- Amazon.co.jp ・本 (155ページ)
- / ISBN・EAN: 9784591121511
作品紹介・あらすじ
手練れの実業家・デュランドーは、「醜さ」を商うという意表を突いた商売で一儲けしようと画策する。人間心理の妙が痛快なゾラの『引き立て役』。「今頃になってわたしは急に花になりかけている」-巴里で出会った年下の青年への恋心を燃え上がらせる、中年の「わたし」(深尾須磨子『さぼてんの花』)。生真面目で世間知らずの医学生ウジェーヌは、貧しくとも健気に生きるお針娘たちに出会い、心を動かされてゆく(ミュッセ『ミミ・パンソン』)。賑やかな華の都、パリを舞台にした喜怒哀楽の物語三篇。
感想・レビュー・書評
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ゾラ『引き立て役』は現代では完全にコンプラ違反で出版できないですね。
ミュッセ『ミミ・バンソン』、ついこの間まで元気だった人が死にかけて、またあっという間に元気に復活するって、そんなのある?ご都合主義もいいところじゃないかと思ってしまったが、誰も突っ込まないのだろうか。
『サボテンの花』、寡婦の私が久々に好みの男に出会って情事に至る、その描写が最高。
94/100
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「引き立て役」
形を変えてありそうな話。
何かを貶めることによって見栄をはり、奢るという人たちは、日常生活でもよく見かける。
その奢れる姿は滑稽なのだけれど、そこに依存してしまう醜さも、悲しい。
双方の姿に、愚かさを感じる。
己だけで堂々と存在できないのは、自由でないな、と思う。
「さぼてんの花」
文章がかたくて、まるで男性が書いているかのような雰囲気だった。
文中からは個人主義や自由を愛する知的さが伝わってくるが、当時としては新しすぎる感覚だったのではないだろうか。
年齢・国籍・言葉など、多くの垣根を越えた、人と人との関係。
人間としての根本の部分で人に恋をする。
かたい文章は強さの象徴かもしれない。
さぼてんの花は、見事に咲いたのだ。
「ミミ・パンソン」
底抜けに明るく、底抜けに奔放で、底抜けに一直線な女の子たち。
その姿は愚かでもあり、魅力的でもあり、豊かでもある。
生命力と若さを感じた。 -
巴里(パリ)を舞台にしたなかなか浮かれた感じの一冊。
ポプラ百年文庫は漢字一文字タイトルがフォーマットだけど、だからって巴………(^-^;
三人とも今まで読んだことなく、ゾラだけは国語便覧で名前と作品名だけ知ってるレベル。
ゾラのは上流階級のご婦人に引立て役の不細工な友達を貸しますっつー胸糞悪くも現代に通じる短編でした。
どれも華やかなパリの街並と熱気、そこに住むしたたかな住人が垣間見える感じでした。
装画 / 安井 寿磨子
装幀・題字 / 緒方 修一
底本 / 『<ゾラ・セレクション>第1巻 初期名作集』(藤原書店)、『マダム・Xの春』(小沢書店)、『世界短編名作編 フランス編1』(新日本出版社) -
ゾラ『引き立て役』
深尾須磨子『さぼてんの花』
ミュッセ『ミミ・パンソン』 -
・ゾラ「引き立て役」◎
なんだっけ、いつかのニュースで見た「ドブスを守る会」を思い出した。
女性の美を引き立たせるためにひときわ醜い女を雇って1時間5フランで貸し出す商売を考えた!という話。
こんどは引き立て役の苦悩にスポットライトを当てたいなどと作中書いているが、書かれてないということは、やっぱりただ単にこれ書きたかっただけでしょ(笑)
なんか、いいなと思った。開放的で。
今の日本でこういうの、書いちゃだめなんですよ。たぶん。
・深尾須磨子「さぼてんの花」×
あぁ、だめだ~ぁ。女の自意識じんましん系の話だ。
苦手だ。受け付けん。詩人の自意識は、かなりやばい。知ってるのだ。
・ミュッセ「ミミ・パンソン」○
そもそも「巴」これ、「ともえ」と読んでいて、「ともえ」ってなんやねんと思っていたんだけれど、「巴里」の「巴」であったらしい。
というわけで三篇ともパリの話だ。
医学部のウジェーヌは熱心なキリスト教の信仰心でもって、人々の享楽や怠惰など戒めつつ、ちっとも遊ぼうとしない。マルセルはそんな彼を目覚めさせようとお針子のミミ・パンソンとくっつけようと画策する。
あしたの食うものにも困るのに、一夜の饗宴に蕩尽する。これがパリジャン&パリジェンヌなのか? とりあえず「しゃれおつ」と言っておけば問題ない。 -
「巴」ネーミングはまあまあ。
くどくどしかった。
ゾラ読もうそうしよう。