- Amazon.co.jp ・本 (404ページ)
- / ISBN・EAN: 9784404028822
感想・レビュー・書評
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(2010.08.10読了)(2001.02.28購入)
「天地明察」の関連本として、7月に読む予定でしたが、8月にずれ込んでしまいました。帰省先に持ち帰って読んできました。実に驚きの内容でした。
小説なので、どこまでが史料に残っていることで、どこからが作者の創作なのかは、参考文献に挙げてある「関孝和」平山諦著、「「算木」を超えた男」王青翔著、等に当たってみるしかなさそうです。
「天地明察」の主人公、安井算哲については、この本にたびたび登場します。関孝和の見えないライバルのような扱いになっています。
例えば
「名前は忘れたが、碁所を勤める安井家に天文学、暦学の素養がある子どもがいると聞いたことがある。」(32頁)
「確か、孝和よりも一つか二つ年上と聞いた気がする。幼少のころから神道の奥義を極めていて、会津の保科正之公、水戸の徳川光圀公が称賛されていたのは事実だ。それがなぜ天文学、暦学まで評判なのかは、はっきりとは知らぬ。」(34頁)
この物語では、関孝和は、15歳の時から駿河の松木家という裕福な商人の家で過ごします。1660年4月、孝和22歳のときに松木家に、江戸へ向かう安井算哲とその弟知哲が立寄り孝和に会います。
「兄(算哲)は孝和と同い年の22歳、弟は三歳下の19歳である。」(164頁)
孝和の算哲に対する印象は、
「自分と同い年のはずだが、公儀に仕え、将軍や大身の侍との交流があるせいだろう。かなり尊大な態度だし、気難しい人物なのかもしれない。」(166頁)
というものです。
孝和の質問に対する知哲の答え。
「兄は、(天文暦学を)京で松田順承先生、岡野井玄貞先生から学んでいます。」(166頁)(この二人の名前は、「天地明察」でも出てきます。)
「兄は、昨年、諸国での実地観測をしました。天文暦学でとても重要なことのようです。」(167頁)
孝和から算哲に対する質問の答え。
(孝和)「安井様はなぜ天文暦学を学んでおられるのですか」
(算哲)「歴法を身につければ、神代の出来事が今から何年前の何月何日のことだったかも判明する。『日本書紀』に書かれた出来事がすべてだぞ」(168頁)
孝和の算哲に対する印象。
「孝和は、尊大で才気ばしった算哲に少しもよい印象を持たなかった。数学の分野の一知識人であることは認めるが、今後も親しく付き合いたいとは思わなかった。」(169頁)
この後、関孝和が安井算哲に会うことはありません。「天地明察」の安井算哲は作者、冲方丁の作り上げた人物ということでしょう。もちろん、「算聖伝」の安井算哲も作者、鳴海風の作り上げた人物でしょう。
1667年、算哲は、会津へ招かれ、数カ月の滞在期間中に、保科や安藤有益と存分に改歴の議論をしたという。
1670年、算哲は、32歳だったが、既に、『春秋術歴』、『天象列次之図』、『春秋杜歴考』などの天文暦学に関する著述があった。
また、天体観測を重視する算哲は、経緯四游の三単環だけの渾天儀や天球儀、地球儀などを自ら製作していた。(225頁)
1672年12月、保科正之が死んだ。62歳だった。保科は、次のような遺言を残した。
「授時暦によって改歴すべし」(227頁)
1675年、算哲は授時暦をもって改歴すべしと上表していたが、5月朔日の日食が、授時暦よりも宣命歴の方が正確だったということで、改歴は見合わされた。(246頁)
1678年7月、安井算哲が麻布で、秋分点を計測し、7月16日正午とした。(255頁)
算哲は、1686年まで、秋分、冬至、春分、夏至、を計測により求めた。
1680年、安井算哲は、『日本長歴』を著した。『日本書紀』に十干十二支が載っている神武東征以後、1677までの二千年余りの歴日を、その時代に使われた歴法通りに計算して完全復元した本でした。(274頁)
1683年師走、安井算哲が、再び改歴の上表を提出した。(286頁)
1684年3月、宣命歴が廃止され大統歴が採用されると伝えられた。算哲の大和暦は採用されなかった。(293頁)
算哲の大和暦が採用されなかったのは、大和暦の元になっている授時暦がかつて我が国に攻めてきた元の暦だったからということだった。(294頁)
安井算哲は、水戸光国の強力な援護を得て、三度目の改歴上表を行って、正確さを認められ、採用された。貞享歴として翌年から施行された。
算哲は、御家人となり、最初の幕府天文方に任じられた。(321頁)
本題に戻りましょう。この本は、和算の大家、関孝和の生涯を描いたフィクションです。
関孝和は、いつ頃誰の子として生まれたのか不明のようです。この本では、坂田孝和として登場します。11歳です。
叔父の井上筑後守政重の屋敷で暮らしています。政重は、大目付で切支丹奉行、別名宗門改め奉行を兼務しており66歳です。
小石川小日向にある政重の下屋敷は、切支丹屋敷と呼ばれ、捕まえた宣教師を生活させて、西洋の知識を教えてもらっている。長崎のオランダ商館長が江戸参府にやってくるときに随行してくるオランダ人から知識を学んだりもしている。
坂田孝和は、叔父の計らいで、これらの知識も学んでいる。
(江戸の天文学、暦学、数学、のもとは、西洋の宣教師が日本人に教えたものではないか、という説があるようで、『塵劫記』を著した吉田光由もそうではないかという。(32頁))
孝和が12歳になった時、切支丹屋敷にオランダ人の少女がやって来た。名は、アプリルという。9歳だった。物語は、この少女と孝和を交流させながら進められる。
孝和は、イタリア人宣教師、キアラから数学と天文学を教わりながら過ごしている。
孝和の父井上正就は、老中職にある時、殿中で刺されて死んだ。孝和は、正就の側室のお園の方付きの奥女中から生まれた。正就の子供とするには、相続問題が絡むので、叔父の政重の側室、お楽の方に預けられ育てられた、ということだったが実は、
13年前、政重の長崎出張の折、キリスタンの処刑の様子を見せられた。その時、女の非人に抱かれた1歳前後の男の子を見た。処刑されたキリスタンの子供で、見せしめのために、首を刎ねるのだという。政重は、その子の処刑を止めさせ、引き取って来たのだという。髪が赤かったので、異国人の血が混じっているのかもしれない。
15歳になった孝和は、駿府の松木家に預けられる。東海道筋にあるので、色んな人物が通り、和漢の算書も多く目にするだろうという。
主人の松木新左衛門は、多くの漢籍を所蔵しており、数学、天文学、暦学に関するものもあり自由に利用させてくれた。
三島出身の歴学者、嶋田貞継から暦術の話を聞いた。宣命歴の話も聞いた。
孝和23歳の折、江戸へ戻った。引退した叔父の政重が危ないという。
政重は死んだ。享年77。(177頁)
坂田孝和は、叔父の遺言に従って、甲府藩の関家に養子として入った。養父関五郎左衛門は、勘定組の侍だったので、孝和は、勘定見習いとなった。(192頁)
1665年、孝和が27歳のとき、養父の五郎左衛門が亡くなった。65歳だった。
孝和は、磯村吉徳を師として学び、算額奉掲が始まったので目黒不動や湯島天神に算額が奉掲されたと聞くたびに出かけて行った。(219頁)
孝和は、数学に夢中になり、出仕を怠りがちになったりしたが、同僚たちに助けられて、何とか首がつながっていた。
1674年、『発微算法』(『古今算法記』の遺題の回答をまとめた)の草案が完成した。
孝和は、この中で、天元術、演段術、傍書法、を使用している。
(天元術は、一次方程式、方程式の道数を減らしてゆく方法が演段術、紙の上に計算過程を記述するのが傍書法です。それまで計算は、算木か算盤を用いていたので、筆算の方法がありませんでした。)
1676年、建部賢明、賢弘兄弟が入門を求めてきた。兄の賢明は、16歳で、弟の賢弘は13歳である。(247頁)
藩主綱重が改歴に興味を持ち、組頭を通じて、改歴の勉強をして置くようにと命じられた。改歴の勉強のためには『天文大成』が必要と聞いていたので、入手をお願いした。
天文学のためには、膨大な計算や観測が必要である。孝和は建部兄弟を使って暦算に挑むことにした。(248頁)
1678年9月、藩主綱重が死亡し、徳川綱豊が後を継いだ。
1679年、綱豊が甲府にお国入りし、孝和は、領内検分に同行させられた。
1678年7月に、算哲が秋分点を計測し、1679年3月には、春分点を計測したということなので、孝和も天体観測で、冬至を計測して、冬至を求めた。計算によると11月8日だったが、頒暦に示されている冬至は、11月6日で、二日ずれていることを確認した。(263頁)
孝和は、鈴木半左衛門の娘幸恵、20歳と結婚した。
1680年、家綱が亡くなり、綱吉が5代将軍となった。
1680年の暮、孝和の最初の天文書『授時発明』がまとまった。
1681年、孝和の天文学研究は一層進み、『授時暦経立成之法』、『授時暦経立成』の二つの著述をまとめた。いずれも授時暦の基礎的な計算法を解説したものである。(275頁)
現時点において、授時暦を天文数学的に理解しているのは、日本では関孝和をおいて他になかったろう。(277頁)
1683年師走、算哲が「大和歴法」により改歴を提案した時、多くの観測に基づく正確な天文定数が含まれていただろう。授時暦の計算法では、孝和が優れていただろうが、孝和には、観測データが不足していた。
結局改歴事業では、算哲によって成し遂げられた。孝和は、暦法の研究の中で、多くの独自の数学上の業績を残した。
1708年10月24日、関孝和は、息を引き取った。70年の人生だった。(387頁)
「天地明察」では、関孝和が渋川春海に授時暦に必要な計算法を提供していたように記憶しています。「算聖伝」では、安井算哲(渋川春海)に関する記述が驚くほど出てきます。改歴に関しては、関孝和と渋川春海の二人のどちらかを欠かすことはできないのでしょう。
関孝和の数学上の業績は、西洋数学とは無関係に独自になされたものという風に思っていたのですが、この本を読む限りでは、中国経由の西洋数学や日本に来たキリスト教の宣教師が教えた西洋数学の影響が結構ありそうです。
『塵劫記』を書いた吉田光由も切支丹で、宣教師から数学を学んだのではないかと書かれています。
☆関連図書
「保科正之」中村彰彦著、中公新書、1995.01.25
「円周率を計算した男」鳴海風著、新人物往来社、1998.08.30
「『塵劫記』初版本」吉田光由著・佐藤健一訳、研成社、2006.04.20
「和算を楽しむ」佐藤健一著、ちくまプリマー新書、2006.10.10
「天地明察」冲方丁著、角川書店、2009.11.30
(2010年8月28日・記)詳細をみるコメント0件をすべて表示