- Amazon.co.jp ・本 (126ページ)
- / ISBN・EAN: 9784622076551
感想・レビュー・書評
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建築家の書く文章は、その建築家の人と設計の本質を
知るうえで、とても当てになると思っている。
皆が真実を書くと信頼している、というのではなく
一定の量の文章を書く中で、
何を語り、何を語らなかったか、
意識していること、無意識なこと、
そして実際の作品ーー
これらを通して見栄を張ったり、何かを隠し切る、
ということがほぼ不可能なほど難しいという
ことではないかと思う。
ズントーの記憶や肌触りに対する感心、好みの重さ、
表層的な意識とのやり取りよりも
深く人の無意識や年月のなかの現実に向き合おうとする
姿勢は、建物を訪れた後でも腑に落ちる、
彼の設計の秘密をよく伝えてくれる資料であると思った。
一方で「物への情熱」2,3の文章に出てくる、
彼の「空間体験」の描写はとてもすばらしく、
読後いつまでもこの印象が消えずに残っているが、
この描写にピッタリ来る建物は、
ズントーの作品ではない。
不思議だ。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
記録
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建築という言葉を知る以前の、自分にとっての建築的体験ってなんだったけと思い返す
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原風景というものを考える一冊
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うまく説明できないけれど、やっぱり私はピーター・ズントーのことが好きだなあと思った。彼の文章が好き。
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記憶
素朴 -
感受の鋭敏、生粋の芸術家だと実感する。
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とりわけ感銘を受けるのは、彼らの芸術作品において、素材が的確かつ感覚的に用いられている点だ。その使用法は、人類により素材の利用についての古来の知識に根ざしつつ、同時に文化的に付与された意味を超えた、素材そのものの本質を顕現させているように思われる。
素材は、具体的な建築のコンテクストのなかで詩的な特質をおびることができる、と思う。そのためには、建物そのもののなかに相応の形と意味のつながりができていなければならない。素材そのものが詩的であるわけではないのだ
バッハの音楽でもっとももっとも印象的なもののひとつは、その「建築性」であると言われる。全体としての構成の感覚が失われることがない。すべての細部が全体のなかで意味を持っている。明晰な構造が作品の根底にあるように思われ、音楽を織りなす糸を一本一本たどっていけば、その構造を統べている法則をおぼろげにつかむことができる
構築とは、多くの細部からひとつの意味ある全体を形作る術である。建造物は、具体的な物を組み合わせて造るという人間の能力を証し立てている。どのような課題を持った建築であれ、その根源的な核にあるのは構築の行為である
直接的で一見無造作な接合の方法には啓発される。これらにおいては、作品の表現と関係のない小さなパーツによって全体の印象が妨げられることがない。全体の理解が瑣末な細部のために誤った方向に導かれることがないのだ。どの接触、どの繋ぎ方、どの接合も全体の理念に奉仕し、作品の静かな存在感を強めている
建築物の大きなプロポーションのなかでの微妙な中間段階は、そのようなディティールの形態によって定まる。ディティールが形態のリズムを決め、建物の尺度を密にするのだ
ディテールは、設計の基本理念がそこに求めているものを表現しなければならない。一体なのか分離なのか、緊張なのか、軽快さなのか、摩擦、堅固さ、それとも脆さなのか
成功したディテールは、装飾ではない。気を逸らせたり面白がらせたりするものではなく、全体の理解につながるものであり、その本質にとって不可欠の一部である。それ自身のなかで完結した造形には、きまって言い知れぬ魔力的な力が潜んでいる。
★自身のなかに安らっているような物や建物をじっと眺めてゐると、私たちの知覚もふしぎに穏やかに和らいでくる、それらはメッセージを押し付けてこない。そこにある。ただそれだけだ。私たちの知覚は静まり、先入観は解かれ、無欲になっていく。記号や象徴を超え、開かれ、無になる。なにかを見ているのに、そのものに意識は集中されないかのような状態。そうやって近くが空っぽになったとき、観る者の心に浮んで来るのは、記憶、時間の深みからやってくる記憶かもしれない。
建築作品が芸術性を持ちうるのは、多様な形態や内容が一体となって、心を動かすような根幹の雰囲気を生むことができるとき。そのような芸術は、面白い形の組み合わせだとか、独創性とかとはなんの関係もない
肝要なのは、洞察、理解、そしてなによりも真実である。おそらく詩とは、予期せぬ真実のことなのだ。真実が現われるには、静けさがいる。この静かな期待の時に形姿を与えることが、建築家の芸術的使命である。なぜなら、建物それ自体が詩的であることはないのだから。それらはある特別な瞬間に私たちがこれまで理解できなかったなにかを理解させるような繊細な性質を宿すことができる
主観的で熱慮を経てゐないアイディアによって乱されることがあるが、それを私がよしとするのは、設計において、個人的な感情というものが大切しているから
感銘を与える建物は、かならず強烈な空間の感覚を伝えてくる
★設計のさいには、自分がいま求めている建築と結び付けられるような、記憶のなかの心象や雰囲気に導いてもらうことにしている
浮上する心象は多くが個人的な体験に由来するものだから、
設計に組み込む特質が、完成した建物の構造的・形態的構成に矛盾なく融合していなければならない
★建物で情感を喚起しようと思うな、情感は生じるにまかせよ、事柄そのものに即し、私は考える。おのれが造るべきものの本質のそばにとどまれ
芸術作品の美ーは曖昧なもの、閉じられていないもの、不確定なものに宿る。なぜならば、そこでは形が多様な意味に向かって開かれているから
★不確実と曖昧の美を堪能するために、彼は自分が目指す曖昧さに達するために、あらゆるイメージの構成に、ディティールの細密な定義に、物や照明や雰囲気の選択に、おそろしく厳密な注意を要求する。
★曖昧さの詩人は、緻密さの詩人でしかありえない
★力や多層性は与えられた建築課題から、つまりその課題を構成している物から育っていく
ジョンケージは、自分が頭の中から音楽が聞こえてきて、それを書きとめるようなタイプの作曲家ではない、といった意味の発言をしている。まずコンセプトや構造をじっくり練っておき、しかるのちにはじめて、それがどんな音になるのか演奏してみるのだと
★あらかじめイメージを描いておいて、それを与えられた課題に即して変えて行く、という方法をとらず、基本的な問いに答える努力からはじめた。立地、建物の役割、素材、、、当面は具体的イメージは伴わない問いであった
★私は理論から出発するようなタイプの、建築史を意識していわば理論でかため立ち位置から設計するような建築家ではない。そうではなく、建築すること、つくる事、完璧に仕上がったものに、とりつかれた人間なのである
既存のものや伝統からのみ発想した設計、建物の場所があらかじめ与えられるものだけを反復する設計には、世界に対する取り組みが欠けている
コンセプトを表現するために役者を利用するのではなく、役者を映画のなかに置いて。その尊厳、その秘密を私たちにかんじとらせる
答えが最初からわかっている問いを出す教師はいない。建築することとは、おのれに向かって問う事、教師の助けを借りながらも、自分で答えに近づき迫り、発見すること、その繰り返し
すぐれた設計をする力は、自分自身のなかに、世界を感性と知性の双方でとらえる能力のなかにある。すぐれた建築デザインは、感覚である、と同時に知性的である
建築を生み出すためには、意識的に素材と付き合わねばならない
建築を具体的に経験するとは、建築の身体に触れること、見ること、聴くこと、匂いをかぐこと
設計のさいにイメージで考えるとは、つねに全体として捉えるということ
構築とは、多くの細部からひとつの意味ある全体を形作る術。
自身のなかに泰らっているような物や建物を眺めてゐると、私たちの知覚もふしぎに穏やかに和らいでくる。それらはメッセージを押し付けてこない。そこにある、ただそれだけだ。
すぐれた設計をする力は、自分自身の中に、世界を感性と知性の双方でとらえる能力のなかにある。すぐれた建築デザインは感覚的である。と、同時に、知性的である
自問してみるといい、かつてある家、ある都市の、なにが自分のきにいり、印象に残り、感動を与えたのだろう。そしてそれはなぜんあおだろう。その空間、その広場はどんなたたずまい、どんな外観だったのだろうか。空気はどんな匂いをし、私の靴音、私の声はどんなふうに響いていたか
音楽が流れてきて、私の書き物の手が止まる。古い録音のミンガスを聴いている。あるパッセージに惹きつけられる。ゆっくりとしたリズムがつくりだす静かな、ほとんど自然なうねりの、とびきり密度の高い、とびきり自由な箇所だ。その脈動の中で。テナーサックスが温かく、ラフに、ゆったりと語ってゐて、私にはその言葉が一語一語ほとんどすべて理解できる。
振動する絵画、純粋な抽象。見るという経験だけを扱ったものね、わたしにとっては純粋に視覚的な作品よ、と彼女が言う。匂いとか、材質とか触感とかいったほかの感覚は出番がない。じっと眺めてゐると、絵画の内部に入っていく。そのプロセスは、集中や瞑想ともどこかでつながっている。
ある一瞬間の強烈な経験、過去も未来もなくなったかのような、時間が宙吊りになったような感じ、これは多くの、いやおそらくすべての場合における、美に触れたときに起こる感覚のひとつだ。美を発散するなにものかが、私の内部になにかを響かせた。過ぎ去ったのち、私は語るーあのときの私は、しっかし自分をもちつつ、同時に世界と一つになっていた、まず一瞬息をのみ、それから釘付けになり、没入し、感嘆し、共振し、おのづと高まり、同時に平静でもいて、
美とは感受である、そのとき理性は副次的な役割しか果たさない。私たちの文化から生れ、私たちの教養に即した美はただちに認識できる、と私は思う。私たちは捉えられたひとつの象徴となった形、姿、造形を見て感動する。自明、静謐、沈着、自然、威厳、深淵、神秘、刺激、興奮、緊張感といった性質の多く、ひょっとするとぜんぶを一体として持つものを
私の心を揺さぶるその姿がほんとうに美しいのかどうかは、形からはただしく判断できない。なぜなら形そのものでなく、その形から私へと飛び来るスパークが、美の体験である特殊な興奮と感情の深度を作り出すからだ。しかし美というものがある、めったに現れず、現われるとしてもたいてい予期しない場所でだが。あると期待した場所にはない。 -
「イメージのなか、つまり建築的・空間的・色彩的・感覚的なイメージのなかで、連想をはたらかせ、奔放に、自由に、秩序だて、体系的に思考することー私がいちばん好きな設計の定義である。」
つまり、多角的なイメージを核とし、それを構成する様々な要素を紡ぎ合わせて設計に落とし込む、と。
また、イメージを作る上で、場所や地勢と徹底的に向き合うことが大切、と。
観念的なものを建築という極めて物質的なものに変換する上で、その曖昧さを孕んだ作業(とその背景)をズントー氏のなかでどうなされているのかが垣間見えた。 -
著者は知的だけどそれだけでなく、感覚を非常に大事にしている、そんな印象を持ちました。
目をそらさずに本質を問う力、内省する力を持っている。
それを短い文章で表現されている。
私たちは一人残らず建築という言葉を聞いたことも無いうちから自身で体験してきた。だからこそおのれに向かうことが建築する事・・・
一流の空間や建築やデザインに触れるべき重要性が示されていると感じました。腑に落ちました。
ものづくりは自分の中からはじまる。 -
初読で二時間。
再読で二十分。
しかも初読時にまったくといってもいいほど頭に内容が入ってこず、意味がわかったのは美しさより建築過程を述べた「ライス・ハウス」だけに等しく、再読時にやっと意味がわかった。
というほど、私好みの美しい文。
「上質」と私が呼ぶもの。
あまりにも美しくて、言葉の並びをただ味わい過ぎて、意味が取れなかった。
思うに、この装丁、文字の字体や大きさや行間字間、判型もそうさせる要因。
ツムトアの作品を見たことはないのだけれど、きっと、とても美しく温かく、風景の一部である建物を作る人に違いない。
建築家は建物にこんなに意味を込めて作っているのか。ただの造形美にはおさまらない、私にはまだ読み取れないメッセージを互いに込めているのか。
ああでも、物のなかったところに物を作る人というのはそういうものか。
感想など書ける筈もないので、美しい文を一部抜粋。
p16
『記号を超えて』
…略…
自身のなかに安らっているような物や建築をじっと眺めていると、私たちの知覚もふしぎに穏やかに和らいでくる。それらはメッセージを押しつけてこない。そこにある、ただそれだけだ。私たちの知覚は鎮まり、先入観は解かれ、無欲になっていく。記号や象徴を超え、開かれ、無になる。なにかを見ているのに、そのものに意識は集中されないかのような状態。そうやって知覚が空っぽになったとき、見る者の心に浮かんでくるのは記憶――時間の深みからやってくる記憶かもしれない。そうしたとき、物を見るとは、世界の全体を予感することにもなる。理解できないものはなにひとつないのだから。
変哲もない日常の、あたりまえの事物のなかに特別な力が宿る――エドワード・ホッパーの絵画はそう言っているように思える。それがわかるには、ただひたすらに目を凝らさねばならない。
p61 建築の身体 観察 9
イタリアのチンクエ・テッレという地域にある小さな海水浴場は、海水浴客の大半がイタリア人で、刺青をした女をびっくりするぐらい大勢見かける、とAが私に言う。そうやって自分の身体を確かめているのだ、刺青によって、自分のアイデンティティを主張している。人口的な生の記号であふれゆがんでしまった世界、哲学者がヴァーチャル・リアリティについて考えるような世界のなかで、身体が逃げ場になっているのだ――
現代芸術のオブジェとしての人間の身体。認識せんがための問いかけ、暴露、ないしは自分のアイデンティティの確認としての身体。そのアイデンティティは、鏡のなかか、他者の眼で見られてようやく首尾よく確かめられるものなのか?
…略…
建築モデル。モデル。美しい身体。賛美されるのはその表面、その皮膚だ。ぴんと張りつめ、ぴったりと密着して身体をすきまなく包みこむ、皮膚。
p75 美に形はあるか? 3
ある一瞬の強烈な経験、過去も未来もなくなったかのような、時間が宙づりになったような感じ、これは多くの、いやおそらくすべての場合における、美に触れたときに起こる感覚のひとつだろう。美を発散するなにものかが、私の内部のなにかを響かせた。過ぎ去ったのち、私は語る――あのときの私は、しっかり自分を持ちつつ、同時に世界とひとつになっていた、まず一瞬息をのみ、それから釘付けになり、没入し、感嘆し、共振し、おのずと高まり、同時に平静でもいて、目の当たりにした姿の不可思議に魅入られていた。喜ばしさ。幸福感。見つめられているとは知らずに眠る幼子の顔。おだやかな、なにものにも乱されぬ美。なにひとつ介在しない。すべてがそれ自身。
時の流れが止まる。体験は結晶して、心象(ルビ:イメージ)となる。深みを指し示すようなその美しさ。この感覚が続いているあいだ、私は事物のまことの本質、そのもっともの普遍的な、どんな思考の範疇にもあてはまらないであろう性質をおぼろげにつかんだ気がする。
p83 14 インガー・クリステンセンの詩「アルファベット」を引用して
…略…
この詩行を読みながら思う。欠如から生まれるとき、美はもっとも強烈な輝きを放つ。私のなかの欠如。美の体験としてまっすぐ私を打つ強烈な表現や感情。味わうまでは、ないことに気づかなかった、あるいは忘れていた、そしていま、今後も永遠にないのだと気づく感情。憧憬。美の体験は私のなかの欠如を意識させる。私が経験するもの、触れるものには、喜びと痛みがふたつながらにある。欠如の痛み、そして欠如の感覚をひきおこす美しい形姿、心に沁みる形の喜び。作家マルティン・ヴァルザーの言葉を借りよう。「なにかが欠ければ欠けるほど、欠如に耐えるために動員しなければならないものは美しくなり得る」
p91 風景のなかの光 月の光
月の光はしずかな反照である。大きく、一様で、おだやか。月光は遠くからやって来る。それが静けさをつくる。地上の物が月光を浴びて投げかける影は、見えないけれど別々の方向を向いているのではないだろうか、と私は想像する。私の裸眼には捉えられないけれど。地上で照らされている物と光源とがなす壮大な角度を知るには、私が小さすぎるか、距離が小さすぎる。
光と影について――月の光と影、太陽の光と影、私の部屋のライトが投げかける光と影について調べはじめると、尺度(ルビ:スケール)と寸法(ルビ:ディメンション)の感覚が得られる。
以前から光について本を書きたいと思っていた。光ほど永遠を思わせるものはない、といま読んでいるポーランドの作家アンジェイ・スタシゥクの本『デュクラの背後の世界』にある。出来事も事物もおのれ自身の重さゆえに止まるか、消えるか、滅びる。わたしがそれらを眺め、描写するのは、ひとえに、それらが光を遮るからであり、光に姿をあたえ、私たちが理解できるような形態にして見せてくれるからである、とスタシゥクは述べている。
p93 太陽の光
無数の小さな光点――夜空の星、森の蛍、夜の人工灯。みずから発光したり反射したりする小さな物体。たとえばシャンデリアのガラス玉。
宇宙からやってきて地球表面に届く太陽光、日光は大きくて強くて方向性を持つ。ひとつの光だ。
p95 風景のなかの光
<風景のなかの光>。オーストリアの詩人フリーデリケ・マイレッカーは、さまざまな翳りを見せる、きわめて自伝的とおぼしい詩集に心象としてこのタイトルをつけた。ひとつひとつ重ねられる言葉の素材が心の内外の風景を描き出し生み出すなかで、詩行はくり返しその翳りを破り出て、輝く。
個人の抱くさまざまな風景。憧れ、人を喪った悲しみ、静けさ、歓喜、孤独、安心、醜さ、傲慢、誘惑などの心象や風景。私の記憶のなかでは、どれもがそれぞれに固有な光をおびている。
そもそも光なくして事物を想像できるだろうか?
…略…