- Amazon.co.jp ・本 (306ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480089656
作品紹介・あらすじ
近代哲学の父にして偉大な数学・物理学者でもあったデカルトが、『方法序説』の刊行後、形而上学にかかわる思索のすべてを、より精密に本書で展開。ここでは、一人称による六日間の省察という形式をとり、徹底した懐疑の積み重ねから、確実なる知識を探り、神の存在と心身の区別を証明しようとする。この著作は、その後、今日まで連なる哲学と科学の流れの出発点となった。初めて読むのに最適な哲学書として、かならず名前を挙げられる古典の新訳。全デカルト・テキストとの関連を総覧できる註解と総索引を完備。これ以上なく平明で精緻な解説を付した決定版。
感想・レビュー・書評
-
自分が思考しているあいだは自分が存在する。その実感から出発して、本書では、神の存在証明と事物の存在証明をする。
が、くりかえし読んでも神の存在証明のところがよくわからない。デカルトが生きた時代の文脈がわかれば納得がいくものなのだろうか。
とはいえ、本書は読ませる。証明ができているかいなかは別として、ある種の「リアリティ」がある。
神のリアリティということでいうと、デカルトの場合とくに、純粋数学的な世界がその通路になっている。
例えばさまざまな三角形を私たちはイメージできるが、三角形という概念は一つであり、また事後的に私たちの知らなかった定理が見つかったりする。この、現実世界から遊離しているかに見える世界が、神の消息を伝える(存在しているかどうかはこの場合問題ではない)。
本書は、もちろん真に受けることはできない書物だけれど、神のリアリティがびんびん伝わってくるという意味で説得力のある試論だった。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
異様に面白かった。
ただ解釈を間違えば一瞬にして、下らない読み物と判断を下してしまうような繊細な著書。
神に依らない方法で世界観を建てる、ということが近代哲学の方法であり、デカルトがその始発点にいるのだが、
彼はこの書の中で神の存在証明を行っている。
神の存在が、私の正しい認識の前提になっていることを示す意図がある。
訳者自身この神は「哲学の神」だとは言うものの、神に依らないで建てる哲学に神が前提とされていることに十分理解が得られていないように思う。
認識に対する妥当性は何かとするデカルトの問題のためには、なにか基盤が必要であったのであり、そこに神が建てられている。それは別に「哲学の神」である必要はなく、認識を保証する神であればよい。むしろ、現代では神という名をつける必要はない。
この方法的懐疑と認識論、問題設定は、18世紀のカントへ受け継がれる。 -
方法序説よりは少し長いが、それでも130ページ程度だし、方法序説より厳密に書かれているのでかえって読みやすい。とはいえ、難しいのは難しい。
物事の真偽をいったん全て留保し、そこから疑いえない自分自信の精神を見出し、そして、自らの内にない観念の原因として神の存在を証明する。そこまではなんとかわからないなりにわかったんだけど、どのようにして物質的な実態を明晰に認識できるのかってところは正直ようわからんかった。
それから、デカルトが言及する神というのが、どうも非人格神ぽくて少し違和感があった。キリスト教(もう少し広くセム的一神教)は人格神が基本だけど、こういう非人格神的な取り扱いが当時のキリスト教社会の中でどう位置づけられてたのだろう。
哲学とか歴史とかの素養がないと、こういうの読むとき苦労するんだよな。 -
何が正しい情報なのか分かりづらい
時代、意外とデカルト的な視点は
必要かもしれない...
神の存在証明について、俗に言う
あの " 神 " のことではなく、宇宙の
真理、もしくは絶対的な観念として
解釈すると現代でも通用する内容
だろう。実際、本文中でも宗教的
な意味合いで語られているわけでは
ない。
デカルトと言えば「我思う故に...」
で有名だが、この一文はデカルト
哲学のスタート地点に過ぎない。
ゴールは神の存在証明だとして、
デカルトの凄さと面白さは二つの
地点の間に散りばめられた数学的
発想の方だ。
普通の人なら人生で一度も考えた
こともない問題を提起し、それを
独自視点で乗り越えていく。やがて
その精緻な認識論は受け継がれ、
後にフッサール現象学へと発展する。
神が登場した時点で、今では
荒唐無稽な宗教的古典哲学として
除外してしまう読者も多いのでは
ないだろうか。だとしたらそれは
誤解であり、勿体ない選択だ。 -
第三省察について。神の記載はキリスト教徒のデカルトだからこそ、実感があるのか。訳者である山田先生は「神」はキリスト教的ではないと解説されている。「神」とは考える自分に考えさせる者、システムなのか?
剣士でもあったデカルトならではの記載も多い。塚原卜伝の道歌「映るとも月も思はず映すとも水も思はぬ広沢の池」や、不動智神妙録「心こそ心迷わす心なれ 心にこころ 心許すな」を思わせる。
「神」についての第五省察を読んで、デカルトの言う「神」が、読者の思う「神」と同じとは限らないと分かった。読者を自分たらしめるために存在する者を、「神」とするなら、理解できる。
第六省察では、行き過ぎた懐疑を現実に戻す。 -
【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/737922
哲学と科学の出発点と評される古典。 -
悪意のある老獪な霊
【もし何か真なるものを認識することが私の力に及ばないにしても、断乎として偽なるものに同意しないように用心することは、私の力のうちにある。】
「そこで私は、真理の源泉たる最善の神ではなく、或る悪意のある、同時にこの上なく有力で老獪な霊が、私を欺くことに自己の全力を傾けたと仮定しよう。そして天、空気、地、色、形態、音、その他一切の外物は、この霊が私の信じ易い心に罠をかけた夢の幻影にほかならないと考えよう。また私自身は手も、眼も、肉も、血も、何等の感官も有しないもので、ただ間違って私はこのすべてを有すると思っているものと見よう。私は堅くこの省察に執着して踏み留まろう。そしてかようにして、もし何か真なるものを認識することが私の力に及ばないにしても、確かに次のことは私の力のうちにある。すなわち私は断乎として、偽なるものに同意しないように、またいかに有力で、いかに老獪であろうとも、この欺瞞者が何も私に押しつけ得ないように、用心するであろう。」
-
蜜蝋の例
【いま眼の前にあるこの蜜蝋だけでなく、およそすべてのことに対して、それがいっそう判明に認識されれば、それは、私自身が何であるかの認...蜜蝋の例
【いま眼の前にあるこの蜜蝋だけでなく、およそすべてのことに対して、それがいっそう判明に認識されれば、それは、私自身が何であるかの認識でもある。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
「この私の見るものが実は蜜蝋でないということはあり得る、私が何等かのものを見る眼を決して有しないということはあり得る、しかし、私が見るとき、あるいは(いま私はこれを区別しないが)私は見ると私が思惟するとき、思惟する私自身が或るものでないということは、まったくあり得ないのである。同様の理由で、もし私が蜜蝋に触れるということから、蜜蝋があると判断するならば、同じことがまた、すなわち私は有るということが結果する。もし私が想像するということから、あるいは他のどんな原因からであっても、蜜蝋が有ると判断するならば、やはり同じことが、すなわち私は有るということが結果するのである。しかも蜜蝋について私が気づくまさにこのことは、私の外に横たわっている余のすべてのものに適用することができる。そして更に、もし蜜蝋の知覚が、単に視覚あるいは触覚によってのみでなく、一層多くの原因によって私に明瞭になった後、一層多く判明なものと思われたならば、今やいかに多く一層判明に私自身は私によって認識せられることか、と言わなければならぬ。というのは、蜜蝋の知覚に、あるいは何か他の物体の知覚に寄与するいかなる理由も、すべて同時に私の精神の本性を一層よく証明する筈であるからである。」
2022/01/08 -
私以外のものの存在
【私のみが独り世界にあるのではなく、ある他のものがまた存在することの証明。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
...私以外のものの存在
【私のみが独り世界にあるのではなく、ある他のものがまた存在することの証明。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
「私が私の有する観念のうちにおいて考察するところの実在性は単に客観的なものであるからして、この実在性がこの観念の原因のうちに形相的に有ることは必要でなく、かえってこの原因のうちにおいても客観的に有れば十分であろう、と忖度してはならない。というのは、この客観的な存在の仕方が観念に、観念そのものの本性上、合致すると同じように、形相的な存在の仕方が観念の原因に、―――少なくともその第一にして主要なる原因には―――この原因の本性上、合致するからである。そしてたとい恐らく一の観念は他の観念から生まれることができるにしても、これはしかしこのようにして無限に遡ることができないのであって、遂にはいわば或る第一の観念に達しなくてはならず、しかしてこの観念の原因は、観念のうちにおいてはただ客観的に有る一切の実在性を形相的に自己のうちに含むところの、原型ともいうべきものなのである。かようにして観念は私のうちにおいて恰も或る影像の如きものであって、これは、たしかに、これを得てきたもとのものの完全性に及ばぬことは容易にあり得るが、或るより大きなものまたはより完全なものを含み得ないことは、自然的な光によって私に明瞭である。
そしてこのすべてのことは、これを考量することが長ければ長いだけ、注意深ければ注意深いだけ、いよいよ明晰に、いよいよ判明に、その真であることを私は認識するのである。しかし私は何を結局これから結論しようとするのであるか。言うまでもなく、もし私の有する観念のうちの或るものの客観的実在性にして、それが形相的にも優越的にも私のうちに存せず、また従って私自身がこの観念の原因であり得ぬことが私に確実であるほど、大きいものであるならば、ここから必然的に、私のみが独り世界にあるのではなく、かかる観念の原因であるところの或る他のものがまた存在するということが帰結するということである。」
2022/01/08 -
自由意志と誤り、罪
【認識の欠陥による不決定な状態は、程度の低い自由である。また、真と善を明晰に見たときの躊躇のない判断・選択は自由を減少さ...自由意志と誤り、罪
【認識の欠陥による不決定な状態は、程度の低い自由である。また、真と善を明晰に見たときの躊躇のない判断・選択は自由を減少させるものではない。悟性には到達し難い一層広い範囲にまで、意志は及び得る。これが自由意志であり、誤りと罪の原因でもある。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
「私が自由であるためには、私が一方の側にも他方の側にも動かされることができるということは必要でなく、かえって反対に、私が真と善との根拠をその側において明証的に理解する故にせよ、あるいは神が私の思惟の内部をそうするように処置する故にせよ、私の一方の側に傾くことが多ければ多いだけ、ますます自由に私はその側を選択するのであるから。実に神の聖寵も、自然的な認識も、決して自由を減少せしめるのではなく、かえってむしろこれを増大し、強化するのである。しかるに、何等の根拠も私を他方の側によりも一方の側に一層多く駆り立てない場合に私が経験するところの、かの不決定は、最も低い程度の自由であり、そして意志における完全性ではなくて、ただ認識における欠陥、すなわち或る否定を証示するのである。なぜなら、もし私がつねに何が真であり善であるかを明晰に見たならば、私は決していかなる判断をすべきかあるいはいかなる選択をすべきかについて躊躇しなかった筈であり、そしてかようにして、たといまったく自由であったにしても、決して不決定ではあり得なかったであろうから。
ところでこれらのことから私は次のことを知覚する。すなわち、私が神から授かっている意欲の力は、それ自身として観られた場合、私の誤謬の原因ではないということを。なぜなら、この力は極めて広くて、その類において完全であるから。また理解の力もそうではないということを。なぜなら、私はこの力を神から理解するために授かっている故に、私の理解するあらゆるものは、疑いもなく私はこれを正しく理解し、そしてこれにおいて私が過つということはあり得ないから。しからばどこから私の誤謬は生じるのであろうか。言うまでもなくただこの一つのことから、すなわち、意志は悟性よりも一層広い範囲に及ぶ故に、私が意志を悟性と同じ範囲の内に限らないで、私の理解しないものにまでも広げるということからである。かかるものに対して意志は不決定である故に、容易に意志は真と善とから逸脱し、かようにして私は過つと共にまた罪を犯すのである。」
2022/01/08
-
-
勉強会のテクストとしてざっと読了.
-
2021年1月期展示本です。
最新の所在はOPACを確認してください。
TEA-OPACへのリンクはこちら↓
https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/opac_details/?bibid=BB00235184 -
ソシュールの言語学やメルロ=ポンティの理解を深めるため、近代哲学から学び直すという名目で読みました。結果良かったです。
特に第三省察の神の存在証明で使われた、観念の二義性である「表象的実在性/形相的実在性」は特に面白かったです。(この概念に詳細な言及はなされていなかったので、榮福真穂さんの口頭発表の文書を参考にしながら読みました。)
観念の「表象対象に依存した/表象対象とは無関係な」在り方、さらに観念の「多様性/画一性」というコインの裏表のような認識論ですが、これを批判的に発展させたものがソシュールの言語学や構造主義の哲学だと思いました。
デカルト哲学に通底している「精神と世界との接続」「知の確実性の獲得」という2つの根本的な動機において、この観念の二義性という概念は、重要な役割を担っていると思います。そしてそこから批判的に哲学や科学が発展していくと考えると、”近代哲学の祖”と呼ばれるのも納得できます。
古典ということもあり多少読みづらさはありましたが、プラトンの対話編のような文学性を感じることもでき、とても面白かったです。