人が人を罰するということ ――自由と責任の哲学入門 (ちくま新書 1768)
- 筑摩書房 (2023年12月7日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (272ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480075956
作品紹介・あらすじ
人間は自由意志をもつのか。私たちが互いを責めたり罰することに意味はあるか。刑罰や責任をめぐって〈人間として生きること〉を根底から問う哲学的探究。
感想・レビュー・書評
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人は自由意志を持ち、過ちを犯した者は咎められ、罰される。それが共同体における基本ルールと考えられていた。
一方で、自由の存在を否定し、刑罰は無意味だとする神経学者や社会倫理学者の立場もある。
はたして、人間とは自由な選択主体なのか。人が人を罰する事に意味はあるのか。
人を「責める事」及び「罰する事」に主題を置いた自由と責任に関する哲学書です。
刑罰の意味からはじまり、人間の自由意志否定論、責任虚構論などを紹介・解説したうえで、その矛盾や盲点を解説するという内容になっています。
「責める事」「罰する事」は人間の生のフレームワークに含まれているという結論を聞くと、優しく穏やかな世界というものが訪れる事は永遠になさそうだと、作者さんが言うように地球の行く末についてペシミスティックになりそう。
けれど、それを法なり理性なりで抑制し、是正し、許すことが出来るのもまた人間かなあ。
内容はちょっと難しい……んですが、どの章でも、まず1節目で前章までの要約や議論の要点、その章の流れや結論を先に説明してから本題に入るので、主題が分かりやすくて助かりました。
ちなみに、作中の「応報」の説明ににシーラッハの『犯罪』『罪悪』の中の事件が例として取り上げられているので、あわせて読むのもお勧めです。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
著者は。1罰するということについて、2責任論について、3結論と、パートを大きく3つに分けて論じている。
1では理論的に罰というものを語り、2においては、実験から導かれる自由意志の否定に対し、罰を受けるべき責任について論じる。
結論では、自由意志を否定する人たちの矛盾をつきながら、結局「人間はそのようにできている」といった定言命法的(?)な話で締める。
ちょっと弱いかなと思いつつも、人がコミュニティを形成して生きてゆくものだとしたら、ルールは必須となるし、罰が不要なら賞も不要でしょとなるし、最終的にはそのような結論になりそうです。 -
割と読みやすく、丁寧に書かれていた。「人間の性の一般的な枠組み」として、論証をそもそも求めないという態度について、私にとっては新鮮なのでまだ理解しきれていない部分がある。直観として大いに同意しうるが、果たして素朴に同意していいのか、困惑しているというのが正しい。ストローソンについてもう少し踏み込んで理解したくなった。
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東2法経図・6F開架:B1/7/1768/K
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人が人を罰するということ ――自由と責任の哲学入門。山口 尚先生の著書。人が人を罰するということはどういうこと?人が人を罰する資格は本当にあるの?仕事として人を罰するということをしている人はいるけれどそれは本当に正しいこと?人間は間違うもの。間違うことがない人間なんて人間ではない。同じ間違うものであるはずなのに人が人を罰するということは矛盾するのかな。仕事として人を罰するということをして人が間違えたら他の人よりも厳しく処罰されないとおかしいのかな。考えさせられる一冊。
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【配架場所、貸出状況はこちらから確認できます】
https://libipu.iwate-pu.ac.jp/opac/volume/570782 -
責めることと罰すること:刑罰・罰一般 ピーター・ストローソンー責任論と刑罰論 準備→問題提起→問題解決 応報と抑止:刑罰の意味の多元主義 抑止効果 正義のバランス 追放の機能・社会からの排除 古代中国・肉刑 祝祭・見せもの・供犠・訓練 パノプティコン 応報のロジック;行為・責任・主体・選択・自由 自由否定論 脳の神経活動と意識的意図 見せかけの心的因果 責任虚構論 ミルグラム実験 変転する虚構 人間は自由な選択主体:生の一般的枠組み 自由の否定の自己矛盾 自由と責任の哲学 反応的態度 道徳的要求・期待