原爆の記憶: ヒロシマ/ナガサキの思想

著者 :
  • 慶應義塾大学出版会
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  • Amazon.co.jp ・本 (477ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784766417258

作品紹介・あらすじ

敗戦/終戦、そして原爆投下から65年。戦後の日本社会において、ヒロシマとナガサキは、一体何を象徴し、神話化してきたのか。本書では、日本の戦争被害者意識を正当化する「唯一の被爆国/被爆国民」という「集合的記憶」を構築し、自らの戦争責任や戦争犯罪に対して免罪符を与えようとしてきた日本政府やマスメディアが、被爆地をどのように表象してきたのかを詳細に分析する。原子爆弾の投下と被爆の人類史的意味を批判的に検証していくなかで、国境と世代を越えて、ヒロシマ/ナガサキを私たち自身の問題として引き受け、考えていく意義を明らかにする。

感想・レビュー・書評

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  • 奥田博子『原爆の記憶 ヒロシマ/ナガサキの思想』慶應義塾大学出版会、読了。本書は著者のいう通り「戦後日本の『平和と経済成長』神話と表裏一体にある『唯一の被爆国/被爆国民』神話の解体をめざすもの」。「唯一の被爆国・被爆国民」の「脱構築」の可能性を探る歴史的考察。おすすめ☆4

    著者が注目するのは1945年、敗戦で始まる政府とメディアのレトリック戦略を腑分けする。「聖断」に端緒する「敗戦」から「終戦」へ、そして「国難」意識の創造。この戦略が加害責任や戦争責任とは反対の被害者意識に重心移動する原点となる。

    1945年とは、アジアにとって「戦争の終焉であり、独立をめぐる闘争の始まり」、日本は「『廃墟からの復興』という『大きな物語』のなかで、戦争の歴史の消失点であり続けている」。広島・長崎の惨事も被害・受難と復興・平和の象徴へ転位される。

    都合のよいナショナルな「唯一の被爆国・被爆国民」の眼差しは、朝鮮人・中国人をはじめとする外国人被爆者の存在をスルーする。当然、偏頗な被害者意識に準拠する内向きの反核・平和運動にも限界が存在する。

    「私たち一人ひとりがヒバクシャであることを自覚する時、…人類という連帯の輪を拡げる原点になるだろう」。大部で難解な著作だが、筆者の検討と指摘は、広島と長崎の意義を人類史的文脈に正しく定位させようとする挑戦である。了。

    奥田博子『原爆の記憶 ヒロシマ/ナガサキの思想』慶應義塾大学出版会、2010年。慶應義塾出版会による作品案内。 http://www.keio-up.co.jp/kup/sp/genbaku/ 「なぜ、いま、原爆をあらためて考える必要があるのか?」との著者による特別寄稿があります。

  •  読み終えてなお、この本はいったい何を伝えるために書かれたのか、という問いが頭から離れない。そもそも表題がミスリーディングであろう。まず、本書は「原爆の記憶」と謳ってあるが、そこに記憶そのものについての踏み込んだ省察は見られず、記憶の理論に関しては、アルヴァクスの集合的記憶の理論がほぼそのまま下敷きになっていると見てよい。そして実質的には、「原爆」に関する──「国民的」記憶とも重なる──集合的記憶が、どのように形成されたか、記憶の表象としての言説を分析する議論が、大部の本書の議論の大半を占めている。それゆえ、むしろ『「原爆の記憶」の形成史』とでも銘打ったほうが、よほど内容に合致していよう。
     しかし、本書がそれでも「原爆の記憶」という表題になっているのは、著者がマス・メディア分析的な議論を越えた何かを伝えたかったからなのであろうし、そのことが「ヒロシマ/ナガサキの思想」という副題に表われているのかもしれない。その何かとは、一つには「原爆の記憶」を脱国籍化し、「唯一の被爆国」神話を乗り越えて、世界中のヒバクシャたちの経験と呼応させながら、アクチュアルなものとして捉え返そうという著者の思想と思われる。その基本線自体には異論はない。ただ、それがどのようにして可能か、という問題に関する考察には不十分な点を感じないわけにはいかない。
     このような、世界中のヒバクシャたちに開かれた「原爆の記憶」を、という主張の核心にあるのが、本書第8章に導入される「積分の論理」であるが、これが本書で幾たびか援用されるベンヤミンの歴史哲学がまさに批判した、歴史主義の加算的累積の論理に意図せずして近づいているように思われる。ベンヤミンはたしかに、「全面的で何一つ欠けることのない(integral=積分的)アクチュアリティの世界」をもたらす想起を「メシア的」救出と結びつけた。しかし、その前提にあるのは、痕跡や証言を通して未知の過去と期せずして、時に戦慄とともに遭遇する無意志的な想起であり、またそこから一つの出来事を、すでに語られた歴史の連続を打ち砕いて取り出すような「歴史の微分」である。そして、こうして呼び覚まされた一つの記憶が他の記憶と星座のように布置を形成するところから、言わば積分が始まるわけだが、それがどのような経験に、さらには歴史のどのような捉え直しにもとづくのか、本書はほとんど語っていないに等しい。書かれているのは、証言を「聞く」こととそこにあるものを「問う」ことをめぐる、掘り下げに欠けると思われる議論と、教科書記述や、記念碑および遺跡保存をめぐる当たり障りのない議論だけである。
     その末に語られる結論がほとんどそれまでの記述の要約であることが、本書の思想的な議論の浅さを物語っているのではないだろうか。最後に語られる長崎と広島の被爆者たちの証言からの引用の羅列は、それぞれの言葉自体の訴求力はあるとはいえ、取って付けたようにしか見えない。校正も不十分で、広島の人々の琴線に障るかもしれない誤植も多々見られる。地名や人名の誤記は、場と深く結びついた「記憶」を扱う書物としては致命的ではないだろうか。なお、「ヴォルター」というのは、ベンヤミンのファースト・ネームの片仮名表記として、これまで見たなかで最もいびつである。
     言説史としてはそれなりによく調べてあると見えるだけに、こうした問題があるのは惜しまれる。資料集としての価値は高い──ただそれを検討する議論を延々と読むのには正直骨が折れた──と思われるが、それ以上のものを求めるとなると、実質性に欠けると言わざるをえない。ただ、すでに新聞などのメディアで大きく取り上げられているので、また場をあらためて、内容を批判的に検討する必要があるものと考えられる。

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著者プロフィール

【訳者】奥田 博子(おくだ・ひろこ)
関東学院大学教授。東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻博士課程単位取得退学。ノースウエスタン大学にてPh.D.取得。著書に『原爆の記憶』(慶應義塾大学出版会、2010年)、論文に"China's 'Peaceful Rise/Peaceful Development'"(2016年)、"Analyzing Public Diplomacy for Japan-U.S. Reconciliation"(2019年)などがある。

「2023年 『ポスト・ファシズムの日本』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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