源氏物語を楽しむための王朝貴族入門 (578) (歴史文化ライブラリー 578)

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  • 吉川弘文館
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  • Amazon.co.jp ・本 (240ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784642059787

作品紹介・あらすじ

『源氏物語』の舞台である、光源氏や頭中将らが活躍する宮廷は、史実と異なる設定を加え巧みに描かれた世界だが、実際の王朝社会とはどこがどう違ったのか。天皇の多忙な一日や宮中のしきたり、「中将」の仕事内容、皇女たちの結婚など、貴族の日常生活をわかりやすく解説する。現実の王朝時代を知ると、『源氏物語』がよりいっそう楽しめる。

感想・レビュー・書評

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  • 繁田 信一 - Webcat Plus
    http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/creator/752199.html

    源氏物語を楽しむための王朝貴族入門 - 株式会社 吉川弘文館 安政4年(1857)創業、歴史学中心の人文書出版社
    http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b630511.html

  • 王朝時代の貴族というと、物語に登場するそればかりを見てうっとりし、それしか知らないが、とうぜんそれらはフィクションの中の理想化(あるいは映え化)された姿なわけで、実際は貴族の全てがそんなに煌びやかなものでもなかっただろう。それを、このように学者がきちんとリアルな姿を提示してくれると、ありがたい。とても興味深く、勉強になった。

  • 桃山学院大学附属図書館蔵書検索OPACへ↓
    https://indus.andrew.ac.jp/opac/volume/1327028

  • 配架場所・貸出状況はこちらからご確認ください。
    https://www.cku.ac.jp/CARIN/CARINOPACLINK.HTM?AL=01426519

  • 210.3-S
    詩歌・古典コーナー

  • 「一条天皇には、兄弟もいなければ、姉妹もいない。彼は、王朝時代の天皇には稀な、一人っ子の天皇なのである。そして、一条天皇を産んだのは、女御の藤原詮子(あきこ)であったが、この事実こそが、円融天皇の運不幸の元凶であった。というのも、円融天皇は、詮子の父親の右大臣兼家とは、ひどく折り合いが悪かったからに他ならない。

    円融天皇を嫌う兼家は、娘の詮子が皇子を産むと、その皇子を円融天皇に会わせることを、かなり徹底して拒否した。それゆえ、円融天皇は、在位中、数えるほども一人息子に会うことができなかったという。が、兼家は、ただの嫌がらせとして円融天皇に皇子の顔を見せなかったわけではない。兼家が望んでいたのは、自身の祖と孫にあたる皇子を一日も早く即位させて、自身の祖と孫である天皇の摂政として権力を掌握することだったのであり、この野望のために、円融天皇には一日も早く退位してもらうことだったのである。だから、皇子の秘匿は、兼家にしてみれば、円融天皇との政争であった。

    そして、円融天皇は、皇子を人質とした兼家の恫喝に屈してしまう。気の毒な天皇は、一人息子に会いたい一心で、兼家の望むままに、退位して上甲となったのである。

    ところで、円融上皇はと言えば、何とも幸せそうな上皇であった。彼は、不本意な形で玉座を下りたにもかかわらず、その後の生活を、たいそう楽しんだのである。」p.64

    「天皇を父親とする源氏は、世に「一世源氏」と呼ばれて、たいへん尊ばれていた。」p.99

    「村上天皇控除の康子内親王と結婚したのは、道長の父親の兼家であったが、この結婚に兼家が望んでいたのは、皇女と結婚することであって、康子内親王と結婚することではなかっただろう。兼家としては、相手の皇女は誰でもよかったのであった。」p.105

    「伊勢神宮では、例えば、仏教に関わる言葉を口にすることさえもが、厳しく禁じられていた。しかも、その禁制は、きちんと法制化されてもいたのである。」p.132

    「東側から天皇を守るのが左近衛府であり、西側から天皇を守るのが右近衛府であった。これは、中国に起源をもつ東アジアに共通の考え方で、玉座というのは常に南を向いていて、玉座にある王から見れば、左は東となり、右は西となったからである。天皇の東側を守る親衛隊が左近衛府であって、天皇の西側を守る親衛隊が右近衛府であった。」p.196

    「王朝時代の平安京に暮らした人々の間では、ただ「花」と言えば、桜を意味した如く、また、ただ「山」と言えば、比叡山を意味した如く、ただ単に「祭」と言えば、賀茂祭を意味するものであった。平安京の鎮守である賀茂社の例祭は、それほどまでに、当時の都の住人たちにとって、重要なものだったのである。

    ただ、彼らが賀茂祭(4月の二回目の酉(とり)の日(中の酉の日))を重要視していたのは、必ずしも信仰心からばかりではなかった。平安京の住人たちは、だれしも、内裏から賀茂の矢代へと向かう勅使の行列を見物することを、恒例の娯楽としていたのである。そして、それは、貴族層の人びとも、庶民層の人びとも、全く同じであった。」p.205

  • 皇子や皇女の数は今よりずっと多かったのは考えてみれば当たり前なのだけれど、皇女の未来展望のなさ加減が半端なくて悲しくなった。そして近親婚による問題はやはりあったのだなぁと。
    源氏物語がなんか読むと不快になる理由があらためてよくわかった。美しくも切ない恋物語とか、光源氏素敵とかとても感じられなくてすんません。

  • 2024年1-2月期展示本です。
    最新の所在はOPACを確認してください。

    TEA-OPACへのリンクはこちら↓
    https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/opac_details/?bibid=BB00610917

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著者プロフィール

1997年東北大学大学院文学研究科博士課程後期単位取得退学。2003年神奈川大学大学院歴史民俗資料学研究科博士後期課程修了、博士(歴史民俗資料学)。神奈川大学日本常民文化研究所特別研究員、同大学外国語学部非常勤講師。著書に『陰陽師』(中央公論社)、『平安貴族と陰陽師』『呪いの都 平安京』(以上、吉川弘文館)、『殴り合う貴族たち』『王朝貴族の悪だくみ』(以上、柏書房)、『天皇たちの孤独』(角川書店)などがある。

「2008年 『王朝貴族のおまじない』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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