- Amazon.co.jp ・本 (116ページ)
- / ISBN・EAN: 9784422113036
作品紹介・あらすじ
精神分析とは――「患者のこころのなかで何かが起こるために、患者と分析家がふたりで何かをすること」(藤山直樹)/「クライエントが自分自身にとっての真なるものを理解すること」(松木邦裕)――簡単には説明できない営みである。その困難に挑戦して納得いくまで語り合おう、というねらいで開催されたセミナー《精神分析スタディDAY》。とっておきの着想、渾身の弁があいまっての白熱ライヴ講義を、コンパクトに再演する。
感想・レビュー・書評
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面白い。以下引用。
精神分析では、患者のこころのなかで何かが起こるためにm患者と分析家がふたりで何かをするのです。そのふたりで何かをするという営みの本質は、とことん考えれば、語り得ません。その瞬間瞬間の、相手の気持ちや情報を全部掴むことはできない。だから、本質的には語りえないわけです。
分析家は明確な方法論を打ち出し続けていくということにこだわるわけです。それはなぜかというと、そこで起こっている出来事、プロセスは非常に曖昧模糊としており、じつは目的すら言葉にするのは難しいという実情があるから、方法論にこだわらなかったらもう話にならない→型みたいなものかな。またはプログラムというか、劇というか。
方法というのは非常に重要。方法にこだわった結果、そこに精神分析が生起するわけです。
精神分析が精神分析らしく動いていることに感覚をつかんでいて、そのためには方法が必要だといj明確な認識をもっていなければ、精神分析はできない
精神分析は方法ではない。精神分析という語りえないものがあって、それを実現するためにはひとつに方法が必要なのだと思っています。
金の話をできない内科医がいるが、彼らは偽善者。
患者の希望に応えてその料金をとらなうほうがいい人だと思われる。
精神分析をやるというのは、そういう世間の眼だとか、自分がいい人だと思われたい願望だとかを超えるということが前提になる。そこには葛藤がある。迷いが生まれる。周囲の環境からすれば異質なことを、持続しなければいけない。ものすごい外的な抵抗や自分のなかの内的な抵抗がある。精神分析的なことを実践するということは決断です。決断なき精神分析はありえない。
→何かここらへんに今の自分が右往左往しているかな。介入とか、距離を置いてしかできないことがあって、まだどこかその辺で気にしているなぁ。
精神分析は、日常的でない。不自然だからいいんじゃないか、精神分析は不自然です普通の日常生活ではありえないことを起こすために、方法として日常ではありえない設定を用いる
分析家と触れ合うというのは、とってもフォーマルなものでありながら、近しい、いわばインティメートなものなんです。
ふつうの人間関係はフォーマルなものから、インティメートなものにいくまでにm途中にソーシャルなものがある。ソーシャルな付き合いからインティマシーにいくわけだけれど、精神分析にはソーシャルなものがほとんどない。
ソーシャルなものがすっとばされる、セッションが終わったら、まれに雑談を仕掛けてくる人がいる、ソーシャルを求めてくる。でも私は淡々とあぁはいはい、いや、どうも、とか言って、玄関まであるき、送り出す。雑談というソーシャルなつきあいをしないわけです。
★非常に近しい、でもそれと同時にフォーマルな距離がある。そういう特殊なもの。
解釈をするということも大事だが、解釈以外のことを目指さないということが大事。解釈に結びつかないこと以外はしない
普通の人間関係だったら、ちょっと間にはいったり、いろいろ言いたくなるが、そういうことはいわない。その患者が死にたいといったら、その気持ちについて理解する、その本質を把握する、
解釈するという仕事以外目指さないということは、普通の人間関係、普通の大人世界とは違う。
★自由連想をきくためにそこにいるわけではない、私たちは分析をするためにいるわけであり、言葉をきくためにいるのではない
言葉が優勢な場なのに、言葉でないものに浸透していかなければいけない。分析家はある種寛いだ状態にいる。つまり知的に推論をしているわけではなう。解釈というのは、あっちから、ひゅっとやってくるのです。理詰めで考えているわけではなう
オープンでいつつ、緊張に耐えていく
★大丈夫ですよ、だって、、、は完全に患者に巻き込まれている。筋描きに組み込まれた救済者になってしまっている
自分の考え解釈を目指してもちこたえるのは、患者の一部になってしまうのは、そういう岐路にいつも私は立つわけです。
微妙に患者の世界に組み込まれてだけど、分析家としtrそこに提示し続ける
精神分析は、自由に話せないところからはじまる、より自由に話せるようになっていくのが大事
★転移。その人のこころのなかの世界が、外界に、面接室のなかにそのままでてくる。それは過去の事実ではない今その人が抱えているこころの中の世界
語るというのは自分自身を連れてきているということ。
その時、突然、その人は気がついて、それが特異な意味を持ってm存在し始める。こういうかたちで、転移が面接空間のなかに姿を現すという体験を、分析の中でする
そのクライエントと関係の中で、その特定の感覚が生起する
概念化するという内的な作業によって、私たちはそれらの事物を自分のなかに置く。面接空間では、私たちは、患者に由来する現象を観察する。それらの現象は、そのままの事物として、こころには収められません。概念などの思考に保持して変形することで、理解できるものになる
その現象はそもそも患者によって思考化されていたものの再現象化。ですから、その患者が思考そのままそれとしてその人を受け取ることで、心が理解できる
クライエント自身では概念化できず、意識的には考えられない原始的思考の水準で内在化しているそのままの思考も、体験の記憶は残っている。これが原始的思考。それをことばで提示することができるように、概念として整理できるようにする
精神分析サイコーセラピーは、頭が鋭敏とか知的だと、その人自身として理解することは難しい。少しぼんやりとした焦点化しない感じにとどまっているほうが望ましい
いろんなものを満遍なく感知して、そのなかから、大事なものがふっと浮かび上がってkるという質の聴き方
たとえば、男性セラピストが休みにしたら、それが横暴さに現れているという認識をされてしまう。関係のなかにそのまま起こってくる。→制作においてもまさにそうだったし、いろいろ思い当たる節がある。関係は鏡だなと思う。
自分のなかでことばにしたものは、自分のためことばなにでそれを変形して、どういうふうなら聴くことができるかという観点から、変形して伝える
解釈においては破局的な感覚を伴う心的変化を導く必要がある
★破局とは、患者がそれまで持っていた自分なりの感じ方や考え方が、本人はそれが自分だと思っていたものが、わからなくなったり、あるいは考えがまるでまとまらなくなったり、わけのわからなう感情に襲われる事態。それがあってこそ心的変化がそれに続いて起こる
解釈による私たちの言語的介入により、無意識に抱かれていた感情や思考がことば化された概念とつながって、それとして実感される→体験過程のことかな。フェルトセンス。
ああ、そういうことか、ああ、そうなんだとという得こころ。
解釈により、無意識のなかに抱いていたものの一部として思考として意識化する
知ってはいたけれど、意味をもたなかったという漠然としたままに置かれていた心的事実。そういう事実が解釈により新たな視座に浮かび上がり、重要な意味を持つものとして認識される
いったい自分が何をしているのかということを常に意識しておき、その意義を検討することが大事。
思考の瞬発的な深まり、思いがけない展開から、ぐんと深い本質的なところを掴み出す、日頃の生活の中に、こころ集中して物事を深く考えるという習慣をもっておられるのだろう
人は自分の真実を知ろうと格闘している
分析実践は、その枠組みを書くことはできる、しかしそれ以外の過程のなかのふるまいなどは言葉に定着するのが難しいように思う詳細をみるコメント0件をすべて表示