3-4割を、人口でたった5%の武士が独占していた(p24)

    ・武士の制度をぶち壊した具体的な手順は、版籍奉還→廃藩置県→秩禄奉還、である(p25)

    ・薩長土肥は、封建の価値観で言えば、戊辰戦争の褒賞として新たな領地を獲得してもおかしくなかった、しかし、逆に自らの領地を朝廷に差し出した、日本のために行ったこと(p29)

    ・版籍奉還をしても、藩内の徴税権や行政権は藩主が握っていた。藩の収入のうち、10%は知藩事、9%は海軍費、9%は陸軍費として藩内で運営、残りを俸禄、廃藩置県以前の明治の軍隊は、国が管轄するのは海軍のみ、陸軍が各藩が個別に編成していた。だから、海軍費用として藩から上納金を拠出させた(p31)

    ・廃藩置県の改革のポイントは、行政権と徴税権を、藩から国に移したこと(p38)

    ・大久保利通や西郷隆盛、木戸孝允らの偉大なことろは、新政府を作ったにもかかわらず、薩摩藩・長州藩もほかの他の藩と同じように消滅させたこと(p39)

    ・清政府は、藩の借金である藩債や藩札も継承した、廃藩置県時の藩債の総計は、7813万円(外国債400万円)、このうち、藩債47%と、外国債全額の3887万円を引き受けた(p40)

    ・武士の秩禄は、明治維新の時点ですでに大幅削減されていた、上級武士で7割、中下級武士でも3-5割削減されていた、明治3年には、武士から農民・商人になるものには、一時賜金として、俸禄の5年分をだすという制度を作った、放棄するものは、3年分を一括払い、北海道・樺太移住者には7年分一括、支給は半額を現金、残りは公債証書(7%利子)、3年間据え置き、7年間で償還(p43)

    ・旧武士(もと官僚)で、明治政府の官職にありつけた者は、全体の16%(p46)

    ・農業生産の最大は、農業技術の向上にあるが、最大の要因は、地租改正が農民のやる気を引き出したから、あらかじめ決まった税金を納めるので、収穫を増やせばその分は自分の取り分となった(p51、52)

    ・地租改正により、全国の税率は一律となった、殆どの農民には負担減となったが、天領の農民には負担増であった、そのため明治維新直後に起きた農民一揆の殆どは、旧幕府領であった(p52)

    ・明治6-14年まで、地租基準額を決めるための土地調査が行われている、実務的な困難さもあったが果敢に行った。農地宅地は明治9年、山林原野は14年に完了、この調査により、改正前3222万石であったものが、実は、4686万石であったことが判明(p58)

    ・戦後の農地解放は、それほど大規模ではない。当時の小作地は全農地の46%、小作農の農民の半分以下、その46%を小作人に分け与えたのもので、地租改正と比べると規模が小さい(p61)

    ・明治維新から第二次世界大戦までの70年間で、日本の実質GNPは、約6倍、実質鉱工業生産は30倍、農業生産は6倍、戦前も奇跡の成長をしていた(p67)

    ・明治5年に鉄道を走らせたが、欧米以外の国が自力で鉄道を建設したのは、初めて。外国の企業に鉄道の敷設権、土地の租借権を与えて、その企業の資本で建設、運営も外国企業(p69)

    ・工業全社の規模が鉄道会社を超えるのは、日露戦争後(p78)

    ・明治維新から8年で小学校が、2.43万になった(現在2.6万)のは、全て新設したのではなく、江戸時代の寺子屋の施設をそのまま引き継いだのも多かったから(p79)

    ・ロシアは機関銃を多くそろえていたので日本軍はかなり苦しめられた、しかし有利に戦えたのは、質が良かったから。当時のロシアの識字率は50%以下、日本は75%以上(p81)

    ・欧米列強はあからさまに軍事侵攻することはあまりなかった、最初は経済交流などでその国の内部に巧妙に入る、産業力・資本力にものを言わせて、だんだん支配関係になる、鉄道の敷設権、電信線の敷設がそうである(p85)

    ・電気の普及により、ボイラーを焚いて動力源を得るより、電気を使った方が安くなり、大工場のみならず中小でも電気を使うようになった。大正5年(1916)には、東京大阪で80%、全国でも40%の家庭に電気がいきわたっていた、外国人と対等に貿易するために編み出されたのが、総合商社(p91、101)

    ・日本に来た外国商人たちは居住地を制限され(明治32:1899まで)、自由な行動は制限されていた。日本の貿易のほとんどは、外国商人たちの居留地で行われていた、つまり日本の商人たちは独自の貿易ルートを持っていなかった(p98)

    ・幕府主催の総合商社の原型(兵庫商社)には、三井物産などに引き継がれた、これに対応しようとしたのが坂本龍馬の海援隊で、土佐藩・長州薩摩の協力を仰いでつくられ、三菱商会へ引き継がれた(p104)

    ・三井物産は、戦前ですでにニューヨークエンパイアステートビルに事務所を構えるなど、明治40年には日本の貿易総額の20%以上、外国同士の貿易もてがけた(p107)

    ・第一生命を創立させた矢野は、生命保険は生命に関する商品であり、これでカネもうけしてはならない、会員組織による相互会社であり、利益は被保険者に分配すべきだとした。第一生命は2010年に株式会社化したが、ほかの大手はまだ相互会社なのはその心意気を受け継いでいる(p109)

    ・大日本帝国の軍事費は戦争をしていない時期は、だいたい歳出の30%程度、これは欧米諸国比較でそれほど高いわけでない(p116)

    ・サラリーマン、使用人には税金は課せられていなかった、高額所得者に課せられていた所得税は、戦前までは一律8%、累進課税でなかった。法人税もなく企業も個人と同様の8%(p118)

    ・当時の税収の柱は、酒税。現在は全体の3%だが、明治時代には30%程度、昭和初期までは税収1位、酒税で、陸軍および海軍の年間費用がほぼ賄えた(p119、124)

    ・酒税が作られた経緯は、定額の地租以外の諸税が必要となった、江戸時代に1500以上あった、運上冥加金などを整備した(p120)

    ・明治15年当時の酒税率は20%程度(1石=一升瓶100本、20円に対して4円)、現在は50%以上の酒税である(p121)

    ・清は軍事予算自体は莫大であったが、多くは汚職のために消えていた、これはアジア諸国では普通のこと。欧米列強から多額の借金をして、関税が担保となっていたため、関税徴収を外国人に握られていた。しかし外国人は返済額・必要経費を差し引いた残額を払っていたからこの制度は良しとされた(p126)

    ・軍事費がそれほど高くなかった要因の一つに、武器の国産化が挙げられる(p129)

    ・西南戦争で新政府軍が使った小銃弾は、3500万発、西郷軍500万発の7倍、物量において圧倒していた(p130)

    ・明治38年には、戦艦「薩摩」、翌年には戦艦「
    安芸」の建造開始、日本が最後に戦艦を購入したのは、明治44年の巡洋戦艦「金剛」(ヴィッカース)(p133)

    ・戦争とは経済力の戦い、経済面でみると、清国:8000万両(1.2億円)、日本(0.986億円)とほぼ変わらない(p141)

    ・日清戦争の賠償金は当初は2億両だったが、遼東半島を還付したので、2.3億両(日本の国家予算の4.2年分)、イギリスのポンド=3808万ポンドで払われた。連合艦隊の旗艦戦艦「三笠」=120万ポンド(p152)

    ・日露戦争の戦費合計は。19,86億円(8年分の国家予算)、このうち14.7億円は国債、残りは臨時特別税で賄われた。14.7億のうち、13億円が外債(p154)

    ・身分制度は当時の日本社会では当たり前であり、これを打ち崩すという発想はなかなか出てこない、四民平等・職業選択自由を最初に正式に宣言したのは、伊藤博文・陸奥宗光らである(p171)

    ・明治新政府は維新直後に戸籍を作った、これには、華族・士族・平民の3区分しか設定されていなったので、ここで、農工商をすべて平民としたので、四民平等となった。しかし賤民は残されていた、明治4年8月に、賤民廃止令によって廃止した(p173)

    ・民部省改正掛は、実際の活動は2年間あまりであるが、四民平等・廃藩置県・地租改正・鉄道建設・郵便制度・会社設立等、明治の重要な改革を主導した(p176)

    ・岩倉使節団は、アメリカを皮切りに、イギリス、フランス、ベルギー、オランダ、ドイツを訪問した(p190)

    ・幕末日本では、金:銀が1:5であったが、欧米は銀が15であった。欧米では日本より金が高い価値であった。自国から銀を買ってきて、日本の小判と交換して、それを中国に輸出する。この作業で100%以上の利益を上げられた、外国商人は日本の公定比率で交換しているので、日本国内の商人は損していないが、金の流出により日本の世界貿易による購買力が減少した(p195)

    ・欧米諸国と日本は、「金銀はに日本の交換比率で行う」と通商条約で決めていたので、欧米諸国は交換比率改定には応じなかった。幕府は貨幣の改鋳により金の流出を防いだが、それまでに100万両が流出していた(p196)

    ・新政府は1868年1月、二条城に大阪京都の商人を集めて、300万両の拠出を依頼した。その中で積極的に協力したのが、三井。合計で、267万両集まったので、官軍は江戸、会津、函館まで遠征可能となった(p199)

    ・新政府は、戊辰戦争時での商人からの借金を、太政官札で返したようなものであった、合計1000万両流通させた(p204)

    ・国立銀行条例(明治5)によれば、国立銀行は、資本金の40%を正貨で準備、残りは太政官札などで準備し、それを政府に預ければ、それと同額の通貨を発行できるとした(p211)

    ・改正国立銀行条例では、資本金の80%を公債証書(金禄公債)で政府に預託、資本金の20%の政府紙幣を準備金として用意すれば、資本金の80%の通貨を発行できることになった。これは金と不兌換だったので、商人たちが金兌換に走ることは無かった(p216)

    ・国立銀行は、明治12年までに153の国立銀行が作られた。発見総額は、3393万円以上、名前は、ナンバリングのみ、第15銀行は華族銀行(p216)

    ・西南戦争の軍費は4200万円(当時の歳入規模は5200万円)、このうち1500万円は華族銀行(15銀行)から借り入れ、2700万円は不換紙幣の増刷により調達(p219)

    ・各藩の領地は明治維新後も藩主がそのまま知事となっていたが、天領には藩主はいないので、新政府から知事を派遣した(p224)

    ・松方は、正貨を貯めるために、輸出業者に対して輸出品を担保に政府紙幣を貸して、輸出品を売った時に正金で受け取るようにした。輸出業者が代金をもらうまでに長い時間を要するが、政府紙幣(横浜正金銀行の海外為替)を使えば、輸出時点で代金分の紙幣を借りられるメリットがあった(p234)

    ・松方デフレ以前のインフレ時期は、農民たちは非常に潤っていた、地租改正により税金は一定額ながら、米の価格は上昇していた。(p235)

    ・日本銀行には、三井銀行の番頭の三野村、安田銀行の安田善次郎を役人に就任させた。資本金の半分の500万は民間出資であった。国庫金の扱いの権限を三井、安田銀行から取り上げたので(p239)

    ・明治16年に再度、国立銀行条例を改正して、国立銀行は創立から20年しか営業できなくなった。各地銀行は自行の紙幣を償却しはじめ、明治18年末までに424万円の国立銀行紙幣が償却された(p240)

    ・紡績業界は銀本位制であり、銀価格が安いからこそ輸出ができている、と渋沢栄一も金本位制の導入には反対であった(p249)

    2015年5月23日作成

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著者プロフィール

1967年生まれ、福岡県出身。出版社勤務などを経て、フリーライターとなる。歴史の秘密、経済の裏側を主なテーマとして執筆している。主な著書に『ナチスの発明』『戦前の日本』『大日本帝国の真実』『大日本帝国の発明』『福沢諭吉が見た150年前の世界』(ともに彩図社)、『ヒトラーの経済政策』『大日本帝国の経済戦略』(ともに祥伝社)等がある。

「2022年 『吉田松陰に学ぶ最強のリーダーシップ論【超訳】留魂録』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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