新音楽の哲学

  • 平凡社
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  • Amazon.co.jp ・本 (349ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784582702675

作品紹介・あらすじ

この世界のあらゆる暗闇と罪を、新音楽は自らに引き受けた。新音楽の幸せのすべては、不幸を認識することにあり、新音楽の美のすべては、美の仮象を断念することにある。個人であれ集団であれ、新音楽と関わりをもちたいと思う者はいない。その音楽は、耳に届くことなく、こだますることもなく、やがて消えてゆく。"新音楽"は、破局の時代に対する批判たりうるか。待望の新訳決定版。

感想・レビュー・書評

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  • 2-2-1 クラシック音楽論

  • どうも翻訳があまり上手でなく、ふつうに日本語として意味の通りにくい箇所が散見した。だがそれ以前に、アドルノの文章はわかりづらい。彼の考え方が、我々のそれとはあまりにも隔絶しているので、遠くにいる他者が語りかけているような聞き取りにくさを感じる。
    けれどもこの本は、シェーンベルクとストラヴィンスキーを深いレベルで論じており、実に興味深いものがあった。
    言うまでもなくアドルノは「シェーンベルク擁護派」であって、ストラヴィンスキーはシェーンベルクとの対比という意味を込めて併収したらしい。
    とりあえずシェーンベルク論。
    シェーンベルクはロマン派を含め、17世紀初頭以来の「表現豊かな音楽」を乗り越えた地点で十二音音楽を編み出したという。つまり音楽要素を何かの「表現」のために利用するのではなく、むしろ音そのものと戦い、峻厳な思考のなかで構築していく過程において、「無意識やショック、精神的外傷などの生きた心の情動が、ありのままに記録される」(p.62)。
    確かに通俗化されたロマン主義が虚構を必死に描いていたということは理解できる。しかし、「心をありのままに記録した」のはシェーンベルクだけだろうか? 既にモーツァルトの音楽はそういったものだったし、それは何もシェーンベルクとか十二音音楽だけの特権ではなかったように思う。
    また、シェーンベルク一派の「新音楽」によって「音楽はもはや内的なものの証言や写し絵ではなく、現実に対する一つの態度なのである。音楽は現実を、もはや形象において和解させないことにより、認識となる」(p.183)とも書いている。が、現代芸術が「認識である」という指摘は、すでにメルロ=ポンティがセザンヌについて語っていたことだった。これもまた、シェーンベルクだけの特徴とは思えない。

    さてストラヴィンスキーについては、かなり酷評しているのかなと思ったが、そうではない。いやむしろ、アドルノはストラヴィンスキーの音楽性をかなり深く理解しており、ストラヴィンスキー愛好家の私としても、共感する部分がたくさんあった。
    「ストラヴィンスキーの音楽の分裂症的振る舞いは、世界の冷たさに競い勝とうとする一種の儀式にほかならない。・・・それはあらゆる表現を殺してしまう狂気そのものを表現することによって、心理学の言うように単に狂気を発散させるのではなく、狂気そのものを秩序化する理性の支配下に置くのだ。」(p.238)
    分裂症だの幼稚症だのといった精神病理学/精神分析学の用語を使いながらストラヴィンスキー的な狂気をうまく表現している。
    確かに、アドルノが指摘するように、「ペトルーシュカ」においても「春の祭典」においても、そのドラマの内容においては主人公(?)が犠牲者として最後に死ぬ。彼(彼女)を取り巻く外部世界の側に視線があって、これがストラヴィンスキーの「自己消滅欲求」に結びついていることは確かだ。
    そして、ここにストラヴィンスキーの音楽の得難い魅力があると私は思う。「きみと世界との戦いでは、世界の方に荷担せよ」と言ったカフカの言葉をそのまま実践しているのが、ストラヴィンスキーの音楽なのだ。他者たちのまなざし・行動や規律の前で、自己は絶えず引き裂かれ、消滅しなければならない。この衝撃がこの音楽の本質である。
    他者なるものとしての音楽的要素が散りばめられ、「主体」は打ち砕かれてゆく。しかし様々な音楽性を模倣しながらも、ストラヴィンスキーらしい何かがいつも残存している。これはストラヴィンスキーの精神ではなく、身体であり、その体臭なのだ。

    一方で、アドルノがいかに弁護しようとも、シェーンベルクは新しい語法を用いはしても結局、その主観性によって音楽を傾向化したにすぎないように見える。これは方法論ではなく、精神の性癖であり、人間存在としての態勢の問題である。
    むしろシェーンベルクは、結局自我の引力圏の範疇にとどまり、たとえば村上春樹のようにオナニーの常習癖を持ったタイプだと思える。
    それとストラヴィンスキー/カフカ的な厳しさ・他者世界とのぎりぎりの攻防が繰り広げられる場所は、確かにちがっている。
    繰り返すが、これは音楽論の問題ではなく、人間性のちがいだ。

    さてアドルノは、ストラヴィンスキーを称揚するのは「兵士の物語」あたりまでらしく、それ以降の作品を評価しない。それ以後といっても、これは1949年の本なので、ストラヴィンスキーはまだあの魅惑の傑作「アゴン」(1953)やその後の十二音主義作品を書いていない。
    確かにアドルノの言うように、「ミューズをひきいるアポロ」(1927-47)辺りは、私から見ても面白くない、退屈な作品だ。「道楽者のなりゆき」もそうだが、新古典主義時代のいくつかの作品では、ストラヴィンスキーは「他者性」が強くなりすぎて、その他者への感情移入・過剰な推量の結果、他者が自己のコピーにすぎない存在となり、カフカ的な「門」の厳しさが消滅してしまったのではないだろうか。
    しかし思うに、ストラヴィンスキーの最後の十二音主義への転身が凄いのだ。ふたたび「音列操作」が厳しい他者性を呼び出し、晩年の「ムーヴメンツ」「説教、説話、祈り」「レクイエム・カンティクルス」といった得難い作品群に結実する。

    アドルノはシェーンベルクびいきがひどいが、ウェーベルンはどうだろう? 彼の方こそぶっとんでいるとも言えるのだが・・・。

    というわけで、私とアドルノの考えは最終的に違うが、彼の真剣な叙述はいろいろな点でたいへん刺激的だった。ストラヴィンスキーに関しても、なかなか唸らせられる指摘が多かった。

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著者プロフィール

(Theodor W. Adorno)
1903年生まれ。フランクフルトでワイン商を営むユダヤ系の父オスカー・ヴィーゼングルント、歌手でイタリア系の母マリア・アドルノ、その妹で同じく歌手のアガーテのもとで経済的、音楽的に恵まれた幼年期を過ごす。1923年頃からヴァルター・ベンヤミンと親交を結ぶ。1924年フランクフルト大学で哲学博士号を取得。翌年からウィーンでアルバン・ベルクに師事。戦後を知ることなく世を去ったこの二人が哲学と音楽において終生アドルノの導きの糸となる。ナチスに追われ、主としてアメリカで過ごした亡命生活を経て戦後に帰国してからは、フランクフルト大学教授。またそれと並行して本書でも話題に上るクラニヒシュタインの音楽祭に参加し、ピエール・ブーレーズ、カールハインツ・シュトックハウゼン、ジョン・ケージらの作品に触発されつつアクチュアルな音楽批評を展開する。1969年没。主著に『新音楽の哲学』(1949年)、『否定弁証法』(1966年)などがある。

「2018年 『アドルノ音楽論集 幻想曲風に』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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