太宰治という物語

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  • Amazon.co.jp ・本 (296ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480823441

作品紹介・あらすじ

「太宰治」の虚像と実像。作家としての誕生から死まで。「晩年」から「人間失格」まで主要な作品を論じつつ太宰の虚実に迫る。自ら作品の中で「太宰治」という物語を書きつづけ、ついには作品と共に破滅していった内面を論究する力作。

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    人間失格


    ・強い自意識から生じる幾重もの自己隠蔽によって生の手ごたえを失った太宰は、その喪失感を癒す為の手段として創作を発見した。

    どれが真の自己なのかわからない、あるいはこの現実世界に依拠すべき場所がないという空虚なあがきを感じている者にとって、創作というはけ口にするために「自己劇化」することによって自分の物語化をする。
    太宰治における自己激化を構成したものは
    いえ、共同体、他社の問題であった。
    過剰な自意識、大大使から来る自己分裂自己喪失が文学における同期の文法として太宰の初期の重要なモチーフとなった。

    ・自己劇化の最初の契機はまずコミュニズムとそこからの転向の体験となって現れている。
    コミュニズムとの接触を契機とする自己否定
    、自己喪失を媒介しない限り晩年はどうしても晩年は解けない。
    太宰治は自らコミュニズムからの、後者として語りがっているように見えるふしがあるが彼の文学を自己の物語化として捉えるようとする場合そのことが重要だと考えられる。

    ・昭和7年青森警察署に出頭して取り調べを受けた太宰が以後非合法運動から完全に離脱することになり翌年8月から思い出を書き始める転向を最初に描いた作品が思い出である。
    太宰にとってコミュニズムの運動とは「幼少期を過ごした家」を中心とする思い出の世界の「否定」や「禁忌」を意味したものであり、転向とはすなわちそのタブーから自己を解放してその思い出の中で回帰していく事だったのではないか。

    ・現実世界における津島修治から抜け出し虚構の世界において生きる作家太宰治が誕生する。

    ・「哀蚊」は形を変えて3度発表されたが他には例外がなく、格別に愛着深い作品だった。
    マルキストが多かったと言われる新聞雑誌委員として昭和4年2月の弘前高校ストライキ事件を体験することで急に左傾していったと考えられその直後哀蚊を発表した。

    ・昭和4年第1回目の自殺未遂事件を起こす。
    自殺の原因の1つに相馬氏は「学業成績の急激な低下による琉球の不安)及び小山初代との関係を上げているが、それらを含めてコミュニズムが彼に分裂の苦悩を教えていたであろうと言う事は想像に難くない。

    ・哀蚊の作品の底の流れているのは、その世界に包まれていること快感と罪の意識、恍惚と不安とでも言うべきものである。
    理念的には拒否すべき封建的な家そのものと、不備と知りつつ3つをしているかのような怪しい間の時おののきが感じられる。

    ⭐️
    ・母なる者への強い渇きと、それを失うことへの不安と恐れ。
    自分を育ててくれる母ではない女性は、偽りの母性であり、代理母的存在。
    それゆえに自分の母性の予定は十分に満たされなかったし、またそれはいつ失われるかもしれないもろく不確かなものであった。
    このことは単純な母性欲求と違ってどこか後ろめたさ(乳房を母以外に求める罪悪感のようなもの)を感じさせるものであった。

    「思ひ出」には「そのため誰にも話さなかった」とあるが、人間失格で母親が出てこないけれども多数の女性が出てくると言うのはこの後ろめたさが潜んでいるのではないか。

    母の不在や欠落は、太宰に共通する特徴。

    ⭐️
    ・8歳ぐらいになると弟の子守から息苦しい性の意味を教えられたし、父親は何かの饗宴があると、必ず大きな街からはるばる芸者を呼んで太宰も5歳6歳の頃からそんな芸者たちに抱かれたりした記憶もある。

    →人間失格の幼少期の性の目覚め

    ⭐️「晩年」のなかの「魚服記」は
    炭焼きの娘スワは実父から犯され、滝に投身して鮒(ふな)になると言う1種の変身譚。
    この作品は超現実的な過去世界への飛翔や変身の願望を取り扱っている。
    現実から超現実への脱出=肉体的存在としての自己を消去した開放感。
    スワは大蛇のように変身したと思ったのに、気がつくとそれは小さな鮒に過ぎず、飛翔に失敗してしまう。
    それは芸術による自己救済がついに根本的な救いになりながらなかったことを意味している。

    ・「服魚記」はコミュニズムの接触によって抑圧されていた、津軽の自然や濃密な土俗的雰囲気が流露したのであり、2度と書かれることのないような傑作となった。

    ・文体には井伏鱒二の影響、柳田国夫の「山の人生」の影響が指摘されている。特に巻頭の「山に埋もれた人生ある事」の影は明らか。

    ⭐️
    ・「道化の華」は客観的実存としての自我を虚妄化しようとするモチーフ。
    自己をありのままに露呈し実体化することへの恐れやその不可能性の認識を書き出している。
    ⭐️「作家は己の姿をむき出しにしてはいけない。それは作家の敗北である」

    ・津軽の故郷のモチーフは、自己存立の根源的な基盤が、自己及び自己の文学から失われ、次第に干からび色あせてくることを故郷損失の嘆きとして語っている。


    ・「生活の恐怖」からの逃亡が太宰文学の根本的なモチーフになっている。
    ⭐️現実的生活者としての自己を敗者ないし死者たらしめようとする衝動は、死を先取りし、実存としてのおのが生そのもの「晩年」と意識すること、あるいはそのように仮構し、物語化する。



    ・昭和11年の武蔵野病院入院が「HUMAN LOST」の題材になった事件であり、やがて人間失格を描く動機となった出来事。
    周囲の人々は、太宰に、サナトリウムに入るのだと欺いて、精神病院に強制執行をしたのだが、生涯消えることのない人間不信と、人間失格である意識を植え付けたというのが定説になった。
    しかし実際には、このことを計画したのは、井伏鱒二や佐藤春夫、初代、中畑慶吉らなど最も親しく、大切に思う人たちばかりであり、兄も承知の上であったという。太宰もその善意は疑う余地などなかったはずであり、同年2月にも佐藤春夫の紹介で麻薬中毒の治療のため2週間ほど入院した経験もあった。
    井伏鱒二の当時の記録「10年前頃-太宰治に関する雑用事-」には、太宰も承知の上での入院だったと言う事実を明らかにしている。

    ⭐️
    →つまり武蔵野病院入院に関する「HUMAN LOST」その他太宰の表現には誇張と虚構があると考えられる。

    ⭐️
    誇張によって現世的人間として敗北すること、あるいはそのような自己劇化によって人間失格者 太宰治と言う1つの物語を作って作り出す事は、むしろ太宰が願っていたことだと考えればある程度納得がいくように思われる。
    絶望と人間不信を語った「HUMAN LOST」の文体はどこかウキウキとしているようにさえ見える。
    ⭐️
    武蔵野病院を11月12日に退院してその夜から直ちに書き始めていることからも、それほど衝撃が強かったものだとも言えるが、逆にそれがいわば待ち受けていた「テーマ」であったことを物語っていはしないだろうか。

    ・自殺未遂、麻薬中毒、入院、離婚などの現世における様々な不始末は、太宰が自身を現実から放逐し、作家になるしかないと追い詰めていく過程だったといえるかもしれない。

    そして、作品を書くことは、人間失格者としての自己の運命を先取りし、一挙に現実における「晩年」を所有しようとする自己規定、自己劇化の衝動とみる事もできるかもしれない。

    人間失格者は超次元的世界(文学)においてのみ存在が許される。その意味で「晩年」は現実世界への遺書であると同時に、作家としての自己再生の宣言でもあった。

    ⭐️
    つまり現実世界で徹底的に敗北すること、自己を人間失格者と完成させることが、己の文学の真実性を保障する唯一の道であると感じられたのである。
    それは太宰治の物語を、実生活が後を行するような形を辿ったと言える。

    ・昭和8年以降の太宰治は、昭和5年までの彼とは別人のように小説が上手くなる。
    これは昭和6〜7年の空白の間に何か作家的飛躍を促すに足る重要な契機があったことを暗示している。
    昭和7年の青森警察の自主前後に、ある種の回生が太宰に訪れた事は確かである。


    それは、1度は否定すべきものとして自らの内部で禁止した幼少年期と、それを取り巻く思い出の世界へ再び帰っていくことであった。

    「思ひ出」「魚服記」で、脱出しようとした津軽的なものを、ついに断ち切りがたいものとして容認することによって、その追憶の中に身を浸し、そこに帰って自らの文学的源泉を求めようとした時、固有の文体を持つ作家 太宰治として自立するに至った。

    ・太宰治の文学的本領は変幻自在な語りにありあるが、その語りは津軽の風土や口承文芸と深く結びついている。
    民話はひとつの型をもって話をし、自他をめぐるその時々の状況や雰囲気に応じ、微妙な変化を持たせながら語る。
    語り部は無意識に自己投入し、聴き手も自己を同化させることによって、ともにカタルシスを実現する。
    太宰治は原型となる古典や悦話、史実がある時に生き生きとした想像力を発揮するパロディが得意な作家であった。
    押し込めていた津軽の風土を自己に還元することによって、語りの才能を活性化させる結果がもたらされた。


    15篇の作品をそれぞれ異なった趣向で描き、1つとして同じ主題、手法を用いず、書く主体として変幻する「私」の表現へ関心が向けられるようになった。

    ⭐️
    「道化の華」では、
    「美しい感情を持って、人は悪い文学を作る」というジイドのドストエフスキー論の言葉が作中で3回も引用される。
    「僕」と言う語り手を出現させることによって、作家自身の内面を露出させているように見えながら、その「僕」も十分に対象化されており、「告白」とは程遠い「道化」的な存在である。
    「告白」と言う制度そのものを嘲弄しているのかもしれない。
    ⭐️
    太宰は、私小説的効果を十分に計測しつつ、私小説を解体し、その本質だけを生かした独自の話法を作り出した。
    いかなる実生活上の私小説的事実といえども、一旦は解体され、変型による虚構化の手続きを経ていないものはなく、逆にどんな「嘘」や「巧言令色」も、その語りに作者自身の声をにじませることによって、文学的リアリティーを生み出すことができている。

    ・前期の「晩年」で出発した太宰治は、中期の「虚構の彷徨 ダス・ゲマイネ」の前衛的実験をさらに極限までおし進めることで、文学表現としての自立性さえ危うくするような「二十世紀旗記」「HUMAN LOST」らの他の作品にたどり着いたとき、ようやく行き詰まった。

    ・前期の後半は、解体に瀕した自我を、それに見合う解体したスタイルで表現することによって、その分だけさらに自我の解体と混迷を深めると言う形で、進行していった。

    ・表現における前期から中期への転換を考える1つの指標は女性の独白体=女語りの採用が挙げられる。
    男2女言葉による独白と言う形式上にとどまるのではなく、自己の資質にあった表現との出会いであった。そしてそのスタイルによってのみ、引き出されるような人間性の新しい側面に光を当てることになった。

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