他者といる技法 ――コミュニケーションの社会学 (ちくま学芸文庫 オ-37-1)
- 筑摩書房 (2024年2月13日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (336ページ)
- / ISBN・EAN: 9784480512222
作品紹介・あらすじ
マナーや陰口等、他者といる際に用いる様々な技法。そのすばらしさと苦しみの両面を描く。「生きる道具」としての社会学への誘い。解説 三木那由他
感想・レビュー・書評
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Twitterでこの本に対する良い評判を見て気になったので購入して読んでみた。序章から読み始めて6章と4章は理解できたけれど、3章と5章は私には理解が及ばなかった。結局、完全に他者と理解し合うことなど不可能なのだということを内包しながら、それでもなお理解し合おうとするところに意義があるのではないか、などと読みながら考えたが果たして筆者の訴えたいところがそれなのかどうかは全く自信がない読書になってしまった。
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いつもこういう類の本は最初真剣に読むけどだんだんわからなくなって字追ってるだけになるので、今回は時間をかけてゆっくり読んでみた。
結果、やっぱわからないところは多かった、、
かなり学術的な内容だった。
相手のことがわからないことは当たり前、自分のことを(ある程度)理解してもらえないのも当たり前だと思うと、気持ちはちょっと楽になる。 -
他者を分りたいと思う時、ひとは「理解の過小」に苦しむ。しかし「理解の過剰」も実は苦しい。「理解」に囚われず「わかりあえない」けれど「いっしょにいる」ための技法が必要なのではないか?
著者はこの視点を最終章で導き出すまでに丁寧な説明を積み重ねて行く。自分を振り返り著者と会話するような気持ちで読み進めることが出来た。得ることの多い本だ。 -
この本が1998年に発刊されていること、この2024年に文庫版が発刊されたことの意味を考えています。
他者といる技法について、「理解」の限界とその先にあるコミュニケーションの可能性について示されている。他者といるというその手法について様々な論点から整理されていて、少し前の本ながら読みやすい。
個人的には、本を読み進めながら筆者の案内に沿って共に検討を進めていったその体験に価値があるなと感じました。おすすめです。 -
感想
他人といる時にどう振る舞うか。悪口が仲良しの鍵になることもある。食事を共にすることと同じ。腹の底を見せ合うこと。綺麗ではいたいけど。 -
相当むずかしい。
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小難しかった。ちらちら立ち読みして読めるかも、と思って購入したけれど、やはり文字を目で追うだけの形になってしまいました。もう少しわかりやすく読みやすいかなと思っていました。
この類の本をすらすらと読めるようになる日がくるのだろうか。 -
もとの本は1998年に刊行されているとは、読んでいる間は全然気がつかなかった。そのくらい今日でも通用する、言ってみれば普遍的な問題を扱っていると言うことだろう。
他者からの承認を求めれば求めるほど孤立してしまう、きちんとしていたいと願いそう振舞えば振舞うほど、そうできていないことに自ら気づき、自らを傷つけてしまうことになる。そういうことで悩んでる人は今もたくさんいるだろう。昔からたくさんいたのだろう。
本書はそうした悩みにメタレベルの視座を与える。自分の悩みがどのような構造から生まれてくるのかを見渡すパースペクティブを与えてくれる。お前の悩みは大体こんなところなのだと見透かされてしまうような苛立ちを感じないではないが、そうした悩みの構造をメタレベルから俯瞰することによって、救われる人は多いのではないだろうか。
結論を先に言うのではなく、筆者とともに検討していくプロセスをなぞるように書かれているのも、この問題を扱うにはふさわしい手順なのではないかと思われた。
私がとりわけ面白いと思ったのは、身につまされたのは、最終章の、わかりあえない人と一緒にいる技法についてだ。
「そこには、いつも私の「理解」を超えた、予想もつかない「他者」がいる。「わかりあわない」ということは、そのような「他者」を「他者」のまま発見する回路を開いているということだ。それは居心地が悪いが、でもたくさんの発見や驚きがある。(pp.295-296)」 -
正直な感想としては、あまり良い本とは思えなかった。主張に関しては「まぁそう言えばそうかもしれないけれど…」といった感じで説得力に乏しく、恣意的な論理展開がされている印象だった。
とはいえ、説得力は弱いけれど、「そういう見方もあるかもね」と面白がることはできた。