- Amazon.co.jp ・本 (379ページ)
- / ISBN・EAN: 9784414429107
作品紹介・あらすじ
本書は、慢性の病いをかかえた患者やその家族が肉声で語る物語を中心に構成されている。今日の生物医学によって軽視されがちなこうした病いの経験、語りこそが、実は医療やケアの中心に据えられるものではないか。著者は、病いとその語りを、微小民族誌などの臨床人類学的方法を駆使しながら、社会的プロセスとして描き出そうとする。そして、病み患うことが今日どのような変容をとげつつあり、来るべき時代の医療やケアはいかにあるべきかを明らかにしようとする。本書は、この分野に関心を寄せる広範な読者に向けて書かれている。慢性の病いのケアに携わった著者の臨床知や臨床姿勢が横溢し、すでに高い評価を得ている著作の邦訳である。
感想・レビュー・書評
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493.1/Kl4
【成人看護学特論】詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
<シラバス掲載参考図書一覧は、図書館HPから確認できます>https://libipu.iwate-pu.ac.jp/drupal/ja/node/190
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”病”と”疾患”の違い
慢性の痛みは深く挫折感を抱かせ、自己破壊的になる。問題の悪循環なのである。
いったい病はどこにあるのだろうか?腰にあるのはもちろんである。だがハウイの自己認識、子供時代についての解釈、エレンや母親との関係、子供たちの反応・・・にも病が現れていることについてはどうだろうか?痛みというものはコミュニケーションやネゴシエーションのネットワークの中で使用され、中心的な慣用表現(イディオム)である。ある意味ではそのネットワーク全体が痛みの中にある。
長期に及ぶ空虚感、激怒、失望、屈辱、周知、人生に打ちのめされた感じ、選択の余地がほとんどなく身動きが取れない感じが、ルドルフの周囲に漂っている。
”人生は、つらくて、やる気をそぎ、恐ろしいものだ”という見方。
彼らが語る病の物語に、共感的に耳を傾けることが、臨床家の主要な治療的仕事になるに違いない。
ケアのもっとも重要な基礎は、その反応にあるのではない。それはむしろ病についてその患者が語る談話にある。
医者は、疾患を診断するためにその談話に耳を傾けるという(「患者の言うことに耳を傾けよ、患者は診断を語っているのだ」)
病の内容に注目する代わりに、病の意味の構造を探るべきだろう。
「心気性」=疾患のない疾患 アイロニックな病い
”病気になってどんな気持ちか、と尋ねてくださってうれしいです” -
136-Dにも1冊あり
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遅きに失しますが、ようやく読み終えました。名著です。ひとつひとつ納得しながら読めました。ケースに基づき、紹介されているので、実際の臨床現場で出会うケースと告示しているものも多く、明日からの臨床にも役立ちます。慢性疼痛や神経衰弱の章はこれまで悩んでいたケースに活路が得られるような表現でした。「慢性の病のケアを一種の民族誌学的な実践を含むものとして考えることが有用である」というのは、以前読んだ「驚きの介護民俗学」と共通するものがあった。いずれにせよ慢性の病のケアについて日々実践していることが間違いではないことが、本書を読んで確信できた。
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臨床人類学に初めて触れた一冊。。「病い」が患者によって生きられる歴史であり、何よりも語られるもの(ナラティヴ)である。医療に携わる如何を問わず、病を生きる人と接するすべての方にお勧めできる。理学療法士としての今の自分の原点がこの本かもしれない。
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Illness narativeに関しては先駆的だし、非常に重要な一冊であることは間違いない。クラインマンが臨床家として真剣に患者と向き合った結果がこれなのだし、それは絶対的な評価を与えていいと思っている。<br><br>しかし病者の語りをただ、臨床家たちのケアの道具として捉えるのだけは間違いだと思う。クラインマンがそうしている、というのではなく、一時見かけた、「病者に語らせるのはただ研究者にとってのデータであるだけではなく、病者自身がそれを乗り越えていくための手段である」、的な発言に対して私は非常に反感を持っていて、あまりにもその手の言動が一世を風靡したがために、クラインマンのこの著作も、そうした色眼鏡で見てしまうところがあるのが残念、とでも言おうか。(基本的には、私自身の問題です……m(;__)m)<br><br>というようなことは抜きにして、とにかく臨床家たちにの必読書ではある。身体をパーツとしてだけ捉えるのではなく、その患者の自分史すらも臨床家にとっては非常に重要で有益な診断と治療の材料であることを知ってもらいたい。