- Amazon.co.jp ・本 (208ページ)
- / ISBN・EAN: 9784755401077
作品紹介・あらすじ
サバイバーよ、勇気を出すな。"性暴力やセクハラ被害に遭ったら「泣き寝入り」しないで、「勇気を出して」裁判を起こして闘いましょう"そう簡単に言ってしまえるすべての人へ-。一人芝居『私は生き残った』を全国各地で上演し、深い感動を呼んでいる高橋りりすの初のエッセイ集。
感想・レビュー・書評
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アメリカ留学の際に、現地の指導教官からセクハラ被害を受けた当事者による書。そのようなセクハラ被害にあった立場にありながら、しかしそのことをめぐる体験を日本のフェミニズム団体においては支持されず、むしろおなじフェミニストからなぜか非難されたり、支援を得られなかった経験を本にまとめたもの。
前半はこの、「支援を得られなかった」という事実についての調査から始まり、後半以降は「当事者の言葉に共感しようとしないフェミニズムの矛盾」を、その論理に肉薄する形で考察していく形になっている。
僕個人としては、そこで述べられていたメインの出来事そのものよりも、「性暴力に立ち向かうには裁判を起こすべき」という「裁判一辺倒」のあり方への批判的考察のほうが興味深かった。
というのも、ぼく自身がある裁判に当事者として関わっているが、そこでは取り組みながらもモヤモヤすることが多数あり、著者の感じるモヤモヤは(裁判の当事者としてのものではないにしても)僕の体験に通じるものがあると思ったからだ。
というか、これは社会的に注目されるような裁判に取り組んでいる人あるあるのことなのだろうと思う。一緒に取り組んでいる弁護士に対して、なんとなく納得できないような感情を抱いたりするのだが、しかし「わざわざ裁判引き受けてくれるのも事実だしな」とか思って、あまり公言せずに内に秘めたり。根本的には、裁判というフォーマットが多様な現実を極めて狭い幅で解釈する場であることから生じる問題だろうなと思う。そのことを弁護士も周囲の人もわかってほしい。裁判は一定のフォーマットに乗ることができる時にのみ発動する「ゲーム」「フィクション」にすぎないのだと。
それから、この本で「誰がサバイバーなのか」「誰が当事者として発言できるのか」という議論について「私のことは私に喋らせろ」という極めてシンプルな意見を提示していることが良かった。「あなたはあなたの問題の当事者かもしれないが、私のことは私に喋らせろ」と。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
けっこうしんどかった。読み飛ばしちゃいけない。
読むごとに頭に浮かぶことを流さずに考えたくて、ゆっくり読んだ。
「私の与えるものを素直に感謝して受け取るならば愛してあげる」という親みたいな善意を怖いと思った。
だけど私は多分そういうことを平気でする側だ。
理論は武器。武器を使って守りたいものは感情。
理論に合わせて感情を殺させるような(しかも殺されるのは自分ではない)本末転倒をしないように、こういう視点を忘れちゃいけない。 -
高橋りりすさんの芝居「私は生き残った」を見て、その後この本を読んだ。りりすさんの第一印象は、意思が強そうではっきり物を言う聡明な方、なんだが、そしてそれはたぶん実際そうなんだが、でも、何かを言うか言わないかは、そのときそのときで、各自が自己決定してよいのだし、可能なとき/不可能なときを自己申告してもよいのだ。
セクシュアル・ハラスメントが法廷闘争で闘われていた当時のことを書く中で、そもそも社会運動って何?個人と運動、個人と社会の関係はどう?ということを深く考えさせられる。フェミニズムとて例外ではない。ただし高橋さんの文章からは、フェミニズムという思想へのある種の愛情が湧き出してくるのだ。
【和光大】367.1//141
【登録】2007.05.25. -
フェミ業界の矛盾を突いた告発の書。優れた直感は優れた理論を生む、の好例。冒頭の詩は秀逸。