よいは悪い: 暗黒の女神ヘカテの解決法 (りぶらりあ選書)

  • 法政大学出版局
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  • Amazon.co.jp ・本 (152ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784588021442

作品紹介・あらすじ

完璧なものへのとらわれからの脱却,発想の転換による危機的状況からの脱出,安全性・確実性追求の空虚さなどをパラドキシカルに説いた,軽妙な心理療法エッセイ。

感想・レビュー・書評

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  • 2011.02.08-
    はじめに
    パテンドな解決法とは、元も子もない解決法の事。問題を取り囲むすべての事柄をこの世から取り去る解決法。病人は死んだら病人ではなくなる。核戦争を止めるために世界中の核兵器に爆発物を仕掛ける、等。破滅の女神ヘカテの娯楽。

    第一章 確実さ――あらゆる時代の人間にとって不倶戴天の敵
    人生の問いへの答えを他者に求めてどうするんだ。
    自分を守れば自分を失う。

    ピュティア(巫女:ギリシャ語)
    アポロンを祀るデルフォイの、神託所の巫女。デルフォイはミュケーナイ時代から信仰の中心地だった。巫女は神殿の奥の院に入り、三脚題に座って神の“のりうつる”のを待ち、予言したという。エピクロス学派の哲学者ボエートスはその予言について次のように語った。「預言者にとっては、厳密にいって、予言するのではなく、ただ根拠のない言葉をいう、いやむしろそれらを無限の可能性のうちに投げ入れ、まきちらすことが問題なのだ。これらの言葉が、ゆきあたりばったりにさまよううちに、偶然がそれらとぶつかり、合致することもあるだろう。預言者たちが予言をくだすとき、『うそ』をついていたことにかわりはない。その後に、偶然の経緯がそれらの予言を真実なものとしただけなのだ」

    第二章 二倍は二重によいということについて
    百倍が百倍であることが通用するのは純粋数学の世界においてのみだ。現実では多すぎるのは、少なすぎるより悪い。
    NASAがジャンボロケットを悪天候から守るために巨大すぎる格納庫を造ったら、その中で雨や落雷が起きちゃったって話、マジ?

    第三章 よいことのなかの悪いことについて
    マニ(216-276)はグノーシス派の世界宗教、マニ教の教祖だ。マニ教は一時急激な広がりを見せ、ほとんどキリスト教に取って代わらんばかりだった。マニは急進的な二元論を擁護し、世界を対立関係で裁断した。

    「ほ。怒りんぼうは好きだね、あたしゃ。とりわけ、すぐ怒っちまうやつはね」と、もう一人の魔女がいう。「そういうやつらはあっという間にどこまでもまっさかさまなのさ!」

    二元論の信奉者の精神的な視野はほぼテレビスクリーン並みの広さだ。

    ヘラクレイトスが警告している。極端な態度をとることは、決して二元対立を止揚の方向に動かせはせず、むしろその対立物を強化させるのであると。
    「すべての心理的な極端さは、それに対立するものをひそかに含んでいたり、さもなければ、対立するものと緊密かつ本質的な関係を結んでいる」ユング

    偉大なる思慮は捨て去られしかな
    かくして存す 道徳また義務
    才知、認識の栄えきたるかな
    かくして存す 大いなる飛語
    血縁の者らも不和なるかな
    かくして存す 孝行また情愛
    国乱れ、秩序無きかな
    かくして存す 忠なる僕
    老子 第十八章

    安全、祖国、平和、自由、幸福、あるいはまた何であれ、最上の善に向けて妥協を許さず努力することはパテンドな解決法そのものであり、また、常に善を求め常に悪をつくりだす一つの力ともなっているのである。

    第四章 存在しないもの(と表向きにはいわれているもの)について
     子どもの頃、フランツルは立て札が大嫌いだった。花壇の脇の嫌らしい立て札!そこにはこう書いてあった。「花壇に入ることを禁じる。入った者には罰金を科す」。自由を主張して花壇を踏み荒らして罰を受けるか、みすぼらしい立て札に従うか。目の前に用意されている二つの選択肢のどちらも気に入らないのだ。決心がつかず、なすすべもなく立ちつくしていた時、突然気付いた。「花はたいへん美しい」。彼は世界が持つ無数の可能性を知ったのだ。
     フランツルは彼自身に向かって呟いた。「僕は花壇があるがままに存在することを望む。僕はこの美しさを望む。僕は僕独自の法と権威によって立つ」。すると立て札は何の意味もなくなり、「服従かあるいは反逆か」の、受け入れがたい選択肢は消滅した。彼は二元対立を元とするマニ教的な苦境の局外に立つことを覚えたのだ。
     「わたしに味方しない者はわたしに敵対している」という素直な論理ではもはや彼を把握できない。フランツルにとってこの論理は悪夢だろう。悪夢から逃れるには目覚めるしかない。そして目覚めたなら、たくさんの小さな世界が矛盾無く共存しているのが世界であることを知るのだ。

    「どっちに転んでもパテンドな解決法、選ぶのは二つに一つって状況をつくってやるだろう。――するとどうだ、やつは第三の方法を見つけ出し、厄介事から身をひいちまう。ためしに、卑怯者になるか、さもなきゃ無鉄砲なきちがい沙汰を選ぶか、やつにつきつけてやる。するとあいつは勇敢な行動をとる。やっこさんがうんざりいや気がさすようにし向けてみた。するとあいつはそのうんざりすることに楽しみを追求し始めたのさ」

    不可知論者 神とは、仮に存在するとして、その本質において認識されうることはない。信仰者と無神論者の間の永遠の闘争っていうのはまやかしだ。

    「死にたがる連中ってのは、あの世でもいのちが続くと信じているし、自殺しようってところを他人が発見してくれるだろうと期待している」

    「いくら希望のない事態にたち至ったって、どのみち深刻なものじゃない」

    第五章 よいことの連鎖反応なのか
    ゼロサムゲームとは、二人で遊ぶ賭け事の状態に由来する。この時、一人の儲けはそのままもう一人の損になる。利益(+)と損失(-)を合計するとゼロになる。利益と損失がしっかり結びついている。一方無しでのもう一方は考えられない。
    ゼロサムゲームの競技者は骨の髄までマニ教に染まっている。彼の生涯には儲けか損かの二択しか存在しない。第三のものが存在しないのだ。彼は永遠に続く不安の中にいる。そのため他人の不幸を喜ぶという傾向がある。
    彼はいつも攻撃的かつ防衛的な態度を保っている。そのことこそが彼がこの先ずっと防衛しなければならないという状況を作りだしている。それが転じて、人生は絶え間ない戦いであるという見解の証明にもなっている。このことが、彼にはまったく見えていないのだ。

    第六章 ノン・ゼロサムゲームについて
    人間の歴史の中で、長い間戦争はゼロサムゲームだと考えられていた。敗戦国の失った領土が、勝戦国の獲得物だったからだ。その中で人間の命が失われることは、特別重大な事ではなく、むしろ名誉とみなすよう習慣づけられていた。
    しかし非人間的な状況に受け身で委ねられているばかりでなく、能動的に非人間的な貢献をしなければならないという事実は、人間のゼロサム思考を萎えさせる。敵愾心をむき出しにするより、互いに生き、かつ生かす方が人間には向いている。

    スペインが世界に君臨した時代、スペイン王と彼の政府は植民地に対しナンセンスな指示を与え続けた。現地の人々は宗主国に従って自分たちの生活を苦しめるか、逆らって罰を受ける危険をとるかを迫られた。そのジレンマから第三の選択は生みだされた。“Se obedece,pero no se cumple (従いはするが、完遂しない)”というやり方だ。

    「秩序への愛といった特性を育てるには、人間はまだ未熟だよ。知性の発育が足らない。計画するものがばかげているから、計画をだらしなく無秩序に遂行することだけが、人間をより大きな害悪から守ることができる。」ブレヒト「亡命者の対話」

    ノン・ゼロサムゲームとは、両者ともが得る、あるいは失う選択肢が存在するという事実だ。すべてが失われてしまう核戦争。軌道を修正したり譲歩しあって関係者全員に利益をもたらしうるようにする努力。

    「全体主義にとっては別のシステムがただ存在するだけでも確実性が脅かされるのである」ジャン=フランソワ・レベル
    愛国の恐竜

    第七章 美しい、デジタル化された世界について

    サルとホモサピエンスとの間のミッシングリンク(失われた連鎖)は人間だ。 人類学者のジョーク

    「25時」 バジル・ゲオルギウ ルーマニアの作家 1950
    パソコンに支配された未来の人類 パソコンの支配を容易にするために、人類はゆっくりと気付かないままに人間らしい特徴と法則を投げすて、非人間化している。
    この作品が発表された当時、コンピュータはたぶんまだどの国でも軍事機密だった。
    道具と、それを作り用いる人間との相互の影響は普遍だ。余暇のひとときを、ホメロスの完璧な英訳にいそしむのに充てるロンドン市中の銀行頭取の数は、現実にはゼロと言えよう。肉屋の徒弟から不滅のシンフォニーを作ることに身を転じたのは、ドヴォルザークだけだ。

    パソコンの重要な能力は、論理を推し量ることが出来ること。それも厳密な計算を伴って推論ができることだ。例外は、データの誤入力があった場合だけだ。それをGIGOとイギリスでは言うらしい。garbage in, garbage out(くずを入れたら、くずが出る)の略だ。
    GIGOはこうも言い換えることができる。gospel in, gospel out(福音を入れれば、福音が出る)。数字に置き換えられる世界はすべてデジタル化することができる。
    だが、世界は数字に置き換えられるものだけで存在するのではない(すくなくとも、さしあたりは)。

    量というのは質の一つの特性に過ぎない。

    「しかしそれにしても、他人と生産的な関係を築くかわりに、コンピューターと生産的な関係を結ぼうとすることは、どれほどたやすいことであろうか。コンピューターは気分屋ではないし、完全に誠実で、決して迷わないし、喧嘩する必要もない。報償としてコンピューターが要求するのはクリスタル透度の理性であり、それに対する見返りは大変なものである。」

    「もしわれわれが四六時中、ぞっとする出来事をともに見、ともに耳にしなくてはならないなら、苦悩に満ちた印象を絶えず受けるために、われわれは、われわれに自然に備わっている細やかさ、人間性に対する様々な感情さえついには失うことであろう。」キケロ 紀元前八十年

    ジャン・ボードリヤール フランスの社会学者 テレビを見ることの淫蕩さについて。キケロの憂慮を一層明確にしている。
    毎夜ニュースで取り上げられる血の海、交通事故や暴力行為、そして何よりも絶望的で悲劇的な異例の事態に陥っている人間を、恥ずべき、尊厳のないクローズアップで見せることの野卑な効果のことである。子どもの死体を目の前にした母親。死んでいる人の顔。かろうじて生還した人に対する間の抜けた質問攻め。その人が今最も必要としているのは安心して休むことだというのに。こうしたのぞき見的なさらし方、人間の苦悩に対するひとかけらの配慮もない態度に、淫蕩という表現が大いに用いられるのである。

    第八章 「君の考えていることはきちんとわかっている」ということについて
    「相手も自分のように考えているに違いない」という幻想が、争いを招く。
    相手と自分の共通性を見て、相手も自分と同じように物事を見るに違いないという思いこみが生じる。そして、相手がそうは見ないというので、彼あるいは彼女は気が変なのかあるいは悪意があるのだ、と仮定するのである。

    ジョン・ロック『人間悟性論』

    アナトール・ラパポート ロシア系カナダ人の論理学者 『闘争、ゲーム、議論』1960年
    問題解決のためのテクニック A派とB派が争っていると仮定する。A派に(B派の目の前で)B派の立場を表明させる。B派がその表明演説をまさにその通り、と認めるまで正確を期して行う。次はB派が、A派の立場を相手の満足が得られるまで正確を期して行う。
    相手に対する誠実な好奇心が、双方の問題を和らげる。

    マラ・セルヴィニ=パラッツォリ ミラノの心理学者
    循環照会法 対立している二人の関係についての情報を、第三者に語ってもらう。

    イデオロギーは人を無気力にし、混乱状態に追い込む。それに退屈だ。

    第九章 無秩序と秩序について
    エントロピー 秩序から無秩序へと移行すること
    ネゲントロピー 低次からより高次の秩序へ向かうこと エントロピーの逆 「危険が差し迫るところ、救いもまた萌す」ヘルダリン 無秩序を秩序に導く過程は複雑そのもので、まだ把握されていない。

    争っている二人の人間を思い描いてみよう。葛藤状態では、二人ともその責任を相手に見出そうとする傾向がある。互いに「自分こそがこの葛藤を解消しようとしている」と確信している。それにもかかわらず問題が解消されないのは、「相手のせいに違いない」と思うのだ。(でなければどこに責任があるのか)
    彼らにとって第三のものはありそうもないようにみえる。しかし存在するのだ。なぜならあらゆる関係は(原子間でも、細胞、期間、人間、国家等々何でも)、それぞれがその関係の中に持ち込んできた構成要素の総和以上のものであり、別の性質を備えたものだからだ。
    二つの存在が何らかの関係を持ったら、その関係は「(生物学から見た)新しい存在」であるか、「(心理学から見た)ひとつのゲシュタルト(形態)」だ。

    混沌とした状況から、秩序は生じる。無秩序がなければ秩序も無い。
    ある程度の無秩序を含まない秩序は生存に適さない。完全主義者の夢見る世界は、さらに発展するためのあらゆる可能性を窒息させてしまうのだから。

    第十章 人間性、神性、獣性について
    He who would do good must do so in minute particulars ; the general good is the plea of patriots, politicians and knaves.
    善行を試みるものは小さき歩みにてそれを行うべし。公共の善とは、愛国者、政治家、そして悪党のいいわけである。 サミュエル・バトラー イギリス 風刺家

    育ち、伸び、花開くすべてのものはまさに目の前の「小さき歩み」にて進んでいく

    公共の幸福にまつわるすべての問題へのパテンドな解決法の歴史は、プラトンにまでさかのぼれる。プラトンのいう哲学者は、真理を所有する者だ。秩序を見て、無知蒙昧な大衆には隠されたまま眠っている崇高な秩序を見る者だ。プラトンは自分が真理を所有しているということを確信している。誤って思い込んでいる可能性があるとは、少しも考えていない。(カール・ポパー)

    理想の哲学者を、プラトンは「哲人」と名付けた。哲人はもはやソクラテス的な真理の探究者ではない。

    プラトンは人々の中で最も賢い哲人が絶対君主となり、大衆を導くべきと考えていた。哲人の「真理」が、すべての人間に尊重され、すべての人間がその通りに生きるべきだと。必要なら無知なる者たちの意志に逆らってでも。そのために異論を持つ人間を収容する強制収容所や、異端審問会のような研究所を設立することも推奨していた。

    プラトンは真剣に公共の幸福を達成することを願っていた。
    公共の幸福を目指して非人間的な結論へ到る段階を、詩人グリルパルツァーは、「人間性、神性、獣性」と表現した。

    ところで一番の賢者が誰かを決定するのは、一体誰なのか。

    イデオロギーやスローガンが横行する社会では、少数者の声が聞かれるチャンスはほとんど無い。
    カール・ポパーは、「小さな歩み」の弁護者だ。「世界を幸福にする」という理念からみて、小さき歩みの理念は小さい。

    小さき歩みに沿って世界を幸福にしようと考える人はこう問いかける。
    「無能で不誠実な権力者のもとでも損害を引き起こさないような政治機構を築くにはどうすればよいのか」と。

    偉大なものは小さいものの中に隠れている。独創性を追求するあまり、この洞察はないがしろにされがちだ。

    バグダッドの神秘家シブリは945年に死んだ。彼の友人は夢で死者と会った。友人は彼に尋ねた。「神さまは君をどのように扱われた?」シブリは話した。「神さまは私を御前に立たせてお尋ねになった。…

    神 アブ・バクル、私がどうしてお前を赦しているかわかるか。
    シブリ 生前の善行のためですか。
    神 いいや。
    シブリ 私が誠心誠意礼拝を行ったためですか。
    神 いや、ちがう。
    シブリ 私が巡礼と断食と礼拝義務を遂行してきたおかげですか。
    神 いや、そうではない。お前を赦したのはそのためではない。
    シブリ 私が知識を得るために旅をし、敬虔な人々を訪ね歩いたからですか。
    神 いや、そうではない。
    シブリ 神さま、それでは人々に悟りを開いた功徳のためですね。私はその事を何事にも先んじて行ってきましたし、あなた様がそれに免じて私を赦してくださるかも知れないと思っておりました!
    神 そんなことのために私はお前を赦したのではないのだ!
    シブリ ああ神さま、では何のためにですか?
    神 覚えているかね、お前がバグダッドの路地を歩いていて、子猫を見つけた時のことを。その子猫は寒さですっかり弱りながら、身を切るような冷たい風と雪から隠れる場所を探して家々の壁伝いに駆けていた。お前はかわいそうに思い、抱き上げると、着ていた毛皮のコートのふところにくるんでやった。そうしてその子猫をむごい寒さから守ってやったのだよ。
    シブリ はい、覚えております。
    神 お前があの猫に情けをかけてくれたので、わたしはおまえに慈悲を示したのだよ。

    第十一章 悲しい日曜日
    世の中には自分自身への慈悲心から疎外されている人間がいる。ヤーノシュ・ヤンコがそうだった。ハンガリー出身で、30年代からの祖国の崩壊を体験した世代だった。彼は移住に成功し、そこで何十年ものあいだ快適な孤独のうちに暮らした。ところが55歳の誕生日の朝、突然彼はもう自分自身に満足できなくなったのだ。これまでの心の平安はただの停戦状態でしかなくて、いつも宙吊りになった葛藤が限界を迎えて噴出したような気持ちになった。

    他者が彼の内部を覗くことができたなら、彼の内部が引き裂かれ、一方が非情な支配者となり、もう一方が哀れな犠牲者となっているのを見ただろう。彼は彼自身を絶えずいたぶり、飢えさせ、眠りを奪った。
    ヤーノシュ・ヤンコはその事には気付かなかった。彼はただ自分の中に空虚を覚え、他の人間にはかつて感じたことのない強さで彼自身を憎み、憎しみが増幅していくのを感じていた。彼は自分自身を脅かし、絶えず脅かされていた。肉的には、食欲減退と不眠という症状が現れた。しかし医者にその原因を見つけることはできなかった。

    数ヶ月が過ぎたが、世界の冷たさ、虚しさは過ぎ去らなかった。その間、彼は物質的なつましい要求を(繰り返し自分自身を非難しながら)すべて満たし、いまだ健康体で、自分の周りの生活環境に満足していた。それにもかかわらず、すべてが耐え難かった。もし生きることに何の意味もないなら、生きていくことにどんな意味があるというのだろうか。

    ドストエフスキー『悪霊』

    物理学者はおそらくこういうだろう、ヤーノシュ・ヤンコはこの世界の出来事のエントロピーだけを見ていると。この世界にはネゲントロピーだってあるのだ。ともかくヤーノシュ・ヤンコは決意した。解決は死であると。彼はそう思った。
    外から彼の内部をのぞきこめば、支配者が彼の犠牲者を処刑にすることに決めたように見えたろう。
    ここで重要なのは、ヤンコが固い決心に至ったことであり、単なる憂鬱な気分が差し迫った現実となってしまったことだった。そのとき突然、彼は過去に2回生きるか死ぬかの瀬戸際に立ったことがあるのを思いだした。

    一度目は数年前、ガンの疑いが生じて、その検査をした時だった。それまで彼は(私たちの多くがそうであるように)、苦痛を伴う治療は拒否して、安らかな死を迎えようと決心していた。しかし検査の結果が出るまでの2日間、冷静な決心は崩れ落ちて、死は二者択一のひとつではなくなった。彼はただ生きることだけを考えていた。その事が何よりも彼を驚かせた。死のなれなれしい接近は、生に対する畏敬の念を抱かせしめたのだ。心配することがないと医者から聞かされた時も、その気持ちは変わらなかった。しかし時の経過と共にこの認識も色褪せた。

    二つ目はかなり前のことだ。当時、彼の祖国の多くの人々が生活必需品に事欠くだけではなく、生存さえ悪魔に呪われたように脅かされていた。占領者と、占領者に迫り来る敵軍、そして夜ごとの絨緞爆撃によって三重に脅かされていた。健全で自由な世界へ脱出への道は、死によってしか開けないような状態だった。その時彼は拳銃を一丁持っていた。だが何ヶ月にも及ぶ飢餓と不安の悪夢の日々にあって、彼は一度も世界を無意味と思ったことはなく、考えていたのはいつも生き延びることだけだった。

    「腹を空かしている人間は決して宇宙万物に絶望することはない。そう、彼らは一度もそんなことは考えないのだ」 ジョージ・オーウェル

    これらすべての思い出が甦ってきた時、絶望と嘔吐感に打ちのめされながらも、屍になってしまいたいという望みを抱いていないことを、ヤンコははっきり理解した。そのまま生きていたくはないと思っていたが、死を望んでいるのではないことに気付いたのだ。彼が望み、熱烈に乞い憧れたのは、何か新しい原則、根本的な変換だった。そこで彼はピストルによるパテンドな解決法を投げすて、ネゲントロピーに寄与すべく一歩を踏み出した。つまり彼は、「生の空虚か死の空虚か」という二項対立から抜け出して、探求の迷路に踏み入ったのだ。

    第十二章 これが「それ」か

    迷路が迷路であることが証明されるためには、その迷路を辿る必要がある。これは、構成主義の原理と同じものだ。人間がそれぞれ独自の現実を作りあげていくやり方と同じだ。この方法に従うといつも、「本当の」現実(が存在すればの話だが)について、それが本当の現実ではないと知るばかりだ。

    急進的な構成主義提唱者の一人であるエルンスト・フォン・グラザースフェルドはこう書いている。
    「知識は生体によって組み立てられる。それ自体としては何の形も持たない体験の奔流を、できるだけこれまでに反復された経験のなかへ、それらの経験と確かな関連を持たせながら、整頓しようとするものだ。そこでひとつの秩序が構成される可能性は、構成されたもののなかでこれまでに行われていた方法で、常に決定されることになる。つまり、「本当の」世界とは結局私たちの構成物が破滅しているところに開示するということだ。しかし私たちはその破滅を表現するのに、破滅した構造を築くために用いていた概念を使うしかないし、解明もそれによって行うしかない。私たちが破滅の責任を負わせることのできるであろう世界は、私たちには決してその真の姿を開示し得ないのだ。

    あらゆる知識は科学的だ。なるべく多くの経験を照らし合わせて、共通点を見つける。そして仮定を立てる。もしくは仮定を立ててからなるべく多くの経験を整頓する。
    無秩序な体験の集まりが科学的な理論(秩序)になる。しかし新しい「秩序」を説明するのは、それまでの「無秩序な」言葉を使わなくてはならない。しかも、それが正しいという保証は何処にもない。
    完全な第三者として世界を説明することは、その世界に属する存在には不可能だ。
    っていう意味でいいのかな?ていうか、アレだ。「私が書くことができるのは、私に書けることだけだ」ってやつだ。

    ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』(坂井・藤本訳、法政大学出版局)で「迷路」について触れている箇所。
    「私の文章は、私を理解する者が文章を通して(文章の上で)それを越えて高みに至る場合、おしまいにはこの当の私の文章をくだらないと認識することを、説明しているのである。(その人は言ってみればはしごで登った後に、はしごを片付けなくてはならない)

    人生への問いを自分以外の世界に探し続けた男は、彼が探求者であることを悟った。そのときまで、人生の探究の主題は、彼があまりにその主題のただ中に取り込まれていたために、知られないままのこり続けていたのだ。探求者であることに気付くと、彼は自分が何を探しているのかも知らないでいることを知った。探しているものが何処で見つかるはずなのか、それどころか自分が何者なのかすら知らなかった。だが今や彼は理解した。彼は自分が人生のあらゆる瞬間に、たとえそれがまったくちっぽけな行為であってもあらゆる行為を通じて、この世界に対して問いかけを発してきたということを。それは「これが『それ』か?」という問いかけだ。あらゆる人が渇望して探し求める価値のある何かが存在するのではないか?その何かについて名前さえ知らないとしても。

    『王者への道』に、この問いへの教訓がある。

    ひとの考え出しうる意味は
    永遠の意味ではない
    ひとが名付けうる名前は
    永遠の名前ではない

    彼にとって意味と名前を求めての探求の結末は、ファウストのように世界を駆けめぐり、あらゆる幸福の前髪をつかんでおいて、自分の内なる声に耳を澄ませ、「これが『それ』か?」と尋ねると、「これはそれではない」と答えを返された。彼は、オマル・ハイヤムが『ルバイヤート』に書いたことを繰り返し経験したのだ。「……万物をさまよい巡る、小部屋の片隅に戻るために。だがすべては無だ。しかし無だ。ともかく無だ」。そのたびに彼はまだ正しく名付けていないのだ、まだ正しい場所を探していないのだ、という結論を引き出した。
    彼は探求それ自体を問うことがなかった。そのため探求は果てしのないものになった。捜し物が見つかる可能性のある場所は無限に存在しているからだ。まだ正しい場所を探していない、という誤った結論は取り入れたが、捜し物がそもそも存在しない、というありきたりの可能性を考慮に入れなかった。それゆえそこにあるのは、見出すか見出さないかのマニ教的な対立項だけで、このゼロサムゲームの中に彼は自分を幽閉してしまった。

    彼は数え切れないほど目標を達成し、幻滅を味わってきた。そしてようやく自分が探索者であること、自分が世界に対して発し続けた問いを自覚した。「これが『それ』か?」。そしてある日、偶然に小さな転機が訪れた。小さいが、大きなものを招き寄せるような出来事だった。その転換とは「『これ』がそれか?」ということだ。「『これ』が(あの探し求めていた)それか?」
    すると彼は直ちに答えを得た。「『それ』ではない。それは世界というここ、外部に存在するのではない。ここにあるこれの名前以上の存在であるはずだ」、と。そして知った「名前とは響きのような煙のようなものなのだ」ということを。その瞬間、彼と目の前の「これ」との分離が解消された。(哲学者なら主体と客体の分離と表現するだろう状態が取り去られた。)

    いかなる『それ』もかつてここにある『これ』ではありえなかった。世界が内包していないものを、世界は渡すべくもないはずである、と。そして彼は、自分自身にとって格別に意味深い言葉を呟いた。「私は私以上に私である」と。探索こそがこれまで何も見出せなかった唯一の原因であることが、忽然として彼には明らかになった。捜し物は世界というここ、外部には見つからないこと、人は、自分というものを決して手に入れることができない。
    人は今この瞬間という、時間を超えた充溢の中に身を投げ入れるしかないのだ。

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