プラグマティズムの帰結 (ちくま学芸文庫 ロ 9-1)

  • 筑摩書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (636ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480096135

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  • 実在を「鏡」の如く写す(=表象)のが真理だとすれば、「鏡」を磨くことを哲学は自己規定としてきた。その哲学の終焉を宣告するアメリカにおける脱構築の旗手ローティの初期論文集である。比較的短い13編だが、主題も論旨も殆ど同じで、手を変え品を変え同じところを螺旋のように旋回する。哲学を真理の探究ではなく文学のような一種のレトリックと看做すローティにしてみれば、これは何ら不自然ではない。哲学が文学と同じとは不真面目との小言も聞こえそうだが、ローティは大真面目に不真面目を推奨している。

    ローティが真面目を忌避するのは、哲学の終焉を語る言説が新たな哲学となるのを回避する戦略だ。これはニーチェからハイデガーを経た解釈学、ウィトゲンシュタインを嚆矢とする論理実証主義・分析哲学に至るまで、哲学史の上で幾度も反復された。ローティにとって真理はもはや語るに足る主題ではない。だがこれは論証すべきことではなく興味の問題だ。ならば論理ではなくレトリックに訴えるのは正攻法なのだ。かつて啓蒙主義が神を克服したのは、神を論駁したからではなく、人々が神に興味を失ったからであることを思えばよい。

    では哲学の終焉を語るローティの意図は?「ポスト哲学的文化」に何を期待するのか?それは哲学する動機を社会へと差し向けることである筈だ。ローティはリベラリストとして、後に対話や連帯について語るようになる。真理ゲームとしての哲学は対話や連帯から人々を遠ざけこそすれ、促すことはないという苛立ちがあったに違いない。真理や正しさは麗しい。だが一皮向けば、人々を屈服させ、支配しようとする動機(権力への意思!)を隠し持つ。思うにリベラリストの理念として、真理に代わるものがあるとすれば共感だろう。おそらくローティの考えもそれに近い。

    さて40年後の今日、本書を読まない大多数の人々にとって哲学はとうの昔に終焉し、本書が読まれたであろう大学の研究室では哲学はなお健在だ。そして対話や連帯どころか孤立と分断が広がっている。ローティの望み通り哲学が完全に終焉したとしても、多分これは変わらないだろう。とすればローティの戦略は的外れだったのか。少なくとも哲学という仮想敵を過大評価していたのは確かだ。哲学と文学の境界など元々曖昧であるし、哲学には哲学の、文学には文学の意味がある。だが哲学にも文学にも社会を変えたり連帯を生み出す力などありはしない。共感が連帯を作るのではない。連帯という実践を通じて共感が生まれるのだ。

  • 難解な哲学史エッセイ集って感じだった。プラグマティズムの乾いた露悪的な感じが凝縮されている

  • 東2法経図・6F開架 133.9A/R69t//K

  • この小論文集は純朴正攻法の哲学書というより、哲学(史)「についての」哲学書である。このローティさんの主著とされる『哲学と自然の鏡』も、未読だが、同様の本であるようだ。
    最初この書名から、プラグマティズムないし、その結実であるアメリカ文化を批判的に考察したものかと思ったが、逆で、著者はプラグマティストであって、近代西洋哲学伝統の「観念論」や「実在論」を批判し、それらを脱する第3の道としてのプラグマティズムを奨励する、というのが主旨である。著者のこの主張は「序論」に最もよく現れている。
    ずっと読んでいると要するにローティさんはデューイが大好きで、「みんなデューイを読め」とだけ言っているように感じた。
    私もデューイは幾つか文庫本を読んだ限りでは好きだったが、大型の著書は文庫化されておらず、よく知っているとは言えない。
    プラグマティズムと米国文化史とが、どのようにリンクしてきたかということに私は興味があるのだが、この本ではそんなことは触れられていなかった。
    デューイは、もっと読んでおこう。

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著者プロフィール

リチャード・ローティ (Richard Rorty)1931年生まれ。元スタンフォード大学教授。2007年没。

「2018年 『ローティ論集』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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