- Amazon.co.jp ・本 (182ページ)
- / ISBN・EAN: 9784469213423
作品紹介・あらすじ
東京工業大学と東京農工大学で大人気の講義を一挙公開。論理から理論へ。脳内文法のモデルづくりから物の考え方を学ぶ。
感想・レビュー・書評
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人類共通の「脳内にある言語計算機」のことがわかる本。おまけに、科学的に理論を導く手法も学ぶことができる。
言語の「お勉強」をする度、そんなものあるのかいなと、眉に唾を付けたくなったのが生成文法だった。でも、この本ので、ああこのことかと、腑に落ちた。
回り道のようでも先に深く学ぶことが、案外、理解や実践への近道になることを体感した。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
ことば
思索 -
「ったりする」という表現のクセをお持ちの著者が,X’理論をコンパクトにまとめた本。論理に疎い人でもこれを読めば,目に見える差異ばかりに囚われるよりも,背後の共通性を暴く方が面白いことに気づくと思います。科学は差を見るのではなく,同一性を見抜くのです。なぞかけではその同一性を「ココロ」というのですが,ココロを名乗る学問は,条件間の差,個人差など「差」ばかりを扱っていますが,これの意味するところは…。
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教育というのは,本来,知識を教えることにそのねらいがあるのではなく,知恵をつけさせることにそのねらいがある。つまり,問題の解(答え)を教えることではなく,問題の解決法を教えるということに教育の本質がある。そして,そのためには,「あまり教えない」ということが何よりも重要だったりする。つまり,教えない教育をすることによって,はじめて子どもは知恵を身につけることができるのである。その意味でも,「何を教えるかより何を教えないか」が教育では何よりも重要だったりする。(p.iii)
しかし,悲しいことに,今日の教育では,すぐに問題の解を教えてやったり,あれもこれもと教えてやったり,しかも,教師は何を教えたらいいかそればかりを考えていたりする。知恵のない子どもを大量生産させようとしているのが現代の教育ともいえよう。そして,教育を受けさせれば受けさせるほど子どもがバカになりかねないのが今日の日本の教育でもあったりする。
知恵のない子どもを大量生産させること,これは教育者の本望ではないし,それに国益に反することでもある。物を考える力のある,まさに知恵のある若者を社会に送り出すこと,これこそが教育であり教育者のすべきことである。が,これを理解していない自称教育者があまりに多すぎる。(pp.iii-iv)
民主主義とは,国民のレベル次第では,愚衆政治を保証する最悪の政治システムであり,民度が低く知恵のない人たちがいるところでは,民主主義は,まさに,最悪の社会形態であったりする。民主主義は諸刃の剣であり,民主主義は性善説に基づく究極の理想主義でもある。(p.iv)
なるほど,科学的な物の考え方を学ぶには,自然科学の諸学問や数学を学べばよいことはわかった。でも,自然科学の学問である生物学や化学,それに物理学を使って,科学的思考法をおいそれと教えることができるかということ,これが,言うは易く行うは難しでなかなか難しかったりする。教える側にしても,自分で理論(つまりモデル)をつくったことがある人ならともかく,そうでなければ,そもそも科学的に考えるとはどういうことなのか理解できていなかったりするからだ。(p.v)
読者の皆さんには意外と思われるかもしれないが,(日本のトップクラスの)理工系の学生でも「科学とは何か」について,そして「科学的思考法とはいかなるものか」について知らなかったりする。なぜ優秀な理工系の学生でも科学的思考法について知らないかというと,高校でやるニュートン力学のf=maといったものにしても,できあいの方程式を教室で教えてもらうだけで,その式がいかにしてつくられたのか,そのプロセスまではなかなか教えてもらうことがないからだ。
また,大学の教養科目で科学哲学を教えてもらうにしても,哲学を教えている教員が実際に理論をつくったことがないこともあり,哲学をやっている教員が教える「科学的方法論」なるものは,こんなことをいうのも何だが,地に足の付いていない理念だけの「空論」であったりする。つまり,現場を知らない単なる知識としての「科学的方法論」でしかなかったりするのだ。(p.vii)
「論より証拠」といった諺があるが,これはウソである。正しくは「証拠より論」である。証拠(というかデータ)といったものはいかようにも解釈でき,実は,証拠が一番当てにならなかったりする。その一方,論(というかロジック)には正しいロジックと正しくないロジックの2つしかなく,ロジックに解釈の入る余地はない。理論系の学問では,とくに,論理がすべてだったりする。「論より証拠」というのは,文系チックな子どもの世界でしか通用しないものだと思っておいた方がよい。(pp.23-24)
統語論の内部にどっぷり浸かった状態で何か新しいことをしようと思っても今の時代無理であろう。同じことが意味論にもいえる。今日,新しい研究テーマを見つけようと思ったら,統語論と意味論がせめぎ合うインタフェイスを探らないとクリエイティブ(かつユニーク)な仕事はできないであろう。複雑系に「カオスの縁」ということばがあるが,秩序(統語論)と混沌(意味論)のインタフェイス(カオスの縁)にこそ新しいアイデアが創発されるチャンスがあるといえる。海流と海流がぶつかる潮境はよい漁業[漁場?]となることでよく知られている。今の時代,潮境としてのインタフェイスの研究なしに新しい研究テーマを見つけることはほとんど不可能といえる。形式(統語)と機能(意味)のインタラクションの研究こそが次世代の理論言語学のあるべき姿だといえよう。(p.41)
位相幾何学に対して微分幾何学があるが,微分幾何学と位相幾何学の関係は,生成文法(というか形式意味論)と認知言語学の関係に似ている。理論言語学におけるポアンカレ予想がどういったものになるのかは見当もつかないが,言語学の世界にもペレルマンのような真の天才が現れ,認知言語学的な問題を生成文法(というか形式意味論)的なアプローチで解明してくれるのを期待するばかりである。(p.42)
基礎研究のさらなる基礎となる研究をすること,そこにこそ科学の存在意義があるのだ。(p.71)
科学とは,バラバラのものをバラバラなものとして捉えることではなく,バラバラなものの背後にある共通項を捕まえることである。一見するとバラバラのように見えるけど必ずや何か共通するものがあるはずだ――そういった着たいというか信念というか希望というか仮説のもと,力ずくで共通項を暴き出す知的な作業,それが科学であるともいえる。(p.73)
モデル(つまり理論)づくりをするにあたっては,目の上のたんこぶ(というかそういったノイズ的なもの)はとりあえず脇に置いておき,都合のいいデータだけでまずはモデルをつくってしまうのだ。そして,ある程度しっかりモデルができたところで,脇に置いたノイズもモデルにうまく取り込めないか考えてみるのだ。これがモデルをつくる上での鉄則である。そして,このようなデータの仕分けこそがモデルづくりでは何よりも大事だったりする。(p.74)
科学とは,理論(すなわちモデル)をつくることであり,そのつくった理論でもっていろんな現象を記述ではなく説明することである。理論とは仮説の集合体であり,その仮説を相互作用させることによって諸々の現象を説明していくこと,それが科学のアプローチである。そして,このプロセスこそが科学的思考法の根幹であり,科学による説明方法の基本でもある。(p.151) -
理論言語学を例にとって、科学的思考法とはどんなものかを学べる本、という本。らしいんだけど、全然、分からなかった。事例を観察して共通する性質を抽出してモデルを作り、それを検証する。それがこの本で言うところの「科学的思考法」らしいんだけど、それが実例を見せられてもよく分からない。モデルが妥当であるかを検討するところなんか、単に循環してるだけ(モデルを提案した人が恣意的に選んだ例でモデルが確かに当てはまるとか言われてもねぇ)のようにも見えるし、こっちは言語学なんて全然シロウトだから、いきなり導入される用語とか考え方の妥当性も評価できないし。読者がこの本を読んで科学的思考法を獲得できるという見通しについて、著者は科学的に思考して「OK!」って結論したのか知らん?私が特別に頭悪くてモデルに従わない例外だったの?
文法っていうのは、この本にも書いてあるけど話者には意識されない部分がある。それと同じように、科学的思考法についても意識されずにやってるものがあって、それを明らかにしてくれるような本なのかなー、って勝手に想像してたんだけれど、全然違った。
一番印象に残ったところ。163頁「ないことは立証できないので断定口調で書くことはできないが、でも、99%の確率でないと思う。」有意水準何%ですかそれ?