- Amazon.co.jp ・本 (308ページ)
- / ISBN・EAN: 9784469240931
感想・レビュー・書評
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英語学の大家による日英語対照言語学的研究。ただ日本語文法についての記述がだいぶ多めなので、著者が日本語文法について考察している部分が多い。言語学や日本語学についてあらかじめ勉強していないと、「補文標識」「総記と叙述」とか、ちょっと難しいと思う。語彙、語順、文構造、音韻体系、主語と主題、テンスとアスペクト、あたりは言語の内的な部分だが、それに加えて文字体系、ダイクシス、社会言語学と翻訳、というより外面的なところまで、さらに最後は「個の論理と集団の論理」という文化面にまで考察が及び、著者の日本語学についての集大成、という感じなのだろうか。
ずーっと本棚に眠っていた本なので、とりあえず今回通読できたのは今年の成果だった。けど、ただただ日本語が難しい、という印象だけを持って終わってしまった。以下に印象に残った分かりやすい部分だけメモ。まず色んな言語の色彩語彙について、white / black → red → grue / yellow → green / blue → brown → purple / pink / orange / gray (p.40) というgrueの概念は納得した、というかこういう解決策があるのね、っていう感じだった。で日本語の青が緑を包摂するのは有名だけど、孫引きになってしまうけど「さらに、アオは、かつてはyellowをも含んでいたらしいふしがある。柴田(1965)によれば、現在でもいくつかの方言で『菜の花がアオイ』と言う由である。」(p.44)というのは驚き。あと英語は例えばJohn may have been being examined by the doctor.(p.71)で、法、完了、進行、受け身で並ぶ、というのは教えるけど、じゃあ日本語の場合はどうか、という話で、「勉強させられ続けたくなかったろう」まで並べられる(p.72)は面白い。さらに「尊敬」を加えた「させられなさり続けたくなかったようだ」 の文には?が付いている。させられ続けたくなかっただろう、ってなんて英語で言うんだろう?may not have been being studied?あと最近、他動詞・自動詞を教えて、enterが他動詞だから〜みたいな話をしたけど、「英語のenterは(略)元来は存在した前置詞のinの削除によって生じた”擬似他動詞”と考えられる。」(p.79)そうだ。自明の目的語を省略して自動詞化、というのはあると思うけど、前置詞を省略して他動詞化、ってそういうのもあるんだ、と思った。それから「カルメンをナイフで刺した」は自然だけど、「カルメンにナイフを刺した」が不自然になるのはなぜか(p.80)というのも面白い。けど「心臓にナイフを刺す」の表現は不自然、と書いてあるが、そんなに不自然じゃないような??あと英語の音声のアクセントがどこにあるかないか、という話で「終わりから2番目」、「終わりから3番目」の音節、と言うとき、英語でpenultimateとかantepenultimate (p.121)というらしい。知らなかった。やっぱり英語で本を読んでないから馴染みがないのかな。それから分綴の話まで書いてあるのが面白いが、「英語圏では、印刷会社には分綴り専門の人員がおり、社長や主任教授などの秘書嬢は小辞典をハンドブックに忍ばせているのが普通である。」(p.130)というのは、時代もあるのかもしれないけど少なくともそんな辞典があったというのが驚き。あとは「let’sの語彙化」(p.237)かな。Let’s you and me go to the show tonight.とか、Let’s us go to...みたいな言い方があるらしい。
あとは本質ではないのだけど、これが書かれたのが1986年という、もう40年くらい前の当時の日本の様子、いわゆる「識者」の意識、というのを知るのが面白い。あまりに今の時代と違い過ぎて。「集団の論理と個の論理」とか、特に今の日本と違い過ぎて。「若い世代に愛読されている赤川次郎の作品」(p.131)とか、「『感じ』、『今風』などよりも、『フィーリング』、『ナウい』のほうが手垢がついていない。ゆえに、新鮮である、いやむしろ『フレッシュ』である。」(p.133)とか、その周辺の当時のファッション雑誌の記述についてとかはまだ笑えるとしても、上で引用した秘書「嬢」とか、「最近の日本の中学・高校では、厳しい校則を設けて、(略)丸刈りを一斉に強制する学校も決して少数ではない。」(pp.276-7)とか、「中国語に、日本の仮名のような、純粋な表音文字がないことが、中国の近代化の足かせになるのではないか」(p.127)とか、なんかデリケートな話題で、ちょっと笑うという感じにはなれない。でもこれが40年前の状況だから、今の日本だって40年経ったらどうなってるんだろうか。一回りして40年前に戻ったりして。あとこれだけ言語学に精通している人でも、「英語などのインドヨーロッパ語を話すときには、できれば音程を1オクターブ下げて『胸声』(chest voice)を出すことを練習しておく必要がある。」(p.125)とか、そんなこと言うんだ、というのが意外なところだった。
言語の内部のところについては結構難しく、もう少し日本語について勉強してから読めたら良かったかなあと思う。(23/12/25)詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
言語の比較って本当におもしろい。言語ってあまりにも身近で当たり前の存在すぎて、言語そのもののことを概念的に理解しようとする機会ってあんまりない。でもそれぞれの言語はそれぞれのネイティブにしか理解し得ない概念があり、そもそも概念っていうものは言語化されているからこそ普遍的に当てはめられる一つの枠組みになっているのに過ぎず、自己と世界とを区切るひとつの手段、学術的に言ってみるならば記号的なアプローチ、が我々の「ことば」なんですねー。中学英語とか教えていると英訳問題なんかでこの日本語とこの英語はかなり言い回し違うけどまあ雰囲気的にはだいたい同じなのか…みたいな模範解答があったりするし、品詞だけとっても英語ではbe動詞が助詞と助動詞の役割を担ってたりする。世界中数多ある言語それぞれが世界を認識するために別々に色々な機能を携えていったと思うと本当に言語学ってブラックホール!どこかの民族に3までしか数字を数えられない言葉とかあったけどもはや我々には理解のできない領域。
この本を読むと、日本語と英語っていうネイティブ日本人にとって一番身近であろう二つの言語からそれをうっすら感じ取れる。そしてこの本を読めば読むほど(もしかしたら影響を受けたのは本の内容でなく教授の戯言だったかもしれないけど)、日本語って本当にとっぴな文が多いな、と思うこととなる