- Amazon.co.jp ・本 (189ページ)
- / ISBN・EAN: 9784560080788
感想・レビュー・書評
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郡司正勝による、童子を中心とした文化論。
大きいもの、強いものを、一般にひとは美とするものだが(「美」という字は大きな羊のことである)、日本人はとかく小さいもの、弱いものに心惹かれる傾向がある。郡司氏はその小さいもの、弱いものの中でも特に「童子」というもののもつ神性や呪力について述べる。
まずは、古くは小子部といって天皇の傍に使える童子を束ねる門部があり、古くから主たる存在に童子が付きそう習俗があったことを指摘する。
童子が天皇の側近に仕えたのは、あたかも遊女に二人禿が伴った形でもあり、聖徳太子画像の二人の侍童のそれであった。(P23)
思えば、日本において仏像が多く両側に脇仏を伴っていることもその一端かもしれない。脇仏は本尊よりも必ず小さく作られるものだ。その点で、その仏たちは人間の形づくるトリオとは明らかに違う。「ふたりの小さい従属を連れているあるじ」がある意味神性を高めているのだろう。
興味深いのは、牛若丸が京の五条橋の上で弁慶とであう場面である。 わたしが想像するその場面では、小柄な少年牛若丸は女装し、高下駄を履き、笛を吹きながら登場する。
怪力の大男弁慶の振り回す長刀をひらりと躱し…というイメージが濃厚だ。
では、このイメージはどこからきたものだろう。
かつて、鹿を呼び寄せる笛は傾城の足駄でつくるとよいという言い伝えがあり、笛と傾城(遊女)が結びつけられた。(P41)
さらに、牛若と弁慶が偶然にも祈念を捧げた五条天神は五条西洞院の天神社で、古くからの傾城町であった。(P43)
ここに、牛若が女の衣をかづいて現れる理由がある。
牛若の女装は、この五条の傾城姿であると見立ててもいい。(P43)
そして、牛若が小柄な少年であることは五条天神から導かれる必然であると説く。
福多氏《misato注・福多久氏》も、少彦名命という小人神が五条天神であるのに注目して、牛若の小童の約束を見立てており、(P44)
ついで、牛若が大男の弁慶と対決し、勝利することは、「神相撲」であると看破し、この有名な一場面を解体する。
巨人と小人を戦わせる「神相撲」の展開であったのであろう。それが牛若という小男が、大男の弁慶を降参させるという説話を構成した。つまり小男にして絶大の力量なり神力をもつということで、これはさらに若宮や王子あるいは童形・童子信仰、さらに遡っては、小子部の雷神信仰とも係わってくる。(P46-47)
我々が(少なくともわたしは)なんの疑問も差し挟むことなく、幾度となく見ていたあの有名な場面―おそらく近年の大河ドラマでもそのような演出であったと記憶している―が、遠く五世紀の小子部の伝承にまで繋がっていることに、驚きと喜びを禁じ得ない。
郡司氏の導く民俗と神の物語は、常に生きた習俗として脈々と歴史を刻んでゆくことを示唆する。
例えば水の呪力を擁する千成瓠を掲げる豊臣家と、日輪の呪物葵(逢ふ日)を家紋とする徳川家の対立(P111)。
瓠の白い花と同じ白旗を揚げる源氏は、日輪、すなわち赤色の旗に敗北して水中に沈む(P112)。
いずれも太陽の勝利であるのは、この国が太陽神を頂点に戴くからだろうか。
それはさておき、「童子」という要素が紡ぎ出す強さ、危うさ、儚さ、それゆえの魅力というものを十分に堪能できる一冊である。詳細をみるコメント0件をすべて表示