- Amazon.co.jp ・本 (292ページ)
- / ISBN・EAN: 9784569671222
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2009.11.21~25読了
<44頁>兼続や実父が仕えた上杉(長尾)氏の系譜は?
直江兼続やその父・樋口兼豊は、天正六年(一五七八)までは上杉謙信に仕えていました。その謙信は前名を長尾景虎といい、次のような事情で長尾姓から上杉姓へ改姓します。
天文二十一年(一五五二)、関東管領、上野平井城(群馬県藤岡市)主であった山内上杉憲政が失領し、越後へ来て謙信の庇護を受けました。憲政は弘治三年(一五五七)には上杉(山内上杉)氏の系図を謙信に譲り、関東管領に就任するように促します。
さて、関東管領は室町幕府の出先機関・関東公方の閣僚のことですが、当時は有名無実な存在でした。それはともかく、関東への出兵を繰り返していた謙信は、憲政の言を奇貨として上杉姓に改姓し、関東管領にも就任します。
次に、長尾氏と上杉氏の系譜について触れるとしましょう。まず、長尾氏は
桓武平氏の子孫で、相模長尾郷(横浜市戸塚区)に住んで長尾姓を名乗りました。鎌倉時代には上杉氏に従い、室町時代には関東管領・山内上杉氏やその分家の家臣となって繁栄します。
長尾氏の一族は関東や越後などの諸国に移り住みましたが、なかでも越後府中(新潟県上越市)の長尾氏は守護代として活躍しました。永正四年(一五〇七)には長尾為景が守護・上杉房能を抹殺し、自立に成功しています。この為景こそが謙信の父なのですが、兼豊が当初仕えていた越後坂戸城主・長尾政景は為景の一族でした。現在では為景の系統を越後長尾氏、もしくは府中長尾氏、政景の系統を上田長尾氏と呼んでいます。前後しましたが、失領した憲政を謙信が歓待したのは、憲政の家が主筋に当たるからに他なりません。
また、上杉氏は勧修寺流藤原氏で、子孫が丹波上杉荘(京都府綾部市)に住んで上杉姓を名乗りました。子孫は鎌倉時代に第六代将軍・宗尊親王の側近となって関東へ下り、やがて山内上杉氏、扇谷上杉氏などにわかれます。のちに、関東管領の職を世襲するようになりますが、憲政の失領に伴って関東における影響力を事実上失いました。
そして、天正六年からの御館の乱の際に憲政が落命したため、山内上杉氏の直系は絶えます。乱の後、謙信の養子・上杉景勝が上杉氏の家督を相続し、慶長五年(一六00)の関ケ原の戦いを経て出羽米沢藩主となりました。なお、守護代は現在の副知事に相当する役職です。景勝の子孫は明治維新まで米沢藩主として存続し、子孫は現在も上杉姓を名乗っています。詳細をみるコメント0件をすべて表示