渚にて: 人類最後の日【新訳版】 (創元SF文庫) (創元SF文庫 シ 1-1)

  • 東京創元社
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  • Amazon.co.jp ・本 (480ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784488616038

作品紹介・あらすじ

第三次世界大戦が勃発、放射能に覆われた北半球の諸国は次々と死滅していった。かろうじて生き残った合衆国原潜"スコーピオン"は汚染帯を避けオーストラリアに退避してきた。ここはまだ無事だった。だが放射性物質は確実に南下している。そんななか合衆国から断片的なモールス信号が届く。生存者がいるのだろうか?-一縷の望みを胸に"スコーピオン"は出航する。迫真の名作。

感想・レビュー・書評

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  • 最初は極めて普通の日常が描かれる。だれもパニックになってはいない。まだテレビ時代ではないので、世界から届く情報はほとんどない。しかし、まるで桜前線のように放射能前線が次第に南下しているということだけはみんな知っているのである。北半球のどの都市も、タワーズ艦長の赴く原子力潜水艦の調査ではほとんど従容として全員死を受け入れたように思える。年が変わってやがて三月ごろになると、みんな九月には死んでしまうだろうと分かってくる。誰もそれから逃れようが無い、という前提でこの小説が書かれている。登場人物たちは誰一人われを忘れてパニックになったりはしない。それぞれのやり方で死んでいくのである。

    現代はおそらくそうではない。おそらく極めて早いスピードで情報が飛び交い、僅かだが確実に生き延びる知恵が人類共通のものになり、大パニックが起きるだろう。

    だからこのような小説や映画はもはや過去のものなのだろうか。そうではない。そうではなかった。

    鏡明は解説でひさしぶりに「この作品を読んで、ほのぼのとした気分になったと言った。「渚にて」が変わったのではない。世界が変わり、私も変わったのだろう」と書いた。改訂新版が出た2009年ならば、たしかにこのような感想を持つことは当たり前だった。私もほのぼのとした気分で読んだかもしれない。(たった、2年前だけど、なんて過去のことに感じるのだろう)2年前の情勢とはつまりはこうだった。世界はさらに緊迫度が増している。当時では「核戦争だけ」が世界滅亡の危険要因だった。しかし、半世紀が過ぎて地球温暖化、水、食糧問題、そしてエネルギー問題と滅亡要因はますます多様化複雑化していた。この小説のように単純に滅亡を迎えることが出来るのは、むしろ幸福かもしれなかったのである。

    そしてフクシマが起きた。私はもはや、他人事の風景としてこの「滅亡を迎える日常」を読めない。

    (自分の知らないところで始まった原発ムラのミスのせいで)「どうしてわたしたちが死ななきゃならないの?ほんとにバカげた話よね」と絶望を叫ぶ子供たちの心像風景を私たちは知った。

    (自分たちが去っていっても残る牛たちのために)どうしたら「1頭に付き1日半俵の乾草」を確保するべきか悩む酪農家を私たちは現実に見ている。

    主人公の二人の男女はお互いに愛し合っている。けれどもけっして性的な関係を持とうとはしない。男性には北半球に妻と子供がいて、それを裏切ることが出来ないとお互い知っているからである。「もしこの先、ずっと人生があるなら、話は違うでしょうけどね。それなら奥さんを泣かせてでもドワイトを手に入れる価値はあるかもしれないわ。そして子供も作って家庭を持って、一生を共に暮らすの。そうできる望みがあるなら、どんな犠牲も厭わないわ。でもたった三ヶ月の楽しみのために奥さんの名誉を傷つけるというのはーしかもその先に何も残らないというのはーとてもその気になれないわね。」
    ……少し内容は違うが、人間は「誇り」をもてるのだ、ということを我々はこの五ヶ月いたるところで見た。

    私は今回、鏡明とは違い、暗い気持ちでこの小説を読み終えた。「「渚にて」が変わったのではない。世界が変わり、私も変わったのだろう」。

  • 「そんなのおかしいじゃない。南半球じゃだれも核兵器なんか使ってないんでしょ。水素爆弾だろうがコバルト爆弾だろうがそのほかのどんな爆弾だろうが、オーストラリアはぜんぜん発射なんかしていないじゃないのよ。なのに、一万キロも二万キロも離れた国がやりはじめた戦争のせいで、どうしてわたしたちが死ななきゃならないの?ほんとにバカげた話よね」
    メアリにとっては、他国の現状だったり自分たちの寿命があと僅かだということも、分かっている「つもり」のことなんだと思う。
    南下してくる放射性物質によって、自分たちの命には先が見えているらしい。北半球の国々は人ひとり残ることなく死滅しているらしい…
    ニュースや噂話で流れる分かっている「つもり」の恐怖よりも、彼女にとって大切なことは、日々の生活なんだろう。目の前にいる愛する子どもの世話。家事や庭仕事に精を出すこと。庭におく素敵なベンチも欲しいし、花開いた水仙の美しさにうれしくなる。
    そんなメアリを現実から逃避していると夫のピーターは思うのだけれど、私にはそうは思えなかった。やっぱり、母親にとってはよその国の目に見えない放射性物質の脅威よりも、今夜の夕食の献立や何でも口に入れたがる赤ちゃんに目を配ること、そんな目の前の現実のほうが重要なんだと思うこともある。
    だから、「バカげた話よね」の言葉の裏には「何にもしていないんだからオーストラリアにいる自分たちは大丈夫」という、どこか他人事のような響きが含まれているように感じたのも事実。

    でも、それはメアリが特別なんじゃないと思う。
    あと数日で人類滅亡すると言われても、実際に自分や自分の愛するものたちが体に変調をきたし苦しみだしてから、やっと本当の現実に向き合える人が多いのじゃないかな。それはもう遅いのだろうけど、人はそこではじめて気づくのかもしれない。仕事を終え家族の元へ帰る夜。恋人と過ごす週末。友と語らいながらのランチ……何気ない日々の尊さ。自分にとって大切なもの。抱えていきたい想い。どうやって死を迎えることが己の尊厳を守ることなのか。いろんなことが見えてくる。

    米国原潜«スコーピオン»艦長であるタワーズは、祖国で待つ妻と子どもへ会いに行く。タワーズを愛したモイラは、彼の意思を尊重し自分の想いを秘めたまま、彼の元へ行く。ふたりは「行く」のだ。

    物語の終わりは、人類の終焉でもあるのだろう。
    ただ残るのは雲の裂け目から伸びた光の筋が差し込む灰色の海。モイラの見るタワーズが乗艦する«スコーピオン»の小さな影。
    地球上に生きた人びとの静謐な愛が波間に漂っているだけ。

  • 文庫版の裏表紙に書かれている本書の紹介文は下記の通りだ。

    【引用】
    第三次世界大戦が勃発、放射能に覆われた北半球の諸国は次々と死滅していった。かろうじて生き残った合衆国原潜”スコーピオン”は汚染帯を避けオーストラリアに退避してきた。ここはまだ無事だった。だが放射性物質は確実に南下している。そんななか合衆国から断片的なモールス信号が届く。生存者がいるのだろうか?一縷の望みを胸に”スコーピオン”は出航する。迫真の名作。
    【引用終わり】

    上記のような紹介文を読んだら、誰でも、モールス信号の謎に興味を持つというか、それがこの小説の本筋だと思ってしまうはずだ。ミステリー仕立てのSF、最後に意外な結末が待っているのではないか、と。ところが、実際に読み始めてみると、物語の展開は、ドラマチックではなく、かなりゆっくり。登場人物が多い小説ではないが、その登場人物の生活ぶりや、登場人物同士の関係性を示すエピソードを、かなりゆっくり、じっくり、ページ数を使いながら描いていくのである。私は創元SF文庫版を読んでいるが、本書は文庫本で解説まで含めると470ページを超える分厚い本だ。ドラマチックなミステリー仕立てのSF小説に、なぜ、こんなにページ数が必要なのだろうか、なぜ、こんなにストーリー展開がゆっくりなのだろうか、と疑問に思いながら読み進めた。
    ところが、途中から、これはそういうミステリー仕立てのSFという種類の小説ではないということが分かってくる。副題が「人類最後の日」であるが、人類最後の日に向けて、登場人物たちが、また人間が、どのように最後の時を過ごすのかということがテーマであろうことが分かってくる。だから、一人一人の人生を詳しく描いておく必要があったのだ。それが実際に分かるのは、全体の半分くらいを読み進んでから。それまでは、ストーリー展開のゆっくりさ加減に退屈を感じていたのであるが、それに気がついてからは、一気に読んでしまう面白さであった。

    この小説を読んだ人は、同じ状況が起こった時に、すなわち、自分を含めた人間全員が、数日からせいぜい数週間の間に亡くなってしまうことが分かったら、「自分ならどうするだろうか?自分ならどのように最後の時を過ごすだろうか?」と考えるはずだ。この小説の登場人物たちは、家族を中心に、自分の愛する人のために最後の時間を過ごす。私が受け取った本書のメッセージは、大事なことは人を愛すること、ということだった。

  • 名作と言われるだけの内容だった。
    読む前はもっとSFチックな物語だと思ったが全然違い、前半はかなり退屈で読み進めるのが億劫だった。が中盤以降、物語が動き出してからはとても興味深く読めた。
    まったく時代は違うが所謂世界系のように大きな破壊描写はせずに終末に向けて淡々と物語を進めることは後半にとても意味を持っていると思う。
    前半の日常が後半少しずつ変化していき、最期を迎えていくわけだがこの変化こそがこの作品を名作たらしめるものだと思う。
    自分が世界の終わりにどのような行動をするのか、というかその世界の終わりは自分の人生の終わりとイコールになるのでその終わりを自分の今までの人生の尊厳をどのように守りつつ過ごすのかをとても感傷的に考えてしまった。
    自分としては読後にこういった感傷に浸れる作品は間違えなく名作だと思う。

  • ネヴィル・シュート(1899~1960年)は、英ロンドンで生まれ、オックスフォード大学卒業後、航空工学者として働く傍ら、小説を執筆し、生涯で24冊の作品を出版した。
    その作品は、自らのキャリア・体験に基づいた、航空業界、ヨット、戦争などをテーマとしたものが多く、代表作と言われる、近未来を扱った『渚にて』(原題『On the Beach』)(1957年)は、特異な作品である。
    私はよく本を読む方だが、ノンフィクション系の本が多く、SFや近未来を扱った小説では、『1984年』、『すばらしい新世界』、『華氏451度』、『2001年宇宙の旅』、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』、『星を継ぐもの』、『日本沈没』、『復活の日』等、超有名作しか読んだことはないのだが、本作品については、以前より気になっており、今般読んでみた。
    読み終えて、まず感じたのは、小松左京の『復活の日』(1964年)との類似性(と違い)である。読後にネットで調べたところ、やはり『復活の日』は本作品を下敷きにしているとのことだが(本書の帯にも小松左京がコメントを書いている)、決定的に異なる結末を用意しながらも、両者のメッセージは同じものである。
    そのメッセージとは、世界を敵味方なく滅亡させる核兵器や生物兵器(『復活の日』での滅亡のきっかけは、兵器として研究開発されていたウイルス)の愚かさであるが、近年の、ロシアのウクライナ侵攻や、ハマスのイスラエル攻撃とイスラエルのガザ侵攻に伴う中東の緊張感の高まり、北朝鮮の核兵器開発、中国の軍事力強大化等を見ると、そのリスク・脅威は全く変わっていないと思われる。第二次世界大戦後に作られた「世界終末時計」は、アメリカと(当時)ソ連が水爆実験に成功した1953年に「2分前」まで進んだ後、東西冷戦の終結等により1991年には「17分前」まで戻されたが、その後再び針は進み、2024年現在「1分30秒前」を指しているという。
    更に、半世紀前と異なる点として、気候問題や環境問題、食料問題等、中長期的な観点から、人類の滅亡に繋がり得るリスクが増大していることがある。敷衍するならば、AIの進化や遺伝子工学の進歩も、人類(いわゆるホモ・サピエンス)を人類で無くしてしまうリスクを孕んでいると言えるだろう。「世界終末時計」も、現在では、そのファクターとして、(核)戦争だけでなく、気候変動や新型コロナ感染症蔓延を織り込んでいるのだ。
    本作品では、人類の滅亡に直面した人々が、パニックに陥ることなく、それまでと変わらない日々を愉しみ、(穏やかに)最期を迎えることが、強く印象に残るのだが、それはおそらく、「破滅に直面してなお人には守るべきものがある。人は気高い存在であるべきなのだ。」という著者のもう一つのメッセージなのだ。(解説で小説家の鏡明もそう書いている)
    様々な意味で未来への分岐点にいる今、改めて読む意味のある名作といえよう。
    (2024年4月了)

  • 人類の終末がゆっくりと、しかし確実に近づいてくる。
    作品にはその時を待つ人々の生活と、それぞれの心模様が描かれています。
    どこか諦観しながらも希望を探し続け、絶望し苦しみながらも生き方を考える。
    そこにある人々の生活は希望と絶望の混沌です。

    自身の人間としての生き方を問いかけられた気がしました。

  • 初シュート。人類滅亡もの。WW3の核使用に伴い、北半球から放射能汚染による死滅が始まる——徐々に死にゆく過程が泣かせます…こういう読後感の翻訳ものは個人的に珍しいなぁと。昨日までは何でもなかったのに、ある日突然襲われる放射能の恐怖。死が近づくにつれ、今まで表に出てこなかった人間性が顕著になり、大変興味深いです。現代に生きるすべての人が読むべき作品だ。星四つ半。

  • いやー名作。ドローンとかあったらもっと探索できるのにーと思ってたらこれ1957年の作品だった。
    ひしひしと迫る終末、読んでて息苦しい。それでいて清いという不思議な感覚。
    モイラいい子だった。みんな正しい。

  • 核戦争後の地球、北半球では既に1700発にも上る核兵器とその放射能によって人類は全滅したと思われ、南半球こそ被害は少なかったものの、放射能は赤道を超えて徐々に汚染の範囲を広げてきている…。

    人類滅亡前日譚という、絶望を伴った暗いテーマの小説。ずいぶん昔、多分中学生の時に抄訳を読んだ記憶があるのだが、その時はずいぶん怖いディストピア小説のイメージを持った。放射能障害の描写が「はだしのゲン」のそれを彷彿させて読むのがツラかったことを思い出していた。

    だが、これは解説で鏡明も書いているのだが、大人となった今読むと、この本はそこまで暗い小説には思えず、むしろ人生の生き方のお手本を示されたような感想を抱いた。

    あと数か月で自分たちは確実に死ぬ、と分かっていても、日々の仕事や暮らしをできるだけ変わらず行い、不安や焦燥を持ちつつも、その気持ちを抑え込むだけではなく、その気持ちとともに人間らしく生きていく姿勢。

    この小説で描かれている登場人物たちの生き様を読んで、自分の日々を反省する。
    このレビューを書いている今、まさにコロナ禍、不安や不自由はたくさんあるが、その不安や不自由に必要以上にグラグラと揺さぶられていないか?
    自分ではどうしようもない現実に右往左往して、自分のできることを行わなず、コロナを言い訳にしてその怠惰を観ようとしていないのではないか?

    この時期に読めて良かった。こんな今でもやるべきことをやり、やりたいことを追いかけて自分はきちんと生きていきたいのだと、再認識できた。

  •  終末モノの傑作と言われているのだとか。人類最後の日、あなたならどう過ごしますか?的なアレだ。
     核戦争により北半球が人の住めない地になり、南下を続ける放射能は南半球の豪州にも忍び寄る。もはや助かる道はないと思われ、人類最後の日が刻一刻と迫る。微かな生への期待も持ちつつ、人は人類最後の日にどう対峙してゆくのか。そんな小説。

     大きく二つのことに思いを馳せた。一つは、核戦争というテーマをリアリティを持って読まなかった自分への懐疑。もう一つは、最後の日に向かう登場人物ごとの過ごし方の違いがどうして生まれたのかということ。
     
     まず一つ目、「核戦争」モノであるという側面について。
     この小説は、ある小国の核使用が大戦の原因となっており、1957年という時代に書かれたものでありながら、現代でも説得力のある設定に思える。
     しかしながら、私はこの小説に対し、核兵器や戦争への警鐘としての印象を抱かなかった。巻末の解説に「核戦争にあっては傍観者は存在しないというのが、この作品のメッセージだった」とありここで初めて気が付いた。
     それは平和ボケなのかもしれない。9.11もISによるテロも、日本の外で起こっていることだし、中朝に絡む日米安保体制云々だって、申し訳ないが(←誰に?)政治の世界の話として認識してしまっている観はある。
     この小説に静謐な印象を抱いたのだとすれば、それはとんでもない勘違いなのかもしれない。自分がなんの前触れもなく戦争の当事者になったならば、この小説の登場人物のように振る舞うことなく、戸惑い、暴れたり略奪したりする側になってしまうのかもしれない。
     人類最後の日という思考実験など机上の空論でしかなく、現実にはただ地獄のような光景が広がるのかもしれない。

     それはそれとして、もう一つの「最後の日を迎えるということ」について。
     登場人物毎に、過ごし方は少しずつ異なる。軍人としての誇りを貫き、誠実に生きる者。どうせ最期ならとやりたかったことを叶える者。今まで通りの生活をやり通す者。そしてもちろん、自暴自棄になってしまう者。
     どう過ごすかという問いに、きっと正解は無いと思う。軍人としての規律なんてもういいだろという者もいるだろう、最後まで人間の尊厳を貫くべきだという者もいるだろう。
     ただ、自分なりの答えを出したときに、自分の一番大切にしていたものに気が付くのかもしれないな、と思った。最後の日になってなお、自分の中で揺るがないものがあってくれたらいい。

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