ハイデッガー全集 第12巻

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  • / ISBN・EAN: 9784423196236

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  • 元々ハイデガーの著作として刊行されたもの。全集版はハイデガーの手沢本の欄外に記された書き込み付き。『言葉』『詩における言葉』『言葉についての対話より』『言葉の本質』『語』『言葉への道』の論考がこの順番で「言葉への道」とは何かを解き明かす一つの道を形作っている。トラークル、ゲオルゲ、ヘルダーリン、ゲーテなどの詩人の詩と文学作品に触れています。ハイデガーは言う:深く思いめぐらす思索はすべて詩作であり、また、詩作はすべて思索である、と。ハイデガーの思索は、存在を与える運命、開けた明るみに示された光に耳を傾ける詩的性格を帯びています。「言葉」は「存在」と同じくハイデガーの重要な論究の道の一つ。

    ▼『言葉』(1950年の講演が元となったゲオルク・トラークルの詩の解読)

    言葉についての論究することは、我々自身を言葉の本質の所在する場所へと連れて行くことであり、我々自身が、すべてが凝集した結果、有るべき事態が生起するところに赴くこと。

    言葉は語る:言葉を追いつつ思い巡らすとは、言葉の語りだす働きの中へ何らかの仕方で我々が入り込むこと。
    その入り方:人間なる死すべきものの本質に対して、留まり住みつく居場所を与えるものとして、言葉の語る活動が生起してくる。

    言葉の本質についての2500年来の固定的な見方では、古い伝統の内へと回帰はしていくが、最古の性格付けは不問のままである。

    そこで我々としては、言葉が語るという活動をしていることを、勝手気ままに語られたことを無選択に掴み取らず、純粋に語られたものを見出すのがよい。
    純粋に語られたものは詩である。

    トラークルの「冬の夕べ」という詩を手がかりに、言葉が語るとはどういうことか論及する。
    詩句「雪」「夕べの鐘」「食卓」「家」を呼びかけ事物を呼び出す。名指しつつ呼びかけることは、こういう形での到来を命じるものである。
    来るように命ずるとは、招待することである。

    天と地、死すべきものと神的なもの、この四者つまり世界を結集させつつ留まらせる。

    この四方界は『言葉』講演の前年の講演『物』で示されたもの。
    瓶の本質を「液体を集め注ぐ」こととする。瓶にワインを注ぐ例では、ワインの原料の葡萄は地の栄養と天の太陽光によって養われる。
    つまりワインには地と天が宿っている。また集められたワインは死すべき者(人間)の飲み物であり、神々への捧げ物でもあることから、死すべき者と神的なものが宿っている。


    言葉について論究することは、私たちが自身を言葉の本質の場所へ連れて行くことであり、赴くこと。私たちは「言葉への途上」にある。

    ▼『詩における言葉』(1952年の講演が元となったゲオルク・トラークルの詩の解読)

    魂の歌唱を歌っているトラークルの詩を手がかりに、詩人としての言の働きを詩の作品にまで凝集させてゆく場所、彼の詩の場所を論究する。
    詩人とは、詩とは何かという問いでもある。
    論究するとは場所を指示すること。場所とは槍の穂先の意味で、その穂先に全てが凝集している。

    結論を先に言うと
    余所者(魂)が足音を響かせ光を輝かせながら歩むときのよき響きは、この余所者を追ってついて行く者の暗い、さまよいの旅路に焔を点し、さすらいに耳を澄ませつつ歌う歌声に変えてしまう。このような「隔絶した寂寥の地」こそ詩の場所となる。
    早逝した者について行く人々は、先達の動きに耳を澄ましながら、みずからも世間から隔絶した者となり切る。こういう人々の歌ったものが詩。
    詩を作ろうとする者は、狂気の人(死んで原初の時期に至り、隔絶した寂寥の地からおのが足音の快き音を響かせ、付き従う兄弟に呼びかける人)の跡を追うときにのみ、詩人となる。


    その早逝した者が下降して辿り着く「隔絶した寂寥の地」である詩の場所とは具体的にどこかというと、それが「夕べの国」である西欧となります。
    ただしこの夕べの国はプラトン的キリスト教的国、さらにヨーロッパという名で考えられている国よりも古い、早期のもので「原初」です。
    トラークルの詩は最も奥深い内面では歴史性が欠けていると言われる。が、彼の詩はもっとも高度な意味において歴史的なもの。
    トラークルのどの詩も、詩の眼差しはたじろぐことなく、均しく、詩の唯一の場所に向けられ、見つめ続けています。

    ▼『言葉についての対話より』(1953/1954年に成立。手塚富雄教授の来訪が元。日本語の「こと・ば」の解読)

    とある日本人と問いかける人との対話形式の作品。
    日本人は、日本の詩作や芸術はその本質をどこから受け取っているのか、その根源となっているものをより高度に明らかにすることをひたすら願う。
    そしてその根源とは「いき」である。
    日本人はいろ(色)とくう(空)を語る。これは西欧的芸術論、すなわち美学的に表象する形而上学的芸術論に符合する。
    アイステートン(知覚し得る感性的なもの)が、ノエートン(非感性的なもの)を輝き出させる。
    しかし西欧の技術の進歩が世界を席巻し、本質的なものをすべてその源泉のところで食い荒らしている。
    日本の世界が映画という形で作品化されたという事実そのものが、この世界を、問う人(ハイデガー)が対象的なものと呼んでいる領域の中に押し込んでいる。
    映画による対象化が、不断に進行してるヨーロッパ化の結果。

    運命の知らせを告げるのが解釈学的。運命の知らせを聴き取ることが出来る範囲で、その聴き取ったものを明るみに出して伝えるのが詩人。
    現前しているものと現前するということとの二者が一体であることに基づく二重構造が存在(有)そのもの。
    人間がこの二重構造に関わるとき、そこで支配的な支える力となっているのが言葉。
    すべて現前しているものはみな表象作用の対象になりきっている。
    ギリシア人がは現象そのものを経験しかつ思考した。彼らは現前してくるものに対象性の刻印を捺す事など思いも寄らなかった。
    彼らにとって現象とは輝きながら立ち現れることだった。
    今日のヨーロッパの思考にお課せられているのは、ギリシア的に考えられたものを、より一層ギリシア的に考えること。
    芸術作品は最初から感受と表象の対象となってしまう。対象となりきったときにのみ、作品は展覧会に飾られたり、美術館で展示されたりするようなものになる。

    いき=優美だという感覚を与えるもの
    いき=光り輝く恍惚の静寂が風のごとく吹きそよぐこと
    Spracheに相当する日本語はこと ば
    ばとは葉か花びら、こととは、優美がみずから明らかになりつつ伝える知らせが生起すること。
    こと、すなわち何かを作り出す慈しみ、みずから明るくなりつつ伝える知らせの生起。
    言葉とはことに由来する花びら。
    「言(Sage)とは人間の語る活動ではなく、本当にあり続けるものに対する名」

    しかし問う人は、言(Sage)の本質の所在する場所を明らかにすることが出来るかもしれないが、余り多くは語りたくない。
    秘密の純粋な源泉を守ることが一番難しい。
    言葉に「ついて」語れば、言葉をひとつの対象としてしまうことは避けられない。
    そうなると言葉の本質は消えうせてしまう。
    言葉からの呼びかけに応答するように言うところに到達することが、最優先の課題。
    応答としては対話しかないが、全く独特の種類の対話であることは明白。
    対話の種類が決まってくるのは、唯一の語り手であるように思われる人間が、どこから語りかえられているのかによる。
    その対話は言葉に「ついて」の対話ではなく、言葉によって促され、つまり言葉の本質に用いられて言ったもの。

    言葉の本質とは、知らせと知らせを伝える使者の歩みとの匿れた関わりが、戯れ合って正気を与えている。
    言葉の本質とは、ことば すなわち花びら、この花びらは慈しみが輝きながら贈ってくれる知らせから花開いている。


    言葉とは花である。また贈られるという思索。

    ▼『言葉の本質』(1957/1958年の三度の講演が元、シュテファン・ゲオルゲの詩の解読)

    言葉を経験するとはどういうことか。それは言葉からの呼びかけに応え、それに従いつつ、その要求に関わって行くことになる。
    詩人は自らが言葉について得た経験を、言葉にまでもたらさざるを得ない、という境地にまで達することが出来る。
    ゲオルゲの『語』という詩を手がかりに、名づけるとは呼びかけとは近さとはどういうことか、辿って行く。
    言とは示すこと、立ち現させること、光を与えつつ自らは身を隠し、しかも解放して自由を与えるという形で世界をここに到来させる。
    「近さ」の意味、や時が熟する(脱自態の三つの地平の統一)など『存在と時間』に繋がって行きます。

    ゲオルゲは女神に宝珠、すなわち語のために語を与えるよう乞う。しかし運命の女神は「しかし この深き水底には 何も眠ってはおりませぬ」と知らせる。
    語に対応する語はそこでは決して見出せなし得ない。そことは運命が有るもののために、名づけつつ築き建てる言語を贈り、その結果有るものが有るようになり、
    有るものとして輝き、花開くようになるところ。

    「事物がこのように、互いに相対し向かい合っていることを、そのあるがままに経験するためには、我々は言うまでもなく、
    計量的なものの考え方を放逐しなくてはいけません」
    技術的・計算的な測量では近さは分からない。天と地、神と人という四方界を動かし道をつけ、互いに委ね合わせ、その領域が互いに遠く離れているにも
    拘らず近づけているもの、それが近さそのもの。

    「言葉とは口に咲く花であります。言語において、大地は天の華に向かいつつ花開くのです」
    口は人間の身体における一種の器官にすぎないのではなく、身体も口もともに、大地の流れと成長の中に帰属している。
    この流れや成長の中で私たち死すべきものは栄え、この大地から私たちは土着性という確固不動の基盤を受け取っている。
    空間や時間をパラメーターとして考えると、近さをもたらすことも測定することも出来ない。
    時間空間のパラメーターは全ての表象活動、製造活動、近代の技術的な世界のパラメーターとしてすべての活動に対し不気味な仕方で介入する。
    近さの支配、四方界の近づけにも影響を及ぼし、それぞれの隔たりが計算しつくされ、どんなものでも容易に数値計算で捉えられるようになる。
    それは隔たりの欠如を意味する。
    時間とは今の連続ではなく、時として熟する。熟するとは成熟して立ち現させる(『存在と時間』の既在・現在・将来の三つの脱自態の地平の統一としての、存在の意味としての時間)

    「語の欠けるところ、ものあるべくもなし」ゲオルゲ『語』

    詩においても思索するのに値するものが残っている。思索するのに相応しいものとは「ものが有る、とは一体何か」ということ。


    存在(有)を賜物として与える運命の登場。
    私たちが言葉を経験するためにはどうしてもパラメーターとしての技術的計算を放棄しなければならない。

    ▼『語』(1958年の講演が元、シュテファン・ゲオルゲの詩の解読)

    ゲオルゲに齎されたもの、夢の中で訪れて来たもの、こういうものに対する名が求められている。
    言い表すためには名がいる。名というものによって、既に有るもの、有ると思われるものは、手に触れることの出来る確実なものとされ、
    その結果ずっと輝き、花と栄え、くにのどこへ行っても美しいものとして君臨する。
    ゲオルゲの詩を読み解くと、語とは、脳裏に思い浮かべられたそこにあるものを、名を与えつつ掴み取るだけのものではなく、より高次の支配力を見せるようになる。
    語とは何らかのものが有るものとして現れてくる場としての有を与えるもの。
    言についての揺るぎなき自信が根底から震撼される瞬間に、突如として詩人を襲う、これが経験(学び取ったもの)。
    詩人は歌によって、自分の住んでいた領域から、学び取った諦めの中へ向かう。
    詩人は言葉の秘密に対応して語らなくてはならない。この対応が上手くいくのは詩作の言葉が歌の響きで鳴り渡るときのみ。

    「そこで 私は悲しくも諦めを学び取った:
    語の欠けるところ、ものあるべくもなし」

    諦めることは断念することであり、何らかの要求を断念しあえて求めないこと。
    「自らに対して要求を断念する」から「この要求に対して自らを拒む」
    詩人が断念すべきものとは、表象という思考形式において語が支配するようになれ、という要求。
    断念は拒絶のように思われるが、言葉の秘密に対して断念しないこと、ということになる。
    この自らを拒ませない語りはたった一つ「それ有るべし」。
    詩人が転換してからは、「ものをものとして有らしめることとしての語有るべし」となる。
    こういう秘密にとっては、語は欠けている。
    詩人の国が決して手に入れることのない宝とは、言葉の本質である。
    豊で可憐な宝珠とは、語が隠れたままあり続けることだが眼に映ずることはない。
    がすでに語られざるものにおいて、ものをものとして我々に贈って差し出してくれえる。
    このようなものほど考える価値のあるものが何かあるだろうか。実際古来から思索されていた。
    このように考えられた語の支配力を表す最古の語は「ロゴス」。


    言葉とは存在(有)であり、言葉を経験するとは存在と経験することでしょうか。私たちは存在に襲われる必要がある。

    ▼『言葉への道』(1959年の講演)

    「言」
    我々は言葉を用いる。用いているのだから今更言葉へと通じる道など辿る必要があるのだろうか。しかし我々は、言葉だけに固有のものに聴き入り、言葉の中に住み着いているのだろうか。

    言葉の公式:言葉を言葉として言葉へともたらす

    この公式は錯綜しているが、この錯綜しているものを束ねる一筋の糸がある。
    この糸は常に我々には理解しがたい仕方で言葉を解き放ち、言葉独自のもののうちへと連れて行く。この筋目を我々が経験することが大切。

    我々は言葉を語る。語るとは示すこと、示すこととは、覆いを取って素顔をみせたり何かを顕現させること。
    顕現させることは、そこに立ち現れたものを人間に見えさせ確認させること。
    言葉を言葉として考えようとすれば、我々は今まで言葉を考察する際通常なされていたやり方を放擲しなければならない(エネルギー、活動性、精神の力、世界の見方、表現)
    言葉というものの統一性は「引き裂いて内部を露にする立面図」と呼べる。
    耕地を引き裂き畝を作ることは、耕地が種子を保護し、成長を守ることが出来るようにする。

    「本当に言う(sagen)」と「語る」の違い。「言う」とは示す、現れさせる。
    言葉を語るという活動は、言う活動をするときに初めて言葉という立面図の構図の中に入っていく。
    この言う働きのもつ関連性を注視しつつ、全体として考えた言葉というものを言(die sage)と呼ぶが、ここまで考えても様々な関連性を統一して束ねているものは見えてこない。

    語るということは、同時に聴くことなのではなく、それ以前にまず聴くことである。
    我々は言葉というものを語っているばかりでなく、言語に基づいて語っている。
    こんなことが可能となるのは、我々がすでに言葉に対して耳を傾けて聴いたという事情による。
    では何を聴くのか、言葉が語るのを聴くのである。
    言葉は言うことにより、つまり示すことによって、言葉としての活動を行う。
    言葉に耳を傾けることが語ることだが、そこで我々は聴いた言の後を追って、言うようになる。
    我々は言なるものの音なき声を到来させるが、その際音声の出番を求め、声に働きかけて声を呼び出そうとするわけである。
    「言葉とは言である」と言える。

    この結論で我々は言葉への道の目的地に辿り着いたのだろうか。いや、まだ言葉への道の前に佇んでいるだけである。
    では道とは何か。道とは到来させるもの。我々が言に耳をかすときにのみ限って、我々を言葉の語りだす活動にまで到達させてくれるのは、まさに言。
    言葉の活動に通じる道は言葉そのものの中に現前していた。道とは言としての言葉。
    言は、現れ出てくるものすべてを多様な形を取る示し方に凝集してまとめてしまうが、示すということは示されたものを何処へいっても身近なところに留まらせておく。
    (開けた明るみ)

    「生起」
    ではこの示すという活動はどこから生まれてくるのか。
    言の示す働きを語りの中で生き生きと動かしているものは

    ・日と夜との交替が行われるようになったあの最初の日の朝まだき、とでもいうもの
    ・最も早いものであると同時に最も最古のもの
    ・もはや論究の許されないもの
    ・すべての場所に通じる場所そのもの
    ・時とさまざまな空間とが戯れ合うところ

    ・言の示すという働きの中で動いているものは固有の性質をおのがものとすることである

    これが生起(Ereignis)

    生起は、固有の性質を発揮させる。現にあるもの、今は不在のものをそれぞれ固有のものへともたらし、その固有のものの性質に応じた仕方で留まる。
    生起は、開けた明るみという開豁なところを生み出し与える。
    生起は、何か別のものから生じた成果ではなく、与えて得られたもの。
    存在(有)といえども、現前するものとなってその本来の姿を得るためには、この与えてあらせることを必要とする。(存在を賜物として与える運命)
    死すべきものである人間は生涯を通じて、この生起の中に行き続ける。
    生起は、人間にその本質を維持することのできる居場所を与えてくれるもの。だからこそ人間は言葉を用いる者としてあることができる。
    「存在(有)」がただちに生起であるという意見に陥らないようにしなければならない。生起は本質的に別のものである。

    「存在は生起から考えられる」

    道を拓いて動かすことが、言葉(言葉というもの)を言葉(言)として言葉(音声となって響く言葉)へともたらす

    言葉へ通じる道は本来の道になった。言葉というものは示すという活動をする言であり、言葉の根底は生起の中にある。

    「集-立(Ge-Stell)」
    近代技術の本質をよくみれば生起を経験できる。
    集-立は人間に要求を突きつけ挑んで誘い現に存在しているものすべてを技術の素材として処理する。
    この処理し処分することは、計量的思考に陥ってしまわざるを得ない。集-立は言葉を用いるも、集-立の言葉を喋ることになるので、生起を歪ませてしまう。
    語るという活動は現に存在しているものをどう処分するか、あらゆる方向に向かって、この問いに応答することを挑まれる。

    「それが歌となる」
    人間の言葉はどんな言葉でも言の中で生起してくるもの、人間に送り届けられて相応しくなってものであり、巧みに作られたものであり、運命に適合するものとも言える。
    言というのは、生起が口を聴く流儀であり、流儀とは歌とか旋律とかいう意味で、この歌こそ歌いながら語るもの。
    なぜなら、生起してくる言は、現前しているものをその独自の性質に基づいて、輝かせて眼に映ずるようにしてくれて、それが歌となるからである。

    「しかし間もなく 我らは歌となる」(ヘルダーリン「平和の祭り」)


    言葉から言へ、言から生起へ。道とは言としての言葉であり、言葉の根底は生起の中にある。道を拓いて動かすことが、言葉というものを言として、音声となって響く言葉へともたらし、歌となって花開き、くにのどこにいても美しいものとして君臨する。存在(有)は運命が与えるものとして消えてしまったのでしょうか。
    ハイデガーの重要な思索の道筋「生起」がコンパクトにまとまっていて、生起について知りたいならお勧めだと思います。

  • トラークル

    森のきわに音もなく
    暗き野獣立ち現われ
    丘辺に静かに夕べの風たゆ

    ゴットフリートベン

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