カナダの歴史を知るための50章 (エリア・スタディーズ156)

著者 :
制作 : 細川 道久 
  • 明石書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (384ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784750345062

作品紹介・あらすじ

多民族共存の平和国家といわれるカナダだが、その歴史は大国に翻弄され続けた苦難の道でもある。17世紀のフランス人の入植以降から現在にいたる政治史を中心に、先住民・移民をテーマに論じたトピックも盛り込んだ、コンパクトでありつつ充実した歴史案内。

感想・レビュー・書評

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  • 「誰も知らない『赤毛のアン』 背景を探る」(松本侑子)でのプリンスエドワード島の歴史の項目が初めて知ることでおもしろく、これを読んで「赤毛のアン」の中の、カスバート家のフランス人少年の雇人の描かれ方に目が行き、またミクマック族がプリンスエドワード島にもいたはずだが、「赤毛のアン」には出てこない、などのことから、カナダの歴史に興味が湧き読んでみた。

    疑問点はカナダのフランス人、アメリカ西部劇にみられるような白人対先住民の抗争はあったのか?

    <カナダのフランス人>
    「アカディア」と呼ばれる、ノヴァスコシア、ニューブランズウィック、プリンスエドワード島からなる「アカディア」地方は最初フランス人が勢力を持っていた。

    が、イギリスとフランスの最後の植民地抗争であるフレンチ・インディアン戦争のさ中1755年、イギリスは約15000人いたアカディア人に対し強制追放を命じた。土地や財産は没収され多くは13植民地など各地に離散し、アカディア人社会は壊滅した。

    英仏戦争終結後、帰還が認められたが、すでにイギリス人が占拠していたため不毛な土地での生活を余儀なくされた。~「赤毛のアン」のプリンスエドワード島でも多数のアカディア人が存在した、と記してある。

    ちなみにモンゴメリーの父方曽祖父がケベックに移住するためスコットランドを発ったのは1769年。祖父はプリンスエドワード島の立法府やカナダ上院議員(約20年間)を務めたので、モンゴメリーはイギリス人優位の感覚を持っていたと思われる。

    この悲劇はアメリカの詩人ヘンリ・エドワーズ・ロングフェローの「エヴァンジェリン~アカディアの恋の物語」(1847)で知られるようになった。

    アカディア人はアメリカ・ルイジアナ州にも渡り「ケイジャン」と呼ばれる。

    アカディアに続いてヌヴェル・フランス(ケベック・モントリオール、トロワリヴィエール)にもイギリスは侵攻し勝ち、ついに1763年、パリ条約で正式にイギリス領となり「フランス植民地期」は幕を閉じた。~がこれがフランス系住民の北米でのサバイバルの歴史の始まりであり、今日のケベック州分離独立運動の原点となった。

    <先住民>
    白人の入植者と現地の先住民の子供はカナダではメイティ(メティス)と呼ぶ。他地域の混血が単なる性的はけ口であったのに対し、限定的な期間であったにせよ、正式な婚姻緩解が形成された。これは、最初は白人女性の入植が認められなかったため、また毛皮交易会社の方針として、先住民と良好な関係を維持するほうが毛皮交易人に有利だったため。先住民妻は交易の仲介者の役割を果たし、また生きる技術~動物の保存、カヌーの作り方など交易所の運営を支えた。が18世紀末には白人と先住民の関係が悪化したが、そのころには混血子孫のメイティ女性が新たな結婚対象となった。しかし白人女性の入植が認められるとメイティ女性への偏見が強まった。19世紀半ば、毛皮交易は収束に向かい、農業植民地が展開し始めるころから、宣教師たちは現地流結婚を批判しはじめ、白人女性と先住民女性に階層構造ができた。・・優しい絆の時代は農業社会の到来とともに幕を閉じた。 

    <毛皮交易会社>
    1534ジャック・カルティエ一行がセントローレンス川を探検。フランス系が「百人会社」、
    1670にイギリスの「ハドソン湾会社」(現場を知らないロンドンの委員会が設立。ハドソン湾岸に留まり先住民とは規制傾向。)設立。
    1783モントリオールの大商人たちが「北西会社」設立。社員はノーウェスターと呼ばれる。従業員規模ではハドソン湾会社を大きく上回り、積極的に内陸に進み、先住民と親密な関係。現場経験が豊富なスコットランド系カナダ人交易者を士官に抱え、ワヤジュールと呼ばれるフランス系カヌー漕ぎを雇い、フランス人の交易方法を引き継ぐ。
    1793、ロッキー山脈を越え初めて陸路で太平洋岸に到達した探検家アレクサンダー・マッケンジーもノーウェスター。
    1812、劣勢だったハドソン湾会社の第5代セルカーク伯は、ハドソン湾会社への食糧を供給できるように、レッドリヴァー植民地を建設し、土地を追われた同胞スコットランド人農民を移住させ、最初の農業移民団を送り込む。
    1821、ハドソン湾会社が北西会社を合併。
      ・・のち毛皮交易はコストに比して利益を上げられなくなり、乱獲によるビーバーの個体数激減もあり毛皮交易会社は終焉に向かう。

    <先住民>
    1763、イギリスは「国王宣言」で「インディアン領土」を定め、入植者がイギリス国王の許可なくインディアン領土に立ち入るのを禁じる。
     ~先住民との間に31の条約
    1867 カナダ自治領成立(連邦結成)
    ~1921、までに先住民との間に11の条約
    〇現在のカナダ国土の大半は連邦結成後の条約によって、先住民から取得した土地。
    〇イギリス国王は先住民に対し、土地の放棄と引き換えに、リザーブと呼ばれる指定保留地を設定し、保留地内の生活等を保障した。が先住民との合意が十分なされないままだったといわれる。カナダ全土の土地が対象ではなかった。
    〇先住民はカナダの国家建設にともなって保留地に「追われた」 1995、先住民権を憲法で保障したり先住民自治政府が存在(4つ)してているが、保留地の住環境は劣悪なところが多い。

    <先住民の反乱>
    1869-1870 レッドリヴァーの反乱
    1885 ノースウェストの反乱
    (1885.11.7 カナダ太平洋鉄道の完成)
     西部地域を準州に引き入れる過程で、先住民蔑視のイギリス系プロテスタントと先住民、混血のメイティが対立。上記の反乱はメイティであるルイ・リエルが主導。
     二つの反乱の影響
     ・カナダにおける先住民の周辺化が方向づけられた。
     ・メイティがイギリス系プロテスタントによる強引な支部膨張の犠牲になったと感じた、フランス系カナダ人は、特にケベック州外で自らの言語・文化維持に不安を抱く
     →イギリス系カナダ人、フランス系カナダ人の対立
     →プロテスタントとカトリックの対立 の解決がこれからの国家像の問題となる

    <ロイヤリスト>
    アメリカ独立戦争時に13州を離れた人々。多くはイギリス系だが他の民族や先住民もいた。これがアメリカ合衆国と英領北アメリカを分けた。約10万人が離れたが約3分の1がイギリス本土へ、3分の1弱がイギリス領西インド諸島へ、約5万人が英領北アメリカに到来。これでフランス系が多かった北米アメリカでイギリス系がまとまった人口を得た。
     <黒人ロイヤリスト>
    イギリス側につくことで自由を約束された黒人のうち3000人以上がノヴァスコシアへ移住。土地を与えられたが白人より不利な土地だったので1792年,約1200人の黒人ロイヤリストはイギリス援助の下西アフリカのシエラレオネに再移住。
     <イロコイ族>
    2000人が来た。クインティ湾周辺とグラント川流域に保留地が与えられた。
     <無償の土地下付>
    沿岸植民地へのロイヤリストは無償で土地が与えられた。
    ケベック植民地西部にも無償の土地下付目当てで多くのアメリカ移民が続々到来。
     <ロワーカナダとアッパーカナダ>
    ロイヤリストはイギリス流の制度を要求。フランス系と対立したので、ロワーカナダ(フランス系が大多数で現ケベック州南部)とアッパーカナダ(英語・イギリス系が住む。現オンタリオ州南部)に分割。

    <1812年戦争>
    1807 英仏双方が海上封鎖。アメリカの立場微妙に。アメリカ西部出身の議員はイギリスが先住民に武器貸与しているとして、この際先住民に見方するイギリスと戦いアッパーカナダを併合すべき、という機運。アッパーカナダでは1792以降初代総督シムコーがアメリカからの移民奨励策。単に土地目当てのアメリカ移民が人口の8割に。アメリカから見るとアッパーカナダはほとんどアメリカ。
     1812.6.19アメリカは対英戦線布告。アッパーカナダ人、ローワーカナダ人(フランス系)、先住民、はイギリス軍について、アメリカ軍を阻止。
     1814.12.24 ガン条約:戦前の状態に戻す。 
     1818協定 ウッズ湖からロッキー山脈まで北緯49度線でアメリカと英領北アメリカの境界設定→北米大陸の先住民は分断されてしまった。英領北アメリカ内の先住民は、その後のヨーロッパ系移民の増加もあいまって、影響力を失ってゆく。

    <移民>
    第一次、第二次大戦の戦間期には中央ヨーロッパからの移民が来た。大陸横断鉄道建設にともない、労働力としての定住支援を鉄道会社に任せた。ウクライナからは67000人が。うち55000人が鉄道協定による移民。

    <人種比率>
    2011国勢調査
    メイティ45万人(1.4%)

    <日系人・中国系> カナダでも強制収容はあった
    1877 最初の日本人移民永野萬蔵がカナダに到着
    1880 連邦政府、カナダ太平洋鉄道会社と大陸横断鉄道建設契約調印
    1880 中国人移民に50ドルの人頭税
    1885 カナダ初の大陸横断鉄道:カナダ太平洋横断鉄道完成
    1900 中国人移民への人頭税100ドルに引き上げ
       日本政府がカナダへの移民を自粛
    1903 中国人移民人頭税、500ドルに引き上げ
    1904 オタワに日本総領事館開設
    1914 駒形丸事件
    1923 中国系移民を禁止
    1925 鉄道協定(中欧・東欧系移民を誘致)
    1929 初代駐日カナダ大使マーラー、初代駐加大使徳川家正
    1941 日本人を適性外国人に指定
    1942 日本人に強制移動命令(太平洋沿岸から内陸へ)アメリカが新たに一か所に強制収容所を建設したのに対し、カナダでは何か所かに既存施設に分散。18-45歳の男性はロッキー山脈の道路建設現場へ。これに対し数百名の家族が抗議(アメリカで立ち退きに際し集団的抗議は怒らなかった)

    1943 日系人の財産処分開始。日系人が戦後戻りにくくする、退役軍人など他のカナダ人に払い下げる、強制移動の費用にするため。差し引き財産が日系人に渡された。
    1945 日系人に強制送還命令
    1947 日系人への強制送還命令を撤回
    1949 日系人に対するヴァンクーヴァーの防衛地域指定を解除
    1951 日本との通商再開。オタワに日本大使館開設。

    <東洋英和学校>
    1884 東京麻布に「東洋英和学校」設立(カナダ人が日本で最初に設立したプロテスタント系ミッション・スクール) のちに1887静岡女学校、1889山梨英和女学校も設立。村岡花子は東洋英和学校の初期の卒業生。カナダ人から英語教育を受け山梨で英語教師。


    2017.8.10初版第1刷 図書館

  • 【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
    https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/688138

  • 東2法経図・開架 251A/H94k//K

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著者プロフィール

1959年岐阜県生まれ。東京大学文学部、同大学院人文科学研究科博士課程をへて、現在、鹿児島大学教授、博士(文学)。カナダ史、イギリス帝国史。
著書に『ニューファンドランド――いちばん古くていちばん新しいカナダ』(彩流社 2017)、『カナダの自立と北大西洋世界――英米関係と民族問題』(刀水書房 2014:第1回日本カナダ学会賞)、『「白人」支配のカナダ史――移民・先住民・優生学』(彩流社 2012)、『カナダ・ナショナリズムとイギリス帝国』(刀水書房 2007)、『カナダの歴史がわかる25話』(明石書店 2007)、編著に『カナダの歴史を知るための50章』(明石書店 2017)、訳書に『ルイ・リエル――カナダ白人社会に挑んだ先住民の物語』(彩流社 2021)、『カナダ人権史――多文化共生社会はこうして築かれた』(明石書店 2018)、『カナダ移民史――多民族社会の形成』(明石書店 2014)、など。

「2022年 『シンボルから読み解くカナダ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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