鏡のなかの日本語―その思考の種々相 (ちくまライブラリー 22)

著者 :
  • 筑摩書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (242ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480051226

作品紹介・あらすじ

日本語のなかに集約されている日本人の感じ方、考え方、価値観を掘り起こし探究する、真に思索的な哲学エッセイ。

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  • 日本文化論。もともとフランス語で発表していた論文を和訳して収録するという、翻訳の往復運動の結果としてできている。題名の通り、一度外部の視点を通して見た日本語ということになる。具体的な言葉の意味を巡って論を展開しているものから、もっと抽象的な時間論のレベルで論じているものなどを含め、ゆるかやに三部構成を取っている(p.12-15)。こうした言葉を通した日本文化の追究は、たをやめぶりを取り出すことにあるのだと著者は言う。

    「私はどういうことなのか、自分自身の深層心理はわかりませんけれども、たをやめぶりというものに対して一貫して、ある共感を感じてきたのです。私がひたすら黙々としてやまとことばを救い出すことを心がけてきたのは、文化論的な意図としては、明治以降の日本文化が置き忘れてきたたをやめぶり、かつて平安から少なくとも室町くらいまでは有力な立場であり続けたたをやめぶりを自分なりに擁護してみたい、もう一度生き返らせてみたいというようなねらいがある。そういうひとつの戦略的な意図の裏打ちもあることなのです。」(p.23f)

    例えば「ふれる」という言葉を巡る、宗教的次元の話は他の論考にもある。だがここに収録されているものは、一度フランス語として発表されたものであるためか、とても論理がすっきりしていて読みやすい。とはいえすべてがそうであるわけではない。象徴的主体を巡る論考などは、ソシュールやヤコブソンなど20世紀前半の言語を巡るフランス思想に馴染みがないので、結局よく分からなかった。

    結局、こうした言葉の語源をネタにして概念的布置を展開しようとするこうした著者の方法論自体がやはりよく馴染めない。語源については『岩波古語辞典』をほぼ引き受けるときがある。だが、例えば著者が以下のように語源の一般的解釈に反対する時、これは何をしているのだろうか。

    「ところで、ときに、<もどき>の語は、<もどる>と語根をおなじくする、あるいは、それは、<もどる>の他動詞形にほかならないといわれる。あるいは、また、<もどき>は、<もどり-説く>を意味するといわれることもある。わたくしの考えによれば、しかしながら、<もどき>の語源ないしより適切にいえば元来の構成成分としては、むしろ<もと>を想定し、その上で<もとーどき>、<もとー説き>を考えるほうが、はるかに事態に即しているとおもわれる。というのも、われわれがすでに見たように、<誹謗する>、<ひるがえって批判する>の意味は、この語にとって派生的なものにすぎないからである。」(p.90)

    ここには、いかなる根拠で<もどき>と<もどる>の語根が同じだと考えられているのかについての批判検討がない。また、いかに<誹謗する>という意味が現在の我々にとって派生的なものに思われようと、それは歴史的な事実の担保とはならない。派生的な意味のほうが主たる意味として取って代わることなどいくらでも想定できる。この議論で必要なのは、<誹謗する>という意味で使われる<もどき>の用法がそうでない用法よりも先んじているという歴史的証拠であって、現代の我々がする派生的だという概念連関の議論ではない。

    また、「行ってきます」という挨拶に関して、日本語の挨拶ではこれを「行って帰ります」とは絶対に言わないと著者は記す(p.209)。だがそれは単に著者が知らないだけで、方言で「行って帰る」と表現する例はある。その方言話者にとっては極めて自然な言い回しなのだ。つまりこうした判断は著者の主観的な言語感覚に依拠していて、何らかの客観的な調査結果に依拠しているわけではない。もしそれは方言だ、と反論するなら、とたんに<標準的>日本語とはなにか、<規範的>日本人なるものがあるのか、しかも通時的に(!)といった大問題に巻き込まれよう。著者は大和言葉にこだわることは、それこそが本来的日本を表すとかいった閉鎖的な考えはないと述べている(p.24f)。だが著者の取っている方法論は、そうしたものを裏口から招き入れる可能性が見える。私にはこうした論じ方には恣意的なものが入り込み、議論の信頼性が損なわれるように見えてならない。

    著者が著者なりの概念的布置を論じたり、例えば折口信夫や和辻哲郎の思考において概念連関を明らかにするのならよい。そうならば、語源的探索などしなければよい。論じられているのは現在の我々が共有しうる概念連関の解明なのだから。そうしたものを超えた議論を語源的探索によって可能としようとする、例えば奈良時代にも遡るような語源の探索の後、日本文化論として提出するのは危うい。平安時代、室町時代、そして現代の<日本人>の思考が違っていることには何の違和感もない。現代に至っては、通時的な連続性より共時的な連続性のほうが強いだろう(現代の我々からすれば、平安時代の日本人より現代のヨーロッパ人のほうが意思疎通できよう)。語源を通じて過去を召喚することによって、現在の我々にも残存する<本来>や<元々>の思考を蘇らせるのだろうか?しかも個人的な言語感覚に基づいた、自らの名で?それは亡霊以外の何ものでもない。

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