幕末 維新の暗号(上) 群像写真はなぜ撮られ、そして抹殺されたのか (祥伝社文庫)
- 祥伝社 (2011年6月9日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (296ページ)
- / ISBN・EAN: 9784396336653
感想・レビュー・書評
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明治維新の英傑が一堂に会した写真をめぐって、以前は映っている人たちが本物ではないということで片づけられてきたものらしいのですが、実際に撮られた写真であるということと紹介した本です。
私は、これらの写真の真偽よりも、幕末から明治維新にかけての状況を、この本の著者である加治氏が解説してくれた点が面白かったです。
以下は気になったポイントです。
・新政府樹立の儀式は、公家の東久世氏が、神戸の外国人居住地へ出向いて、「帝の国書(漢文)」が手渡した(P34)
・長州藩の松下村塾は、まさにスパイ学校で、伊藤博文、高杉晋作など、優秀な長州侍の多くは、工作員やエージェントとして訓練を受けた(P157)
・日本に武家と公家の二大勢力があったのは、武家勢力が単独で全国を制覇できなかっただけのこと、鎌倉時代より前は、公家と寺家(神道と仏教)であった(P194)
・北条鎌倉幕府は、支えていたはずの大御家人である、足利高氏と新田義貞、独立系武士団、自社勢力が加わって、内乱に陥って幕を閉じた、それを知った後醍醐は隠岐から戻った(P207)
・足利鎌倉政権の樹立は、天皇から見れば裏切り者だが、武家から見れば足利が身体を張って勝ち取った天下である(P210)
・後醍醐は吉野に逃走して南朝を叫び、その後、後村上、長慶、後亀山と続いたが、やがて北朝に降伏して消滅した(P224)
・明治の天皇は北朝の天皇であるのに、建武の中興に対して最大級の評価を与えている、建武の中興は、南朝が武器を持って明治天皇の先祖である北朝、光厳天皇を殺そうとして攻めて勝ち取った時代であるのに(P228)
・足並みのそろわない幕府軍に対して、英国・薩長・天皇の三者が、巨大な塊となって戦った、それから遅れて、土佐藩、越前藩、尾張藩であり、佐賀藩が加わるのは鳥羽伏見の戦いの4か月後の上野から(P232)
・乱は犯罪の扱い、そうでないのは「役、戦争」である、佐賀の乱や西南戦争が一例(p244)
・源氏の旗色は「白」、平氏は「赤」(p267)
・鎮台とは、地方に駐屯する明治政府の治安部隊、当時は、東京・大阪・仙台・名古屋・広島・熊本の6か所(p279)
2011/7/9作成詳細をみるコメント0件をすべて表示