「みんな違ってみんないい」のか? ――相対主義と普遍主義の問題 (ちくまプリマー新書)

著者 :
  • 筑摩書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (221ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480684301

作品紹介・あらすじ

他人との関係を切り捨てるのでもなく、自分と異なる考えを否定するのでもなく――「正しさ」とは何か、それはどのようにして作られていくものかを考える。

感想・レビュー・書評

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  • ちくまプリマーだけど歯応えあり。

    「『正しさは人それぞれ』や『みんなちがってみんないい』といった主張は、多様性を尊重するどころか、異なる見解を、権力者の主観によって力任せに切り捨てることを正当化することにつながってしまう」

    「これらの言葉は、言ってみれば相手と関わらないで済ますための最後通牒です。みなさんが意見を異にする人と話し合った結果、『結局、わかりあえないな』と思ったときに、このように言うでしょう。『まあ、人それぞれだからね』。対話はここで終了です」

    「最近、SNSなどで、自分の気に入らない主張に対して罵詈雑言を吐き、誹謗中傷を行う人がいることが問題になっていますが、そうしたふるまいは『正しさは人それぞれ』と表裏一体のものだといってもよいでしょう。『正しさは人それぞれ』は、自分自身の正しさの根拠や理由についても考えない態度を助長する」

    結構、序盤からグサっと刺さった(笑)
    でも、この本は丁寧に読みたくなる、理解したくなる本だ。
    私が感じていた、多様性をスローガンに掲げるときのうさんくささは、ここに基づいているのかな。
    本当に当事者側に立つこと、でも組織やグループとしてそこを含めて機能させることは、難しいことなのに、その一言で分かった気になってしまう。

    かくいう私も、正しさはその人の持つ背景を通して培われるものだと思っていたし、その背景は時代や文化によって異なると思っていた。
    けれど、人はそう「それぞれ」でもないのだという投げかけを、もう少し咀嚼してみたいと思う。

    より正しい「正しさ」のためには、合意形成という手続きが欠かせない。
    この合意形成も、最近よく聞くようになった。
    感情に正しさの根拠を求めてはいけないという言葉は、このことに結びついてくる。(難しいけど)

    対話でなく感情の対立で終わりがちになるのは、私かあなたか「どちらか一つ」だと思い込んでいるからであって、「正しさ」となると、より自分の深い所に結び付いてしまって上手くいかない感じがする。

    「より正しい正しさ」という言葉を、キーワードとして持っておく。

  • 「多くの人は「人それぞれ」の相対主義か「真実はひとつ」の普遍主義かという二者択一に陥りがちですが、相対主義も普遍主義も相手のことをよく理解しようとしない点では似たようなもの」
    だからこそ、その間の道をどちらかに落っこちないように気をつけながら進まなくてはなりません。」
    本書は著者が「徳島大学総合科学部の授業をしながら考えてきたことのまとめ」だし、ちくまプリマー新書なので、本来の想定読者は若者たちかもしれないけれど、親世代かもしくは祖父母世代である私にとっても発見が多く、著者に励まされながら「間の道」を少しずつ進む読書は楽しくとても勉強になった。

    (読書会Hさん推薦本)

  • 丁寧に丁寧に「人それぞれ」に対する誤りを指摘し、著者の考える対応をしっかりと述べてある。

    最後に書かれている《おわりに「人それぞれ」はもうやめよう》を読むと、ここまで読んできて本当の良かったと思う。

    ついつい『人それぞれだけど〇〇だと私は思います』とか逃げ口上気味に書いてしまう事が多い自分。意識して合意を形成して行くようにしなくては。人はバラバラで生きて行くのでは無いのだから。

    読書の流れとしては、この後「訂正する力」(東浩紀)を読み進めて行く予定。

  • 久しぶりに内容の濃い本を読んだ。

    「あ、この人意見違うな」と思うと、「まあ、人それぞれだしね」と、考えることを放棄していたけれど、それはものすごく安易な考えでした。(自己反省)

    少なくとも、自分の大切な人(家族とか、数少ない友人)、ビジネスでお付き合いしないといけない人とは「正しさ」の認識合わせができるような関係を築いていきたいものです。
    これって、難しいけど組織でも必要なんだろうな、と思いました。仕事をするという目的だけでつながっている人間関係。人が複数人集まれば、人間関係のいざこざは避けられません。
    「正しさ」の共通認識を各人が持っているか。
    良い人間関係を築くためには、重要な事なのではないかと思いました。
    「正しさ」の合意。これがないから「あの人ずるい」とか、「ここ怒るとこ?」とか、ちょっとした事がトラブルになるのではないかと思った次第です。

    「普通、そうですよね?」と、他人に同意を求める前に自分の「正しさ」が独りよがりのものでないか。
    一度考えてみるのもいいかもしれないです。

    あまりにも濃厚な内容で、消化不良気味です。
    もう一度読み直そうかと思います。

  • 「正しさや正義は人それぞれ」という、冷笑的とも言える(?)態度を批判する書籍。

    大多数の人間は共通の感覚器官を有して事象を知覚するため、各人の感じとる認識というのは、言うほど異なっていないのであり、異なっていたとしても、理解可能な範囲の差異である、だから人それぞれなどと言うのは良くないし、感じた差異についての意見を交わすべきだ、というのが大意。

    一見、実在論の立場を取りそうな論旨だが、科学哲学における実在論関連の議論をもとに、人間の創造性がなければ実在は確かではないという立場もとる。
    ※自らの哲学的立場をある程度平易に明示しているのには、知的な誠実さを感じる。

    本書全体の細かな箇所を見ると、読者側で十分に吟味し批判していくべき箇所も多々あるように思われるが、それでも、私が昨今ずっと抱いている問題関心にを鮮やかに指摘しているように思われるため、その点とても共感して読んだ。

    問題関心というのは、世の中の事象に対して冷笑的な立場(この書籍が言うところの「人それぞれ論」)と、自分とは異なる立場の人たちに罵詈雑言を浴びせる立場とは、実は共通した根底があるのでは?というもの。
    特に論争等が発生している際の「人それぞれ」というのは、無関心や、議論に参加することの面倒臭さを表しているように思え、分断を深めるという意味合いで、相手に罵詈雑言を投げかけるのと大差がないと考えていたが、この本を読んで、両者に共通するのは、他者に対する想像力の無さなのではないかと思った(想像力のなさの根底には無関心もある気がするが、どちらが根源なのかはわからない)。

    本書の話ではないけれど、「寛容vs不寛容」の話と大きく関わる部分があるとも思った。議論をしていて、相手に心底納得することができない場合でも、ある程度の礼節を持って接することができる。嫌な奴でも、共存することはできる。ただし、その際に「人それぞれ」論者になってしまうと、最初は摩擦を避けられて楽かもしれないけれど、いずれ大きな分断を招いてしまう。そういうことなのではないかなと感じた。

  • 山口裕之(1970年~)氏は、東大文学部卒、東大人文社会系研究科博士課程単位取得退学の哲学研究者。徳島大学教授。専門はフランス近代哲学等。
    本書は、昨今、「正しさはひとそれぞれ」「みんな違ってみんないい」「現代社会では価値観が多様化している」「価値観が違う人とは結局のところわかりあえない」という言葉が流布していることに危機感を持った著者が、そうした考え方の歴史的背景を含めて、本当に「「みんな違ってみんないい」のか?」について考察したものである。
    内容は概ね以下である。
    ◆「正しさは人それぞれ」という相対主義的な考え方は、西洋が従来持っていた普遍主義(様々な問題について「客観的で正しい答がある」という考え方)に対する哲学的な批判を出発点として、多様性の尊重を求める市民運動が盛り上がり、それが政府主導の新自由主義に取り込まれて浸透していった。
    ◆言語や文化には多様性があり、それを尊重することは大切ではあるものの、「人それぞれ」というほどには人は違っていない。それは、人はみな、白紙の状態ではなく、同じような身体と感覚器官や脳を持って生まれて来るし、考え方、感じ方、振る舞い方など精神的な側面についても、かなりな程度、生物学的な習性が反映されているからである。
    ◆人はもともと、「正しいことと不正なことを感じる感情」の仕組みを持っており、それが道徳的な善悪の起源にある。しかし、そうした感情と「正しいこと・不正なこと」は同じものではなく、ある行為の「正しさ」は、それに巻き込まれる人たちが合意する(共通了解する)ことによって、はじめて正当化される。そして、人間は他の動物と異なり、合意をするために必要な言語を持っている。よって、「道徳的な正しさ」を人それぞれで勝手に決めてはならない。
    ◆物理学などの科学では、科学者が仮説を立て、実験をし、その結果を他の科学者たちが検討し、共有していくというプロセスによって「正しさ」が作られていく。科学に限らず、「正しい事実」を人それぞれで勝手に決めてはならない。
    著者の言いたいことを突き詰めると、「正しさ」とは、人間の生物学的特性を前提としながら、多様な他者とコミュニケーションし、理解し合うことによって作られていくものであり、「正しさは人それぞれ」も「真実は一つ」も、そうしたコミュニケーションを放棄する言葉・態度でしかないことを認識し、コミュニケーションをする努力をしなければならない、ということであり、それについては共感できる。
    ただ、内容・展開に関しては、思想史や物理学などの説明が妙に専門的・詳細な一方で、それらから著者の最も言いたいことが導き出されるプロセスが短絡的な印象があり、残念である。(特に、ジュニア向けということを考えると、前者の説明は平易にして、後者のプロセスをもっと説得力のある記述にするべきと思う)
    (2022年7月了)

  • 「人それぞれだから」免罪符の言葉になっとるなあ。自分自身も、人のことを散々言うた後に、そう呟いたり、思ったりしとる。その人のことをわかろうとしてない(わかりたくもない)ということが往々にしてあるなあ。

  • みんな違ってみんないい、で解決しないこと、利害が相反することはどうするか?
    より正しそうな答えをみんなでつくることを諦めたらいけない。

    集団の多様性は、個人の多様性を切り捨てて成り立つ。団結を分断するのに個人の多様性が悪用されるリスクがある、と感じた。

    生物学的に人間にはそんなに違いはない。表面上の慣習は違うけど目的まで辿ればたぶん理解し合える。

  • ※第3章までしか読めませんでした。一応、そこまでの個人的な感想などを参考までに。

    タイトルについて。金子みすゞさんの言うところの「みんな違ってみんないい」とは、ニュアンスが若干違う気がしました。こちらの本が取り扱うのは、どちらかといえば「(いろんな考え方の人がいるけれど)みんな違ってみんないい、のか?」だと思いました。

    内容について。私は時事的な話題全般に対し強い不安を感じがちなので、途中(第4章前半)で脱落しました。文化人類学や社会学、哲学の解説は興味深かったです。

  • 第3章が特に響いた。一部要約。

    「正しさは人それぞれ」
    「絶対正しいことなんてない」
    「何が正しいかなんて誰にも決められない」

    こうした言葉は、より正しいことを求めていく努力をはじめから放棄する態度を示している。

    「正しさ」は、どのようにふるまうことが道徳的に正しいのかについての共通理解のことであり、ひとつの行為に複数の人間が関わる時、はじめて作られていくもの。ある行為の正しさは、それに巻き込まれる人たちが合意することによって正当化されるもの。

    人類全員の合意はないかもしれないし、その意味では「絶対正しいことなんてない」のかもしれない。しかし、「より正しい正しさ」はある。

    人間は、他人の感情や考えを聞き、事実と論理にもとづいて思考することで、共有できる「より正しい正しさ」を作っていくことができる。

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著者プロフィール

1970年奈良県生まれ。徳島大学総合科学部教授。1999年東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。2002年博士(文学)学位取得。専門はフランス近代哲学、科学哲学。主な著書に『コンディヤックの思想――哲学と科学のはざまで』『人間科学の哲学――自由と創造性はどこへいくのか』(以上、勁草書房)、『認知哲学――心と脳のエピステモロジー』『コピペと言われないレポートの書き方教室――3つのステップ』(以上、新曜社)、『ひとは生命をどのように理解してきたか』(講談社選書メチエ)、『人をつなぐ 対話の技術』『語源から哲学がわかる事典』(以上、日本実業出版社)、『「大学改革」という病――学問の自由・財政基盤・競争主義から検証する』(明石書店)。翻訳書にコンディヤック『論理学――考える技術の初歩』(講談社学術文庫)。

「2022年 『「みんな違ってみんないい」のか?』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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