- Amazon.co.jp ・本 (283ページ)
- / ISBN・EAN: 9784622004387
感想・レビュー・書評
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ブーバーさんは、我と言うものを「2種類」定義している。一つが、「我―汝」であり、もう一つが、「我―それ」である。いうなれば、汝か、それか。ちなみになぜこのような「―」が設けられているのかと言えば、我=自分が「何と対面しているか?」ということが問題となっているからである。それ=客体であり、このとき我=主体となっている。これはデカルト的な心身二元論的な捉え方であり、現代の物理学的科学観の根底とも言えるだろう。これに対して、「汝と直面している我」とは一体なんなのだろう?これが非常に捉えがたいのである。ただ、言うなれば、これは、「我が一つとなっている」ような状態なのであろう。とはいえ、一つ、というのは単一性とはまた違うのであろう。単一性というよりは、「向かい合い」なのである。つまりは「関係性」なのである。「我―それ」というのはこれらも関係性で結ばれているように一見映じるが、それは、世界から我が分離され、分離された我が世界を一方的に捉えれているのであり、ここに相互性はない。関係性といよりは、分離性や支配性というのが的を射ているように感じられる。ブーバーの言うところの関係性とは「相互性」であり、我は汝と相互に関係することによって、「全人的な我」となりうるのである。
しかし、これは非常に抽象的な物言いだ。ブーバーはこうも言う。「それ」とは、時間的空間的連関であるけれども、「汝」とは関係事象の中に置かれている。時間空間的連関とはこれは有る意味現実的なものであるということであるが、これは、「近代物理科学的な現実」であろう。逆に、関係事象というのはどういうことか?これは、「認識的あるいは直観的または感覚的現実」であろう。要するに、前者が大森が言うところの密画的捉え方であり、後者が略画的捉え方とも言えるが、ブーバーが「我―汝」によって目指しているのは、略画的かつ密画的の両立なのだろうと感じる。ともかくも、ブーバーにとっては、「我―汝」とは「現実的」なのである。これが果たして現実的なのだろうか?あるいは具体的なのだろうか?どうにも、抽象的に感じられるのだけれども、ブーバーは「我―汝」の関係性を、対面を、「現実感」をもって実感しているわけであり、その確信こそが彼にこの一著を著させたのだろう。ブーバーさんはかくして、「我―それ」の功績を認めつつも、本質的には、「我―汝」の関係性が重要なのだと訴える。更にこの関係性は延長されていくことになる。あるいは深化される。一つは、異なる「汝」との対面である。「汝―汝」の対面は当然ありうるのであり、この際には、「相互性」が非常に重要となるが、「精神分析家―患者」や「牧師―キリスト教徒」の関係はこの相互性が例外的に外される。互いに対面してはいるものの、片方はやや超越的に、大胆に言えばいくらか一方的となる。更に言えば、「汝―神」との対面はどうなるのか?これは完全に相互的となることはできはしないのだが、しかし、真摯に向き合うことで我は救済される。ちなみに、「神」とそれぞれの「汝」が向き合えば、我々は一つの中心に向かってそれぞれが向き合っているということになり、我々は神の周りにそれぞれ更に向き合うことによって、中心点とそれを囲む一つの大円が出来上がるだろう。これこそが、ブーバーの到達点なのかもしれないがやはり抽象的だ。ちなみにブーバーは『対話』において賢明にこの「我―汝」の関係を現実社会に適応させようと試みているが、結果として「妥協の産物」となってしまっている感が否めない。そもそも、「我―それ」の関係性によって構築されている社会に、無理やり「我―汝」を当てはめようとすること自体に無理があるわけである。いや、だから、対面すればいいのだろうけれども。ブーバーの言いたいこともわからなくはないのだけれど、我々は真摯に向かい合うべきだとそうすれば「何かが見えてくる」これは確かに俺の直観もその通りだと言ってくれてはいるのでまだ考察が必要か。
ちなみに個人的に面白かったのは、ブーバーは「一瞬間の解脱的な恍惚を否定している」ことである。つまりときおりふっと、我々は「肉体的な制約を脱して自然と一つになった幸福を覚える」ことがあるけれども、これは実は錯覚に過ぎない、と言うのである。つまり我々は我々の根底にある「単一性」へと降下していっただけであり、それは「他者の可能性を排している」だけであり、我々は言うなれば自らの殻に篭もっているだけなのであり、ブーバーにとっては「対面」しなければならないのである。というところか。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
誰かを思いやることについて。関わり方について。ブーバー。