日野富子:政道の事、輔佐の力を合をこなひ給はん事 (ミネルヴァ日本評伝選222)

著者 :
  • ミネルヴァ書房
3.00
  • (0)
  • (1)
  • (2)
  • (1)
  • (0)
本棚登録 : 11
感想 : 4
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (232ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784623092284

作品紹介・あらすじ

日野富子(1440年から1496年)八代将軍・足利義政の正室。
将軍正室として政治に関わる一方、様々な悪評も高い日野富子。本書では、応仁の乱など激動の時代にあって、夫義政の政治を支え、また後継者を育てるべく、御台所として精一杯その役割を果たそうとした姿を明らかにする。

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 論旨は基本的に前著「足利将軍の御台所」と同じで、応仁の乱勃発後に御台所として幕政に貢献する姿が描かれている。ただ、重複記述や前後の文章の繋がりがちぐはぐな点がしばしば有り、申し訳ないが正直なところ読むのが少々大変だった。

  • 80才でも研究書って書けるんだ(´・ω・`)!
    女性学者さん、室町期の公家・寺社・武家に根強く男尊女卑思想が浸透している中で、富子は性別を超えて与えられたポジションで精いっぱい誠意を持ち努めた「健気な女性」と偉人風に書いている
    アタクシは鎌倉・室町の武家は夫亡き後は当主の役割を勤めている(著者も書いている)意外と同格な扱いと見ているのですが・・・

    勝手に思っている知見が少し違う
    1.義視は富子が義尚を産み9代将軍に成れなかった恨みを持ち続けた(だから小河第破却をした)
    2.尋尊の記述から、富子が畠山義統に千貫貸し付けた

    (1.)は、義視が目の前の試練から逃げ出し、西幕府の将軍になっただけでは?破却は感情的だけど、富子が義視を差し置いて義尚を将軍につけようとしたかな?
    (2.)は、尋尊の書き間違いで、畠山政長に課したのではなかろうか(呉座説)

    代々、日野家は足利将軍家の正室だったが、富子の兄が「義教」の恐怖から日野家は再び将軍の立場を強化し、代々嫁を出し続ける必要があった(本書にも明応の政変で将軍となった義高(義澄)にも富子の甥永繕の姉妹を正室にしたとある(=姪で良くね?)
    富子は義視・義材と対立しないと思うのだが・・・

    「上様」として富子が執政していた様子や、山城国一揆など興味深く読めました
    明応の政変もアッサリと書いてますが、富子の関与とか政治的な意味とか大きいのではないか?
    もう少し富子視線の明応の政変を調べたいものだ

  • 本書の内容とはズレるが、以前から日野家がなぜ足利将軍家の正室を多く出せたのかというのが疑問であった(今もだが)。朝廷と武家(室町幕府)とのつなぎ役であったこと。その背景には、最新の学問である朱子学を吸収し実務で活かし、特にその教育を受けた女性の役割が大きかったことが考えられる。本書に出てくる日野宣子は賢明な方であったようだ。そういう、家に育った「上様」富子も当然、そうして育ったことだろう。公家に育った富子は当然、朝廷は大事であり、だから多額の献金を頻繁におこなっていたと思う。それは、夫義政、息子義尚のためでもあったのだろう。
    ただ、本書で「上様」富子を「いい人」に描きすぎてないかと思う。特に明応の政変での役割が関わりがなくサラッと書いていることに「ホンマか」って思ってしまう。いずれにせよ、本書のみで判断せず他の本も読んで自分なりの「御台所」富子を考えていこう。
    はじめの疑問と関わるが室町時代の女性の役割というものに、また興味が増した。(R03-0907)

  • 東2法経図・6F開架:289/Mi43/222/K

全4件中 1 - 4件を表示

著者プロフィール

1941年、兵庫県生まれ。1969年、京都大学大学院文学研究科博士課程修了。現在、京都橘大学名誉教授、文学博士 ※2022年4月現在
【主要著書】『山内一豊と千代』(岩波書店、2005年)、『細川ガラシャ』(ミネルヴァ書房、2010年)、『足利義政と日野富子』(山川出版社、2011年)、『室町将軍の御台所』(吉川弘文館,2018年)

「2022年 『女人政治の中世 北条政子と日野富子』 で使われていた紹介文から引用しています。」

田端泰子の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×