- Amazon.co.jp ・本 (250ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480089496
感想・レビュー・書評
-
第54回アワヒニビブリオバトル「選ぶ」で発表された本です。
20197.02詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
何か賞を取っている本.仏教系の本の中ではとても読みやすい.
-
学校の図書館にあって気になってはおりました。卒業後古本屋で見かけて購入。本日読了です。
確かにこの本は「法然上人の教えがそれ以前の日本仏教とどう違うのか」を解説しても、います。ただし、これくらいのことを知りたいのなら、他の多くの浄土教関連の解説書で十分事足りるわけです。
この本のすごいところは、もっと広げて「法然上人の教えが日本でのこれまでの宗教意識とどう違うのか」を示している点です。日本仏教史のみならず、日本宗教史、日本思想史の中においても、いかに法然上人の教えがラディカルであったのかを解説しています。読んで初っ端でいきなり、法然上人についての話のはずなのに沖縄の琉球弧の話から始まる辺りは非常に意表を突かれましたけれども、要するに対比させているわけなんですね。日本古来の宗教観(を今に伝える琉球弧)と法然上人の教えを対比させることで、「専修念仏」の教えが日本で誕生するということが如何に日本において画期的、革新的であったのかを示しているわけですね。
そして、法然上人滅後、そのラディカルさがどのように後世に伝わったか、あるいは変容し、あるいは忘れ去られたのかも書かれています。その中で、一遍上人のような「念仏聖」の教えとの違い、いわゆる「葬式仏教」との関係、あるいは「神祇不拝」の考え方にも触れられています。
この本を通して、私は本願念仏の歴史に関する多くの認識の甘さを訂正させられたようにも思います。本願念仏の教えを被る者として、何を歴史に尋ねていくべきか、また現代において何を伝えていくべきか、それらのことについて再考を迫る良い機縁になったように思います。繰り返し読んでいきたい本です。 -
浄土宗の開祖、法然について。その思想が持つ同時代や伝統への影響と断絶を語る。著者の問題意識に沿って自由に論が展開されるような趣もあるが、全体として統一を保っていて読みやすい。スタイルとしては学術的というよりは随想的なもの。
著者は冒頭から、氏神・祖先信仰を支える仏教(現代では葬式仏教にこの役割が見られる)と、自らの魂の救済を目的とする「自家用の」仏教を区別する。そして典型的には後者のみに限定された法然の思想が、前者の伝統的・社会的・制度的仏教とどのようなかかわりを持てるのかについて考察する。法然によれば、極楽浄土への往生に必要なのはただ阿弥陀仏の誓いを信じ念仏を唱えるだけだ。苦行、出家、寄進といった行為は必要ではないどころか、雑行として排除されている。自らの決定により阿弥陀仏への信仰を持つこの思想は、地域の神、国家権力、伝統にも縛られない自律したものであり、著者はここに法然の衝撃を見ている(p.93, 100, 179, 235f)。法然にとっては鎮護国家に代表される仏教の伝統や、本地垂迹説を初めとする神仏習合もさして意味を持たない(p.138, 147)。
だとすると、法然の思想は社会とどのようなかかわりにあるのか。それは、倫理・道徳的側面について何を語ることができるか。この点で言えば、浄土宗の社会倫理には何も内容がない(p.169f)。というのも、法然が求めるのは阿弥陀仏の本願を信じて念仏を唱えることだけであり(この本願の信を強調するかどうかで一遍と法然が分かれる)、それは現世にいかなる徳行を積むかということとは切り離されている。専修念仏によって、人間性は絶対的に肯定されているのだ(p.129-132)。
この法然のラディカルな社会からの断絶は過激なものであって、法然以降の流れにおいては薄められることになった。現世においてなすべき道徳的行為への目配せが浄土宗の中で法然以降に復活してくるし、親鸞が大乗仏教と整合性を合わせようとする動きも、著者はこの文脈で見ている(p.203)。
法然のラディカルさを当時の国家・社会、仏教と神道の伝統とのかかわりでみた本書は読みやすいし、よく抱えている。ラディカルさを際立たせようとして強調しすぎかもと感じるところはあれど、よい本だ。 -
http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/4480089497
── 阿満 利麿《法然の衝撃 ~ 日本仏教のラディカル 200511‥ ちくま学芸文庫》