『鈴木先生』本編で語られなかったエピソードや、スポットライトの当たらなかった登場人物の話が収録されています。
人間の内面の複雑さを深く描き出すものが文学だとすれば、本作は間違いなく文学だと思います。そして、本編同様、本作もしっかり文学しています。
「@真説!ポケットにナイフ(全長版)」は、『鈴木先生』以前に描かれた短編でも扱われたエピソードですが、『鈴木先生』のエピソードとして決定版がでた印象です。
本編では単に鈴木先生と合わない感じしかわからなかった関先生も、このエピソードを見ると「そら合わんわ(笑)」と納得させられました。鈴木先生と教育方針が合わないというより、そもそもこの人に教育に対する哲学がないんだもんなぁ…
「@体育祭、五月晴れ」と「@紺野…演劇特訓!秋の邪念」は、それぞれ女子と男子が主人公で、舞台も違います。が、「目の前のことにひたむきになれず、どうしても余計なことをごちゃごちゃ考えてしまい、集中できない」という共通項により、対照的に読むことができました。
私は、自分が男だということもあってか紺野の方によりシンパシーを抱きました。「みんなと同じように感動"も"したが、心の何%かは別のことに気づいた」という全く別の心情が同時に存在する感覚と、そういう心情のあり方を不純であるとして否定されるやりきれなさ、というのはものすごく共感を覚えるところで、私もよく「あの人は、ものすごくいい人だけど、足が臭いんだよね」みたいなことを言って白眼視されてたりしております。でもね、性格が良いのと足が臭いのは同時に存在する特徴だし、性格の良さは足の臭さをデオドラントしてくれません。
足が臭いのは言うてやるなよ、という話で(笑)、それには同意しますが、これが「善意から出た悪い結果」になると笑い事では済まなくなります。いくら意図が善意に基づいていようと、結果として迷惑を被らされた以上、迷惑を被った側が怒っても仕方ないと思うのですが、世の中には「良かれと思ってやったことなのに、なんでそんなに怒るの?」と逆に迷惑に対して怒ったこちら側を非難する人がいたりします。動機がプラスでも結果がマイナスということも、の性格が良くても足が臭いということも、そして「@紺野…」のエピソードも、一つの事実や対象が同時に異なる(プラスとマイナスの)要素を持つという点では一緒です。
ですが、一般的には感動する対象にツッコミを入れることや、悪人に同情の余地を見出すような人は少数派に属しがちで、多数派から感情的な反発を招きがちです。そうすると少数派は疎外されるわけですが、その疎外感を解消するのは意見を変えることでも我慢することでもありません。同意するかどうかはともかく、特に多数派が自分の依って立つ価値観についてある程度相対化し、別の考え方(特に自分にとって不愉快な価値観)の存在を認めることなんだろうと思います。「@紺野…」の話の救いもまさにここにあり、中村も「@げりみそ」の頃から成長したなぁ…などと色々考えた挙げ句、しみじみしている自分に気がつきました。
最後の同窓会の話は、ものすごく哀愁があって印象深かったです。鈴木先生のクラスの雰囲気になじめなかった男の疎外感に共感を覚えましたが、鈴木先生のクラスの雰囲気にハマってた連中だって100%の信者だったわけではないことを、エピソードを通じて指摘していたのにシビれました。時に鈴木先生を疑い、迷い、悩み、考えながらも真剣に向き合ってきたその心的態度は、外形的には信者っぽく見えるのかも知れませんが、実態は「信者」とは全く異なります。
このテーマは、ある意味で『鈴木先生』と読者の関係性についてのメタな指摘にもなっているわけで、読み終わった後も内容の消化に時間がかかりそうです。
本編を先に読むことを強くオススメします。絶対損しませんから!